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葉子、と。

マリア


「スズキミツエさんをお願いします」
 振り絞るような老人の声がまた電話口から聞こえた。夜、十時。今週に入って四度目の同じ電話である。


 月曜日。最初に出た葉子は「どちらにおかけです。違いますよお」といって切った。続けてかかってこなかったので気にはしなかった。
 火曜日の夜、再びかかってきた。相手の言葉はまったく同じで、葉子は同じように応対し電話を切った。けれど、その話を聞いた時、葉子の表情に不安な気持ちが少ししみ出してきているのに亨は気づいた。
 水曜日。電話に出たのは亨だった。相手の語る内容は同じ。
 亨は何も言わずに切った。切ったけれども震える声が耳の底に残った。


 最初の言葉が「スズキミツエさんをお願いします」なので、同一人物なのだろうと二人は考えた。しかしそれ以上はいろいろと推理してみても、おそらく老人の男性であろうことぐらいしか考えつかない。

「何かを伝えたいんやろね」
「ボケてるかもしれないな」
「最初に女の私が出たから何度もかけてくるのかしら」
「葉子を『ミツエ』と思いこんで」
「そう」


 そして四度目である。
 …このままではまたかかってくる。はっきりさせておいた方がいい…
 受話器を握ったまま亨はそう考えた。
 亨はしゃべってみることにした。
「何番におかけです?」
「………」
「こちらはXXX-XXXXですよ。間違えてませんか」
「………」
「誰か家の方はおられませんか」
 受話器を叩きつけたくなるのを堪えながら亨はいった。
 返事がないまま、受話器の中でブザーのような音がする。…公衆電話だ…。
「ミツエさんをお願いします」と再び老人の声。
 がちゃん。硬貨が追加されたようだ。
「お願いも何も、ここは違います。どうしたんです。ねえお爺さん、そんな切なそうな声出されても、こっちは迷惑なんです」
 亨は電話器のモニター画面にでている相手の番号をメモして切ろうとした。
…後でこちらからかけてみよう、何かわかるかもしれない…
「ミツエさんの珈琲を…」
 老人とおぼしき男の声は泣いていた。
「はっ?」
「あ イイクラさん どうしました」
 遠くからそんな声が聞こえて、床を早足で近づいてくる靴音が聞こえ、やがてその声が受話器に出た。女性の声だった。
「もしもし。あ、夜分すみません、こちらXX病院です。わたくし看護士の鈴木と申します。そちらは?」
「あの、そちらの老人から電話が続けてかかってきて困ってるんですけど」
「あ…はい…ほんとうに申し訳ありません。この方はうちの入院患者さんなんです」
 
 そこは病院に付属するホスピスだった。老人は人生の末期を迎えるべく入所しているとのこと。普段はしっかりとしているのだけれど、極々希に、理解に苦しむような行動をとることがあるのだという。この電話もそのうちの一つのようだけれど、単なるいたずら電話ではなさそうだ。

「差し支えなければ 何といっていたのか教えていただけないでしょうか」
「最初は『ミツエさんをお願いします』といっいて、さっきは珈琲がどうとか」
 電話の向こうで溜息をつくのが聞こえた。
「やっぱり…。これが初めてではないのです。私どもも調べたんですが…あの失礼ですけど、スズキミツエさんのご親族の方ではおられませんよね」
「違います」
「その方の珈琲をのみたいらしいのです。人生の最後近くになって突然それを思いだしたみたいで。うろ覚えの電話番号をかけては間違えて。その番号の組み合わせをかえてはかけてるみたいなんです」
「家族の方はおられないんですか」
「まったくお独りの方です。…あの、電話は二度とかけないようにこちらでしっかり管理いたしますので、申し訳ございません。どうかここはお納めいただけないでしょうか」
「ええ。うちは電話がかかってこなければいいんですから」
 亨は看護士の声の後ろのほうで、ゆっくりと立ち去っていくスリッパの音を聞いた。途端に、何かたまらなく虚しい気持が亨を襲っていた。
  
