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葉子、と。

街に、黄色


 葉子が彼女の存在を知ったのは三年前、父が腎臓の具合を悪くして入院した時だった。
 毎日、着替えや差し入れを持って母と交代で通っていた病院は大きく、入院生活に必要な大抵のものは病院1階にテナントとして入っているコンビニで買うことができたのだけれど、葉子は自分の昼食をとうとうそこで買うことができなかった。父が厳しい食事制限を受けていて、母がそれにつきあうように塩分の少ない野菜中心の食事に切り替えて(「ちょうどいい機会だからお母さんもダイエットしようっと」)いたからである。葉子はなんだか一人だけ「気ままな」食事をとってはいけない気になっていたのだった。そんなふうだったから昼食時になると葉子は気詰まりになって病院の外に出ていた。

 官庁街なので多くの食堂があり、弁当の路上販売もあった。結局その弁当を葉子は日替わりで選んでいた。
 病院の前は短いけれど片側三車線の広い通りである。突き当たりに府庁があり、通りの東側のほとんどをその病院が占めていた。立派なケヤキ並木が二車線と三車線の間に続いていて、路上では一日中木陰が揺れていた。その威容のために車がおもわずスピードを落とす、欅のドーム のような通りだった。そんな欅の根元のベンチで葉子は弁当を食べていたのだった。

 病院は南北に三つの大きな病棟で構成されていて、葉子の父はまん中の病棟の五階に入院していた。
 ある日の午前11時半。葉子は弁当を買うために早めに外に出た。前の晩、葉子は母から「たまたまみつけた素敵なお弁当」のことを聞いていたのだ。
「あなたぐらいの年の若い女の人でね。いいのよ。無農薬のお野菜だけでつくっているお弁当なのよ。ただあのあたりは路上販売は午前11時半からという決まりになってるの。でね、売り出すとすぐに売り切れちゃうみたい。昨日なんか、おかあさんは買えなかったんだから」

 目印は大きな緑色のパラソルと黄色いリヤカー。葉子は母のその言葉をアタマのなかでで反芻しながら、通りを見渡した。いたるところに弁当屋がいる。
 見つけた。
 そこは歩道でも車道でもない並木の立っている分離帯。彼女はレモンイエローに塗ったリヤカーを駐めて、キャンプで使いそうなとても大きなパラソルを組み立てていた。


 細いジーンズ、白い大きなシャツ、バスケットシューズ、うしろでまとめられた真っ黒の髪。そんな後ろ姿に向かって葉子は近づいていった。
…あのうお弁当、いいですか…
 と、声をかけるつもりだったのだけれど、どこにいたのか、目の前をパジャマ姿の患者や、一車線を潰すように止まっているタクシー運転手や、入院患者の付き添いとおもわれるサンダル履きのおばさんたちが葉子の前に重なるように入ってきた。
「準備中やのにごめんねえ。またお弁当ちょうだい」
「わしも」
「うちにも」
「ぼくも」
「ああ、あの私も」葉子も後ろからつられていってしまった。
「ははは、ここのんは早よ言わな売り切れてしまうさかい。ははは」
 おばさんが振り返りながら葉子にいった。
「はいはい。いつもありがとうございます」
 そう言いながらこちらを向いた伏し目がちの彼女の顔はまだ20歳代のようにみえた。
 彼女はパラソルを組み立て、リヤカーの商品にかけていた生成りの布をとった。プラスチックの弁当箱がきちんと収まっている。輪ゴムがかけられ、割り箸が添えられている。

 すぐに並んだ順番で売れていった。葉子の番だ。
「えーっと、種類は…」
「野菜を使った精進弁当一種類だけなんですよ。よろしいですか」
「はい、それ下さい」
「すみませんねえ、手作りなもので種類がなくて…」
 お弁当を手渡されて、リヤカーの中を覗くと数が少ない。20個ぐらいしか持ってきていないように葉子には思えた。

「へえ、それおいしそうやん。食べてみたいな」
 それまで話を聴いていた亨が口を開いた。亨は月曜日だけれど日曜日に出勤した代休。家でごろんとしていた。
「ほんまに一人でつくってはったんやろねえ、それからも売ってる数が増えたようにはみえへんかったし」
「あれ?こないだたしかあそこで事故なかった?」
「いや知らへんけど」
「たしか車椅子の人が弁当を売ってはる人のワゴンにぶつけられてん。だからワゴン車での路肩販売は全部禁止になったと思うよ。手売りの人たちも歩道では禁止。たしかにあのへん走っていて危ないな、と何度か感じたもん…。病院の隣は警察本部やから禁止の指導は厳しかったんちゃうかな」
「ほならもう、いてはれへんかも」

