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葉子、と。



 二月になって古い寺の山門脇で椿が咲いた。寺の山門といっても、山門の周りは静かな住宅街で、門からまっすぐ参道を20メートルほどいくと現在の境内になる。山門だけが街の中に取り残された恰好になっていた。

 山門をくぐってすぐに左に、椿と木瓜のある長方形の庭があった。それは庭というより空き地のようにみえた。山門の内側にあるどの家も参道側が塀か壁になっているためである。昔、参道に沿って垣根があったためなのだが、今では聚楽色や白が長くつづく壁の端に椿と木瓜の樹が立っているのだった。

 庭の所有者はその庭に壁が接している澤田というお婆さんである。葉子が不思議に思っているのはこの椿を町内に古くから住んでいる人たちが「鈴木さんの椿」とよぶことだった。最近、近所の立ち話で知った言葉だったから、その理由もわからないままでいた。
 澤田さんは今年で79歳になる。中学校の理科の教師を定年まで勤めあげた。夫は4年前に亡くなって、以来ずっと独り暮らし。葉子が知っているのはそこまでだった。

 三月が近づくにつれ、椿はますます赤い花を殖やしていった。背の高い樹なのでそれでなくても目をひく。しかも花が簡素なつくりの薮椿系ではなく、八重の洋椿系だったのでいっそう華やいでみえた。

 ある朝、葉子が玄関前から山門の近くまで角掃きをしていると、山門の内側から近所の土屋さんに声をかけられた。

「見事に咲いたねえ」
「そうですねえ。今年は花の数も多いようです」
「そやけどね」といって土屋さんは手に持った花に目を落とした。
「これ、今、落ちてたんを拾てみてたんやけど、蕊があれへんのよ」
「蕊?…雄しべ、雌しべですか」
「そう」
 そういって土屋さんは八重の花びらをぐいぐいと押し広げていった。椿の花弁は小さくどこまでも続いていて、最後にちいさな赤い豆ぐらいにまでなった。
「ほらね、ないでしょ。そういう花なんやろか」

 すると壁の横で戸の開く音。綿入れを着た澤田さんが出てきた。
「おはようさん。ええ天気やねえ」
「おはようございます」
「何、椿の話なの」
「ええ、この花、蕊があれへんゆうてたんです」
「ああ八重には無いのが多いから。ヤマブキでも桜でも八重咲きには雄蕊がないの」
「ああそうなんですか。なんにも知らへんもんやから。じゃあこの椿は実が出来ないんですね」
「八重でも実の出来るのもあるみたいやけど、これは無性花やったとおもうよ」
「なるほど。ねえ、雌しべもないね」
 と、土屋さんが葉子に向いて言った。
「え、そんなことないでしょ」
 そういいながら澤田さんが花を覗き込んだ。三人の視線の先に土屋さんが手で押さえている赤い豆のような花の「芯」がある。
「機能はなくしているけれど雌しべはあるのとちゃうかな」と澤田さん。

 澤田さんが「もっと剥いてみて」と言うと、土屋さんが「無理っぽいです」と、言う。「じゃあ私が」と、葉子が言うと、「私も」と、澤田さんの手が伸びた。
 三人の指が花を押さえたものだから、たまらず花びらがはらはらと落ちてしまった。
「あれま、ばらばらやわ」
と、言って土屋さんが「芯」を葉子に手渡す。葉子が親指で強くこすってみた。
 ぺろんと中味が現れた。
「あ、雌しべ」
 と、葉子が言うと二人の頭が花に覆い被さった。
「あかん。老眼鏡でもみえへん」
 土屋さんがつっかけを、ぱたぱたいわせて家に戻っていく。
「どないしました」
「拡大鏡おお」