 もう夜も更けていたけれど、一段落がついたので、ふたりはホットミルクを飲みながら少しだけ話した。
「ホスピスといえば…治癒の見込みのない人…といっていいのかな。そういう人たちが人生の末期を過ごす場所として選択する場所だよね」
「知ってる。あそこのホスピス有名だもの。だけど、入るのに大変な額のお金がいるみたいよ」
「孤独な資産家なのかな」
「謎のスズキミツエさん」
「昔の彼女かな」
「なんだかさみしいね」
 12月になって電話は二度とかかってこなくなった。


 土曜日の夕方。
 仕事を終え、亨は五条通を走っていた。春日通りとの交差点につくと巨大なイルミネーションのドームが姿を現した。ここから南へ、数ブロック先まではローム社本社の敷地である。
 11月の終わりからクリスマスまで敷地内はイルミネーションが溢れ、光の海になる。その入口にあたる五条通と春日通りの交差点の角には、巨大なドーム型のモニュメントが建つ。ちょうど五角形を貼り合わせたようなドームで、その上を青白いLED(光半導体)がロープのように走っているのだった。
 イルミネーションを見る車で五条通は渋滞していた。そのために二度の信号待ちをしなければならなかったけれど、その間に亨はケータイでそのイルミネーションを撮影しておいた。


「まるで外側に『星』を貼り付けたプラネタリウムみたい」
 家で、亨のケータイの画像を見ながら葉子が言う。
「これ樹を中心にして建ててるんだよ。まだ見たこと無い?」
「ない」
「いく?」
「いく!」

 食事を済ませてから、二人は出かけた。
 20分ほどで五条通に着いた。少なくなったとはいえ、まだ車が列をなしていた。二人を乗せた車はその流れに乗り、ゆっくりと春日通りを南下していった。

「凄いね」
「多分、京都では一番規模が大きいはずだよ」
「そうやろねえ」
 時々溜息をつく葉子の顔は、車窓から外を向いたままだ。

 あたり一面に光り輝いているLEDはローム社の製品でもあるので、デモンストレーションの意味もあるのだろう、灯りはこれでもかというぐらいに豪奢である。
 途中、光の池のようになっている本社玄関前を横目に見ながら、車は花屋町通まで出る。そこで車をUターンさせて、北上しながらもう一度イルミネーションを味わった。

 通りには人々が灯りを見上げながら歩いている。家族と、恋人と、老夫婦で、犬と、いろんな組み合わせの人たちが歩いている。葉子は車椅子の老人が若い女性に押されて進んでいるのを見かけた。老人が口を半開きにし、眼を細めてイルミネーションを見上げていた。

「あの電話の老人、イイクラさんだっけ、あの人はクリスマスに何か見ることが出来るのかしら」
「あそこはカソリック系の病院だから、きっと病院内に何か飾り付けもしてあるよ」
「独りなのよね」
「そう」

 駐車スペースもないので、車はそのまま北上した。
「強い光を見た後だから街全体が暗くみえる」と葉子が言う。
「そういえばこの先に修道院があるよ」と亨。
 車は直進を続けた。丸太町を越えて通りの名前が佐井通りに変わり、さらに北へ進む。やがて踏切を渡ると、そのむこうに大きなグランド現れた。カソリック修道会が運営する中学高等学校である。左手に学校、右手に教会をみながら車は進んだ。他の車はほとんど走っていない。

 修道院にもクリスマス月間ということで、立木に色の塗られた電球がいくつか飾り付けられていた。それは今、二人が見てきた最先端のテクノロジーを駆使した光の洪水ではなくて、闇に押し潰されそうなほどの小さな光である。
「こういうのもいいよね。静かで」と葉子が言う。
 道には誰も歩いていない。さらに車を進めると学校側のずっと奧に光の塊が見えた。校舎とグランドの間は石畳の道があって、開放されていた。その途中で車を止めて二人は光へ歩いていった。