「葉子見にいこ」そういって亨はたちあがった。
「あかんかったら他所でこうたらええやん」


 十一時過ぎに二人は自転車で家を出た。空は曇りがち。蒸し暑かった。
 ゆっくりゆっくりと南へ。そして細い通りを東へ。二人は碁盤の目の街ををL字に進んでいった。病院手前の、最後の大通りで信号を待っていると、まっすぐ前でリヤカーを手で引いている女性がいた。
 亨が葉子に声をかける。
 葉子は黙っておおきく肯いた。
 信号を渡って、二人はそっと彼女の後ろについた。それほど大きくないリヤカーで、大きなアルミの箱のようだった。胴体はレモンイエローにペイントされていて、上には緑色の大きなパラソルがたたんで載せられていた。彼女はグレーのTシャツに黒い細身のジーンズ。モカシンの靴をはいている。
…なんだかたった今、普通の家からでてきたみたい…と亨は思った。

 時間が早いので、二人は、するするとそのまま彼女を追い抜きケーキ屋さんによった。食後のものを先に買ってから病院の自転車置き場に自転車を置き、急いで病院前へいった。

「あら」と葉子は言ったきり次の言葉を失った。
 確かにワゴン車はいなくなり路上でも弁当は売っていなかったけれど、欅並木の下の分離帯のスペースというスペースに弁当屋がいたのである。みなリヤカーである。みな緑のパラソルを広げている。
「こんなことになってるなんて。昔はあの人が分離帯に一人だけだったのに…」
「葉子、黄色、黄色」
 ふたりで歩きながら黄色いリヤカーを探した。わりと早くに見つかったのだけれど、ぴたりともう一台のリヤカーが横付けしていて、やはり大きな緑のパラソルを広げている。

「はいはいいらっしゃい。いろいろありますよ。焼肉、生姜焼き、これは天ぷら、ね」
 おばさんが威勢よく声をかけてくる。
 立ち並ぶ弁当屋のリヤカーのなかに黄色が見えた。その横で彼女が俯いてカバーをとっている。
 亨が威勢のいいおばさんの脇をすり抜けながら
「お弁当二つください」
「ありがとうございます」
 彼女が顔を上げた。
 三年前と少しも変わっていない、と葉子は思った。野菜の天ぷら、煮物、お浸し…それと生麩!
「あのう、よかったら『ごはん大盛』はいかがですか」
「あ、大盛あるんだ。いいですよ。いくらです」

「同じです」
「同じ??」
「ご飯炊き過ぎちゃって。てへへ。大盛が二つだけできちゃって」
「はあ」
 彼女は照れくさそうに苦笑いをした。
「ずっと一人でやってはるんですよね」
「そうです。あ、以前にも?」
「はい」
「ありがとうございます。相変わらず一種類しかできなくて…」
「おいしいって評判ですよ」
 彼女の頬が少し赤らんだ。
「へへ」

 そういっている間にパシャマ姿のおばあさんが来たり、わざわざ車を降りて買い求めに来る人がいる。どうやら今でも数は少なく、リヤカーに二段重ねた分で完売のようである。そうなるまでそれほど時間もかからないように葉子たちには思えた。隣のおばさんの大きめのリヤカーには各種の弁当が満載されていて、そちらも売れていっている。しかし、通り全体ではとんでもない過当競争だ。

 葉子と亨は弁当を持って通りを渡り、ずらりと並ぶ弁当屋たちを見た。そのなかに一つだけ黄色のリヤカーがある。それはずっと変わらない彼女の位置を示しているようだった。葉子には誰も奪えない彼女の色のように思えた。
 薄い、ぼんやりとした、だけどしっかりと目に残る黄色なのだった。

                            (了)

つばめ





 梅雨の中休みのような日差しの中、葉子は午前中に買い物にでかけた。
 北から涼しい風が通りを吹きぬけている。昨日のような雨の日は寺や神社の境内の森にこもっている鳥たちが、今日は元気よく街を飛び回っていた。
 この街は山に近いせいか鳥が多い。カラス、鳩、雀以外にもウグイス、キツツキ、メジロ、ヒヨドリなどがいて、お寺の池には鴨とアヒルがいた。

 葉子は肉屋の前の路上、高さ3メートルほどの宙空で、ツバメがくるくるとせわしなく旋回しているのをみつけた。商店街の低空を猛スピードで滑空していくツバメの姿をよく見るのだけれど、そのような飛び方を見るのは初めてだった。

 ちょうどそちらに行くところだったので、ツバメをずっと目で追いながら近づいていった。するとツバメはすっと、はす向かいの文房具店の軒先の庇の裏に飛び込んだ。
 そのままでてこない。
 …巣やわ!!…
 葉子はそう直感すると、文房具店の赤いビニールの庇の下に入って壁との間を仰ぎ見た。
 巣があった。
 雛は相当大きくなっている。口を開けて帰ってきた母鳥にむかって懸命に鳴いている。
 二、三分だろうか、じっと巣を見上げていると、傍らに文房具店のお婆さんがいつのまにか並んで立っていた。
「雛、もう大きいでっしゃろ」
「ええ」
 二人とも巣を見上げたまま言葉を交わした。
「寒うなったら暖かいとこまで飛んでいかんならんし、早う大きうなって、体力つけて、飛ぶ稽古をせなねえ」

