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街函

洗顔


雨上がりの朝
春よりは一回り大きい自転車で
少年が走っていく
初めてのカーディガンを着て
少女が傘を巻いている
          
夏よりは一つ先の辻まで歩く老犬
日陰の木槿にようやく白い花
私は頬にあてる剃刀を
まっさらにする


舞台


今日は節分である。
 毎年、近所の寺でおこなわれる豆撒きなど見にいくことさえなかった花村潤一が、今年は千本釈迦堂の節分会にでかけた。休日だから、ということもあるけれど、今、潤一の右手をしっかり握りしめている娘の奈々子の一言がきっかけだった。
 今朝早く、犬と散歩に出た潤一は、近所の庭師の男性に怒鳴りつけられた。犬が庭師宅の玄関前でおしっこをしたのである。いつもなら犬を急かしてそんな場所ではさせないのに、ついぼんやりしていた。指示を仰いでいる職人たちの見ている面前で大声で「非常識な」と怒鳴りつけられたのだ。
急いで帰宅し、水を入れたバケツとデッキブラシを持ってその場へ戻った。
 言い訳のしようもない。
 水を流し、ブラシでこすった。
 同じ町内でもあり、庭師とはあえばよく口をきく。だからといって玄関先を汚されれば誰だっていい気はしないだろう。
 掃除を済ますと、なぜだかわからないが、ありがとうと庭師はいった。

 潤一は、朝食を食べながら妻の信子にことの顛末を報告した。その場では、まあ、仕方ないわねえ、という言葉であっさり落ち着いたのだが、潤一の心の中には納得しきれない黒いものがくすぶっていた。
 確かに玄関前ではあるけれど、半分以上は公道にかかっていた。確かに我が家の犬がおしっこをしたけれど、自分たちよりも早い時間、他の犬たちが何匹もしている。それをあそこまで大声で非難するだうか。
 いちばん気にくわないのは、庭師の家でも犬を飼っていることだった。その犬も町内のいたる所におしっこをひっかけている。
 …何故、あんないわれ方をするんだ…
 黒い気持が外に向けての棘になっていった。
 こんどなにか言ってきたらただじゃすまさない、とまで。

 そんな時、奈々子がしゃべり始めたのだった。
「モズク君の近所のお寺の豆撒きはピーナツやねんて」
 それも殻付きだという。モズク君は奈々子の幼稚園の同級生である。
「へえおかあさん知らんかったわ」
 信子が目玉焼きからこぼれた黄身をトーストで拭き取るようにして食べながらいった。
「あなた知ってた」
「いや」
「あのね、せんぼんしゃかどう、ゆうねん」
「ああ千本釈迦堂ね」
「ななこもピーナツほしいなあ」
「あら、ななちゃんパパといってらっしゃいよ。いいでしょ」
「ああいいよ。ところで奈々子、『モズク君』て本名なのか」
「ん?モズク君はモズク君やけど」

 団地の二階のテーブルに窓から朝日が注ぎ込んでいる。奈々子の、不思議そうに父親に向けた顔が光を放っていた。
 近所の寺の節分会は午後一時過ぎだと書かれていた、と信子が買い物帰りに見たという。
 恐らく同じ頃からだろうと見当をつけて、二人は奈々子のお昼寝のあとに家を出たのだった。
 潤一だけなら自転車で行くのだが、奈々子と二人なので、バスで停留所三つだけ南へ下がり、そこから歩いていった。西陣の町中である。
 狭い通りの両側に間口の小さな家並みが続き、うっかりすると通り過ぎてしまいそうな入口から参道を少し歩くと、入口からは想像もつかないほど広い境内があらわれる。正面には大きな本堂だ。
「奈々子、豆はあそこから撒かはるんやんで」
「うーん」
 奈々子がのびをしている。潤一は奈々子を抱きあげた。
 節分会はもう始まっていたが、豆まきは式の最後でまだまだ先だった。その前に「木遣り」の唄と年男の紹介、そして狂言による追難式がある。
 

 木遣りの唄が終わって周りを見渡すと境内一杯の人だった。
「奈々子、凄い人やねえ」
 奈々子は、言葉を返さずに頷き、舞台をじっとみあげている。
 社中による狂言が始まった。
 おかめさんの福々しさが鬼を改心させるという、この寺独特の追儺式だ。劇中の豆の撒き手に襲いかかる鬼たちの中には上下姿に鬼の面を着けた子供たちもいる。奈々子が歓声を上げて舞台の子鬼を指さしていた。
 
 狂言が終わり、延々と年男の紹介が始まった。場内がざわつきだした頃、いよいよ豆まきである。その頃には身動きがとれないほどの人だかりになっていた。
 合図と同時に豆がまかれる。なかなか手もとまでこなかったけれど、やっとこちらまで豆が飛んできた。傍らに落ちたのを見ると、落花生である。殻付きピーナッツだ。
「奈々子、ほんまやね、殻付きや」
「うん」
 ひとたび飛んできだすと、雨あられのように飛んでくる。だからといって空中に手を伸ばしていてもなかなか掴めない。潤一は奈々子を下に降ろして、地面に落ちている落花生を拾い始めた。頭にこつこつと豆があたるのもかまわず、地面に転がる落花生に、いつか夢中になって手を伸ばしていた。
 手にとってみる。…何故、殻のついた…。
 手のひらに転がった落花生は
…「あ、おかめ顔」だ…
 豆の輪郭がおかめなのだ。口元が勝手にほころんだ。ほころんだと同時に顔と心から小さな棘が抜けた気がした。
 …鬼のような顔をしていたのだろうか。
 考えてみれば朝からつまらないことをグズグズ気にし続けていたから…
 潤一は気が晴れたように感じた。
「奈々子、この豆はおかめさんなんだよ」
 返事がない。
 奈々子がいなくなっていた。

 豆撒きはそんなに長い時間かかるものではない。せいぜい10分から15分程度だ。舞台の上からは住職も寺の男も下がっていき、会は終わっていた。引き潮のように人たちが帰っていく。
 人波に逆らうようにまっすぐに立って、潤一は奈々子の名前を呼んでいた。境内のどこかにはいるはずと確信はしていたけれども、不安がじわりと心を浸し始めていた。
…パパー…
 小さな声がする。あたりに目を凝らすけれど、どこにもいない。さらにパパー、と奈々子の声がする。潤一は顔を上げた。
舞台の上に奈々子がいた。傍らには裃を着たさきほど子鬼の役をしていた男の子がいる。

「奈々子、そんなとこあがっちゃダメだよ」
 潤一は舞台の下に駆け寄った。
「パパ、モズク君」
 子鬼の面を頭の上にずらした男の子がぺこりと頭を下げた。二人はしっかりと手をつないでいる。
「こんにちは」
 潤一の顔がみるみる破れて笑いが溢れだした。
「はい、こんにちは」
 鬼はもういなくなっていた。


                            
                          (了)

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