 校舎の中央はまるで教会のような造りになっていて、大きなステンドグラスを透かして光が外へこぼれていた。その横にはヒマラヤスギのような樹が一本だけあって、樹全体が電球でデコレートされている。光の塊にみえたのはこれだった。凄まじいばかりの光を見てきた二人にはあまり感じるものがない。

「これね、樹が小さくなったんだ」
「どういうこと。先端を切ったの」
「ううん。前の樹が枯れちゃったんだよ。枯らしたようにも見えたけどね」
「じゃあこれは若い樹」
「うん。春に植え替えていたのを車から見たんだ」
「樹には良くないのかしら」
「どうなんだろうね。幹を電飾でぐるぐる巻にして、そのうえ枝にも全部だもんね」

 二人はさらに石畳を進んだ左側の闇に小さな光のアーチがあるのに気がついた。樹を離れてそちらに歩いていくと、それがマリア像を囲む電球によるシンプルな飾り付けだとわかった。葉子は亨の腕に自分の腕を絡ませ、ぴたりと身体を寄せた。

「うーさむい」と葉子。
 目の前には幼いイエスを抱くマリアの等身大の立像があった。
「あの爺さんの病院にもマリア像、あるんだろうな」

 亨は震える声を思いだした。もうイイクラ老人は寝ただろうか。そして「スズキミツエ」の夢を見ているのだろうか。
 その時、亨は看護士の名前も「鈴木」だったことに気がついた。ひょっとしたら老人の記憶が混乱して、一番頼りになる女性、あるいは好意を寄せている女性の名前が「鈴木」にすり替わっているのかもしれない。
 だとしたら…。
 それこそ「スズキミツエ」はいくら捜してもみつからない。永遠の謎のままだ。だけど老人の中で美しいマドンナの像が結ばれて、そのまま記憶が閉じられる方が…。

「手を合わせたら、おかしい?」
 ふいに葉子がいった。
「そんなことないよ。葉子の気持ちなんやから」
「なにかをお願いするとかそういうんじゃなくて、ただ手を合わせたい気持になったの」 亨は黙って肯いた。葉子は手を合わせて目を瞑る。

 夜は更けていく。雪が降りそうな気配が夜空にはあって、マリア像の頬はてらてらと輝き続けていた。  

     

午前5時、上村満江の一日は珈琲豆を碾くことから始まる。ミルは外側が樽型の木製で中に金属の箱が埋め込まれている。若い頃からずっと使い続けているものだ。
 そのミルをゆっくりと回す。歳をとってからはさすがに掌が痛いけれど、だからといって、キッチンカウンターの下に収納してある電動ミルを使う気にはならない。よかれと思って購入したものの、モーター音のけたたましさに一度使っただけで片づけてしまった。自分が大好きな朝の静けさを自分自身の手で壊すわけにはいかないと思ったからだ。
 
 
 コンロには鍋がかけられていて、傍らでは珈琲を淹れるための長い注ぎ口のポットが鍋からのお湯を待っている。年金生活者になってからも変わらない朝の習慣が進行していく。
 ダイニングキッチンと六畳一間のアパート暮らし。5つ年上の夫が亡くなってから、身寄りのない老人として、身の回りを整理し、晩年を過ごすべく、このアパートに引っ越してきたのは65歳の時だった。生活用品、什器、たくさんあった本もレコードもほとんど始末し、本当に大切にしたいいくつかだけを手もとに置いていた。ステレオセットも処分し、今はCDラジカセだけである。
 サイドテーブルの上に置いたそのCDラジカセから毎朝必ず聴いている音楽が小さなヴォリュームで流れていた。”I`ll be seeing you”。ビリー・ホリディの歌である。