「ほんまにそうですね」
 そういいながら葉子が顔を横に向けると、背の低いお婆さんの頭越しに扉が半開きになった店内が覗けた。葉子はこの店に入ったことはない。

「うちには毎年来はるの。毎年来てここに巣をつくらはんの」
 おばあさんは困ったような顔をしながら、ふほほほと笑う。
 店内は静かだ。この時刻だから、というよりもいつも暇なような雰囲気がしている。この街に限ったことではないのだけれど子供の数がどんどん減っていて、この地区でも小学校の統廃合の計画があるぐらいだ。その影響を受けているのだろうか。葉子はそんなことをちらりと考えた。
「ところで奥さん、万年筆は使わはりますか」
 いきなり話題が変わって葉子は言葉につまる。おばあさんは葉子の顔をしっかりと見つめている。
「あ、あの、手紙はぜんぶ万年筆です。え、え、だけど…」
「おお!!実はうちは万年筆の修理もしますねん。というかそれが専門ですねん。簡単な修理やったらうちでしまっさかい、何かお困りのこととか…」
「わかりましたわかりました。何かあったらお願いしますね」
「はいはい。いつでもどうぞ。メーカーの人もここには来てくれますん。だから大抵のことはできまっさかい」

 葉子はもう一度ツバメの巣を見上げた、赤いビニールの庇で守られてはいるけれど、そのビニールは色あせて古びている。その庇を支える白い鉄パイプと壁の間に巣が作られていて、相変わらず雛たちが鳴いていた。
「だけど、しょっちゅう肉屋さんに来てるのに、全然気がつきませんでした」
「あのねえ、年寄りのたわごとやおもて聞いてくださいな。このツバメがね、奥さんみたいな万年筆を使う人を呼んでくれているみたいですねん」
「ふふ、いいですね」
「いや、ほんまにそうなんです」
 お婆さんが店の中を振りかえった。狭い店の一番奥は上がりかまちになっていて、そこ誰かが腰をおろしていた。
「波多野君!!」 
「あら、お知り合いで」

 葉子は波多野と並んでおばあさんの(鴻巣さんという)いれてくれたお茶をいただきながら、二人の話を聴いた。
 波多野もやはりツバメの巣に気がついて店の下で見上げているところを、お婆さんから声をかけられたという。ただし、去年のことだ。
 旦那さんは三年前になくなっいて、お店はお婆さん一人でやっているということ。二人で店をやっている時から万年筆とガラスペンの品揃えでは有名だったということ。そんな話がお婆さん口から淀みなくながれた。

「ぼくも万年筆が好きなんですけど、ウォーターマンのカートリッジは大学の生協にもなくて、街のまん中まで買いに行かなきゃならなかったんです」
「わたしはシェーファー。それにモンブランのも街にいかなきゃね」

「なんでもありますよお」
 そういいながら、おばあさんが「ジャポニカ学習帳」のならんだ棚の下の引き出しを開けてみせた。葉子はたちあがって覗き込んでみる。ずらりと各メーカーのカートリッジが入っていた。
「凄い」
「こっちもね」と、いって隣の引き出しを開けるとインク壜がずらりと入っていた。もちろんコンバーターもある。
「でね」と、こんどは水性ボールペンの棚の裏へ手招きする。

 そこにはぴかぴかのガラスのショーケースがあり、ガラスを練り上げたようなガラスペンが何本も並んでいた。その横には万年筆が並んでいる。そこは狭い店内でも特別な場所という雰囲気が漂っていた。
「わあ」
「メーカーの人もきはる、ていうたでしょ。ガラスペンは主人が力いれてたの。好きでねえ。私は万年筆。おすすめは国産どす。漢字と仮名にはね。書きやすいわよ。それとメンテナンスもね」
 おばあさんは老眼鏡の奧の大きな目をきらきらさせている。

「ぼくはおばあさんに勧められてガラスペン買ったんですよ」と波多野。
「へえ、でもインクがすぐ切れるでしょ」
「いや、それが結構もつんですよ。こうインク壷につけるでしょ、毛細管でインクがするすると上がってね。インクが減って、またつけて。それがリズムになったりするし。うん、いいですよ。」
「そうなんだ」
「そうどす。最近は硬質ガラスのしっかりしたものがありまっさかい綺麗な字が書けますよお」とおばあさん。

「今日は何か買ったの?」
「今日は買ってないけどノートや原稿用紙もこの店で買いますよ。ツバメも気になるんで時々覗いてたんです。そのうちにこうしておばあさんがお茶をいれてくれるようになって、いつのまにか用がなくても時々、話をしに来るようになって。おばあさんがしんどそうだったり用事の時は店番も時々してます。ぽつぽつですけど万年筆の愛好家が来るんですよ。うちの大学の教授もいます」
「ねえ、こんな男前の学生さんが、ばあさんの相手してくれはるんですよ」
 そういっておばあさんは、ふほほほほ、と笑う。
「ツバメのことも気になるし私も覗こうかしら」
「どうぞどうぞ」
「僕だけだとうるさい人もいるらしいし」


「なにか?」
「いやあ最近近所の年寄りが、鴻巣はんのところはツバメだけやのうて、人間の『ツバメ』も手にいれはったっていいよりますねん。ふほほほ。そやろ?波多野はん」


 三人は並んで座り、そろって笑った。
 視線の先の店先では雛がまだ鳴いている。

                           (了)


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