 働きだした若い頃から好きな歌だった。きっかけは、たまたまジャズ・クラブで聴いた男性シンガーの声だった。たちまち魅了され、そのライヴに通い詰めるうちに二人は言葉を交わし始めるようになった。そして、売れないジャズヴォーカリストの彼が彼女のアパートに転がり込み生活を共にするようになった。もちろん毎朝その男といっしょにコーヒーを飲んでいた。ちょうど今とおなじくらいの時間に。
 彼女はその声に「天分」を感じていた。そんな男の声を聴いたことがなかったし、彼の唄うバラードには抗しきれない魔力を感じていた。その彼が持っていたレコードがビリー・ホリデイのもので、彼は毎日繰り返し繰り返し聞き、その唄をコピーしていた。
 ビリー・ホリデイは女性である。彼は女の声を持つ男だった。
 
 「女の声」はカールマン症候群という病気のためで、彼はまるで「その声」と引き替えのように身体の成長が大人の手前で止まってしまっていた。それ故、ちいさい頃からの偏見と虐めによって彼の精神状態は不安定なままだったらしいのだけれど、歌が自分を救ってくれた、と彼は彼女に何度も語ったものだった。
 事実、歌っている彼は堂々と輝いていて、部屋に一緒にいる時はいつも穏やかな時間が流れていた、と満江は感じていたし、今でもそう思っている。
 彼女はある程度働きながら支えていく覚悟を決めようとしていたのだけれど、声を糧として生きていこうと決めていた彼が次第に有名になり、よりメジャーな舞台である東京へと出て行くことが決まった時、二人の関係は終わりを迎えたのだった。彼女はこの街に残り、近郊に住む両親から離れないことを選んだのだ。それまで出会ってから僅か一年間の出来事だった。
 

 彼のヴォーカルはは東京でも評判を呼んだらしい。しかしCDが発売されることもなく、ライヴの情報も途絶え、時たまあった連絡もとうとうなくなった。
 それから長い月日が過ぎた。彼女は結婚し、病院の事務職を定年まで働き退職した。子供はいない。

 まだビリー・ホリディのCDはあり、時々、彼の残していったライヴのテープも聴く。あの声だけは本当に凄いと今でも思っていた。最近、カセットが壊れて聞けなくなってしまっているけれど。


 満江は珈琲を飲みながら白い紙と鉛筆をテーブルに用意する。
 「猫の系図」を書くのだ。

 満江はこのアパートに引っ越してきてから、物干しにやってくる野良猫の世話をずっと続けている。室内で飼うことは禁じられているけれど、大家が物干しで面倒を見ることは許してくれたのだ。
 猫というのは不思議だ、と満江は思う。まるで援助してくれる人間が判るかのように、その前に姿を現すからだ。そしてふいに現れるのと同じように、ふいに消える。それも不思議だった。子猫を引きつれて現れることもあったし、そのまま置いていくこともあった。それも謎。だけど満江は猫の姿を見るとかまわずにはいられないぐらい猫が好きだった。

 先月、アパートの一階に引っ越してきた、やはり独居老人の葛原典子も大の猫好きで、猫がやはりそれを見逃すはずもなく、やがて老女二人は塀づたいに垂直に行き来する猫たちに引き合わされることになった。
 今、面倒を見ている猫は5匹。姉弟、従兄が入り交じっていて、亡くなった猫も含めてその関係を典子に教えてやるための系図づくりである。

 満江が嬉しかったのは、葛原典子が猫好きなばかりでなく、ジャズも好きだったこと。
 葛原の部屋に招かれてお茶をよばれた時、部屋にはジャズが低いヴォリュームで流れていて、満江が毎朝ビリー・ホリデイを聴いている、と告げると典子は目を丸くして大喜びしたのだった。
「婆さんのジャズファンなんて若い子には想像もつかないんだろうけれど、私は若い頃、山下洋輔の追っかけだったんだから」
 そういう66歳の典子と満江はすぐに友達になった。
  

「こんにちは」
 玄関で声がする。満江が扉を開けると近所の電器店の若い子が立っていた。
「ラジカセの修理ってことで伺ったんですけど」
 

 亨がCDラジカセの修理依頼の電話を受けて上村満江の部屋にやってきたのだった。部屋に上がり、ラジカセを点検する。
「ファンクションキーがバカになってますね」
「そうなのよラジオからCDに戻そうとしてなかなかもどんないの」
「カセットのスイッチもおかしいですね」
「それもねえ…。ここ二、三日聞けなくて…。直るかしら」
 二人の間にどちらのものか判らない溜息がこぼれた。
「あのですね、直らないことはないです。でも高くつきますよお。このラジカセクラスなら買った方が安いです」
「そんなに修理は…」
「高いです。っていうか中を全部変えないと無理なんですよ」
「困ったわねえ。聴きたいテープがあるのに…」
「カセットテープですか」
「これなの」
「これもまた古いですねえ」
「もう20年以上昔のもの。テープが摩耗するから、これまでに二回ダビングしたわ」
「オリジナルは滅茶苦茶、古いやないですか」
「はははは」
「そんなに大切なものならCDにしはったらいいのに」
「そんなのできるの」
「できますよ。何ならサービスでCDに焼きますけど」
「げえっ、CDって焼いてつくるの」
「ええ…ていうかCDに音を移し替えること、できますから」
「いくらかかるのかしら。わたしら年金生活者だから…」
「サービスでやりますよ。パソコンでできるんです。それとラジカセなら一万円以内でこれよりいいものは、いくらでもありますから」


 亨が正午にお昼に家に帰ってきた。連絡があったので葉子は昼食を二人分用意して待っていた。チーズハムトーストとオレンジジュース、バナナ、珈琲というメニュー。亨はカセットテープを自分のスタレオセットに入れて、そこからラインでパソコンに繋いでからテーブルに着いた。
「あれをCDに落としこむの?」
「うん、うちのパソコンならできるんだ。録音ソフトもあるしね」
「もうテープで聴く人も少なくなるよね」
「うん。でもお年寄りにはまだまだ多いよ」
「で、これをつくってあげてラジカセを売るわけ」
「そっ」
「まあサービスのいいこと」
「一台売るのも大変なんだから。そうやって繋いでいかなきゃね。次に冷蔵庫がイキそうだったし」
 亨は葉子の倍のスピードでチーズハムトーストを食べ、オレンジジュースをぐんぐんと飲む。
「お婆さんが大切にしているテープってどんなだろ」と葉子。
「演歌かなんかじゃないかな」
「でもそれならCDでも聞けるでしょ」
「廃盤ってのもあるし、何か大切な音源なんだろうな」
「じゅりーーー!!だったりして」
「あり得るね」

 亨はまっさらなCD-Rをパソコンにセットして、音を入れていく。その間に亨は店に行き、新品のラジカセを手にして戻ってきた。
 CDは出来あがっていた。そのCDと古いテープを手にして起ち上がろうとした時、カセットケースのラベルにちいさく鉛筆書きされたタイトルに目が留まった。

 …You don`t know what love is  飯倉隆…

「おいおいおいおい」
 亨は坐り込んで、できたばかりのCDをプレイヤーにかけた。
 ライブハウスで録音したのだろう、音の状態は悪い。イントロに続いて、まるで女のような声でバラードが流れ始めた。振り絞るような声である。それは紛れもなく、ついこないだ耳の底で震えていた電話の老人の声だった。
…葉子、これ「イイクラ」さんと違うか…そう言おうとして顔を上げると、葉子がスピーカーにじっと耳を傾けていた。

 その頃、満江の部屋では「猫の系図」の話はとうに終わっていて、二人は珈琲を啜りながらジャズの話をしていた。
「おいしいわあこの珈琲。どこのブレンド?」と典子。
「北大路堀川を東にいったところのお店で売っているの。昔からずっとそこなのよ。酸っぱくないでしょ」
 部屋には、葛原さんが持ち込んだCDラジカセからジャズ・ヴォーカルが流れている。
 典子がCDのジャケットを手にとり、読み始めた。
「そんなにのめり込むほど聴いてはいないのよ。レコードは全部整理したし、CDも少ないの。立派なオーディオセットも場所をとるだけぐらいにしか思ってなかったし」
 と、満江は言う 
「わたしはねえ、溜め込む方なのよ。今の部屋もね、壁の一面がステレオとCDで埋め尽くされてるぐらい。だけど上村さんのコレクションも立派なものじゃない。『厳選』じゃないの。ビリー・ホリディのこんなの持っている『婆さん』なんていないわよ」 と典子。
「葛原さんはどんなのが好きなの」
「ビル・エヴァンスを高校の時に聴いて好きになって…それからだから、彼のは全部持ってる。あとはビッグネームのものかな。名盤あさり、ってかんじ」
「山下洋輔、聴いてたんでしょ。凄い」
「若かった頃よねえ…正直いっちゃうと、あのパフォーマンスというか演奏スタイルにまいっちゃったの。知ってるでしょ?…うん、あの叩きつける指と歪んだ顔と角刈りの頭、ね。かっこよかったなあ。今も聴いてるの。今は今で渋いわよお。」
「ふふふ」
「あ、あ、もちろん音もよ。ライブを欠かさずに通ってたの」
「わたしもジャズクラブ。いま、手もとにないけど凄いヴォーカルを聴かせる男がいてね…。今、電器屋さんがテープをCDに入れてくれてるの」
「ああ、今はそんなこともできるんだ。聴いてみたいな」


「なんて声なの」と葉子。
「これ、電話をかけてきたイイクラ氏だよね。まさかジャズ・ヴォーカリストだとは思わなかったな。この声だもの…忘れないよ」
 葉子と亨はスピーカーの前に並んでぺたんと坐り込んでいた。
「うん、そう思う。電話ではなんだか癖のある声ぐらいにしか思わなかったけれど、わたしもずっと耳に残ってた」
「なんだかしみてくる歌だなあ。あとで病院で確かめてみるよ」
「お婆さんはスズキミツエさんなの?」
「いや上村さん。下の名前は聞いてないなあ」
「ひょっとしたら何かの事情で名前が変わったのかも」
「と、いうことはスズキミツエさんがいた、と」
「わおわお」


 新しいCDラジカセと一枚のCD-Rを満江に手渡しながら、亨は言った。
「あの、このテープのヴォーカル聴かせてもらいました。とてもいいですね」
「あら気に入っていただけたの。いいでしょう。もうずいぶんと古いですけどね」
「あの、失礼を承知で伺いますが」
「はい?」
「あの、上村さんは、ミツエさんというお名前ではないですか?」
「ええそうですが」
「以前、スズキミツエさんと名乗ってはおられませんでしたか」
「ええ」

 亨は自分の家にかかってきた間違い電話のこと、それがこの街でスズキミツエを捜している老人によるものだったこと、そしてその老人の名前が「イイクラ」であることを告げた。
「カセットケースに名前が書いてあって、あれっと思ったんです。で、声を聴いてみて間違いないと思ったんですよ。あの電話の声の老人と一緒だ、って。だってこの声は間違いようがないですよ」
 上村満江は目を見開いたまま黙っていた。黒いカーディガンに包まれ細い腕と小さな肩が少し震えていた。
「私を捜している?」
「ええ。あの東の山際にあるカソリック系のB病院のホスピスにおられます」
「何故、私を」
「ぼくの所への電話では珈琲が飲みたい、と」
 満江は言葉を探しているようだった。
「なになに、どうしたの」
 真っ赤なセーターの胸の上に丸い老眼鏡をさげて葛原典子が玄関まで出てきた。
「わけありなら、ちょっとあがんなさいよ」
 典子はまるで自分の家のように振る舞っている。

 小さな丸い卓袱台の回りに三人が坐った。まず亨が語り出した。
 B病院に問い合わせたところ、飯倉隆はかつてジャズ・ヴォーカリストだったのだけれど、上京後、身体を壊し歌をあきらめ、いろいろな仕事を経て資産家の女性と出会い、その女性と暮らしてきたのだという。その女性が亡くなると、遺言によりその資産を受け継ぎ、いくつもの飲食店を経営してきた。ところが治る見込みのない病気に冒されていることが判明して引退。今、その人生の最後の時を迎えるべく、この街に帰ってきたのだという。
「その人生の最後に満江さんの珈琲を思い出したっていうの」と典子。
「ええ、そうだと思います」
「うーん、どうなんだろう。虫がよくない?」
「もう年寄りですから言ってもいいでしょう。むかし、短い間ですけど私たち一緒に住んでたんですよ」
 満江が語り始めた。
「悪い想い出は何もないんです。そんな憎みあうとか辛い別れとかじゃなかった。別れる時もそうならないようにしようって二人で決めたぐらいだから」
「そんな、綺麗すぎるわよ、満江さん。自分の夢のために去っていった男なんでしょ」
「違うのよ、典子さん。それはそれでいいのよ。彼がメジャーな舞台で唄うことは私も望んだことだもの。それに私も結婚して、夫と一緒に飯倉さんのテープを聴いたりしていたんだもの」
「まさか『私、昔この人と…』なんて…」
「ええ言ったわよ。彼はそれでも私が好きだっていってくれた人なの」
「ねえねえ電器屋さん、その珈琲ならね北大路堀川を東へ行ったところの焙煎屋さんで売ってるからね、あんた持っていったげて」
「でも、イイクラ氏はもう長くないようなんです」
「珈琲が飲みたいんやったらその珈琲を飲んだらええのんちゃうの」   

 上村満江は飯倉隆と別れた後、結婚。それからは母もよんで三人暮らしだったという。母の介護もし、そして夫の最後も看取ったのだという。
「それから気ままな独り暮らしをしてきました。だけどもしその方が飯倉隆さんだとしてもお会いしたくはありません。私たちはあの時で終わっていますから。それにもう…歳をとりました」
 満江の目はまっすぐに亨の目を見ていた。
「だけどこのテープを大切にされてきたじゃないですか」
「だからこそ、なんです」
「ねえ、一度聴かせてくれませんか、その歌」と典子。
 亨はできたてのCDをまっさらのCDラジカセで再生した。
「綺麗な声ねえ。なにか切ない気持になるわね」
「ええ」と亨。
 上村満江は黙って飯倉隆のヴォーカルを聴いていた。

 一週間後、B病院付属ホスピスの個室で飯倉隆が珈琲を飲みながらバラードを小さな音量で聴いていた。前日、病院に珈琲と一枚のCDが届けられた。手紙が二通添えられていて、一通は飯倉隆宛、もう一通は看護士の鈴木宛だった。
 鈴木は、飯倉のために珈琲を淹れて病室へ運んだ。飯倉は黙って珈琲をのみ、同封された手紙を読んでいた。鈴木にはその手紙に何が書かれているかは判らない。けれど、部屋に流れているのが若かりし頃の飯倉隆の声であることは自分宛の手紙に書かれていた。
 鈴木はじっと飯倉の横顔を見ていた。

 45年前。冬。
 左京区一乗寺の古い映画館から オールナイトの三本立てを見た若いカップルが、早朝の街へゆっくりと出てきた。当時はやっていた任侠映画が立て続けに上映されているあいまに、珍しく「青春映画」の三本立てが組まれていたのだ。二人のお目当ては「ウエスト・サイド・ストーリー」。

 凍えそうな寒さの中、紺のピーコートと赤いチェックのマフラーの女の子が背の低いアーミージャケットを着た男の腕にしがみついている。二人の頬は紅く染まっていて、まるで浮かれるように男が歌を歌う。
 …マリア、マリア…
 透きとおった高い声に誰もが振り向いていた。
 


                        (続くよ)

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