 拡大鏡で覗くと、細かな雌しべがいっぱいに立っていた。
「こんな小さくて細かいのがあったんやね」
「ね、あるでしょ。八重咲きは雄蕊が変形してなくなっていて雌しべだけがあるのが多いの」
 と、澤田さんも納得したようだ。
「あれえ」
「どないしたん花村さん」
「これ雄蕊やないですか」
 また三人の顔が拡大鏡に近づく。
 花の芯のまんなかには、雌しべとはあきらかに色が違う、すこし大きめの黄緑の蕊が一本あった。三人が思わず顔を見あわせた。
「これは雄蕊やね」と土屋さん。
 澤田さんは、一瞬言葉につまってから「そうみたいやね」
「だけど機能はないのかもしれないですね」と葉子。

 澤田さんの手が花からすっと離れた。
「花村さん、この椿はねえ『舞鶴』っていう名前があるの。雄蕊…あったんやね。きょうは勉強になったわ」
 澤田さんはそういうと、にっこり笑って樹に向かった。花のついた小枝を折り、それを手に家に帰って行く。

「『舞鶴』…ねえ」
 土屋さんが呟くように言った。
「なにか気になることでも」
「うん。澤田さんは舞鶴出身やからね…」
「あの、土屋さん。私、前から気になってたんですけど、この椿、ご近所で『鈴木さんの椿』っていうてはらしませんか」
「ああ知らはらへんかったんやね。この椿は鈴木さんが天神さんの縁日で買わはったの」
「で、澤田さんの庭に?」
「二人は姉妹なの。鈴木さんはすぐ近くに住んでいてね。確か舞鶴からお姉さん夫婦を頼ってでてきはったんよ」
「仲がよかったんですね」
「いやあどうやろう。鈴木さんは気が強おてねえ。いうたら口も悪くて…。ほら隣に木瓜の木があるでしょ。あれも椿と一緒に植えはってね。これは姉さんの樹、ってげらげら笑わはんの」
「『ぼけ』ってことですか?」
 土屋さんは肯いた。
「だけど澤田さんは妹をとても大切にしてはったんよ。鈴木さんは難しい病気でね、京都に呼ばはったんも澤田さんで、こっちの病院に通わせはったん。でも亡くならはってねえ」
「そうなんですか」

「あ、なんだか悪いことしてしもうたんとちゃうやろか。たぶん妹さんの想い出の樹でしょう。そやのになんだか暴き立てたみたいな…」
「そんなあ。気にし過ぎやて」
「そうですか」
「そうそう、気にしんとき。そもそも名前の『舞鶴』も澤田さんがつけたんやと思うよ。自分らの出身地と同じ名前の椿や、て昔から澤田さんは言わはるんやけど、東寺の縁日で『舞鶴』ゆう椿の、花のついた苗木を見つけはった人がいたの。そしたらこれとは似ても似つかん椿やったんやて」
「そういうことがあったんですか」
「だから『鈴木さんの椿』なんよ」

 土屋さんが拡大鏡を手に家に戻り、葉子は途中の角掃きを再開した。
 ふと見上げると、木瓜にも花が咲き始めていた。淡い桃色の小さな花だった。


                           (了)

明星


 得意先の上村さんから緊急の修理要請がきたのが昨日。漏電のためにメインのブレーカーが落ちてしまったという。すでに電力会社による点検は済ませていて、漏電は家庭内配線のどこかであることは確定しているのだという。その日は手の空いていた社長が駆けつけて緊急処置を施した。

 どの家のブレーカーも漏電検知システムがついていて、漏電すると自動的にブレーカーが落ちる。ただ、容量オーバーで落ちる場合と違い、その電気がもれている箇所を治さない限りブレーカーは復旧しない。
 まず分電盤で枝別れてしている個別のブレーカーを全部切る。それからメインのブレーカーを入れる。そこから一つ一つのブレーカーを入れていって、ぽーん、と再び落ちたらそのラインのどこかから漏れていることになる。

 社長によれば漏電しているラインは一つ。一階の半分をカバーしているラインだという。生きてるラインから延長コードを引っ張り冷蔵庫と台所の灯りを確保。トイレは懐中電灯でお願いしておいた、と。

 工事は難しくなりそうだった。古い家を10年前にリフォームした時に天井の隅についていた点検孔を塞いでしまっていたのだ。天井に穴を開けなければ配線がわからない。社長と二人で上村家に出向き、午前中から作業にかかることにした。

「花村君、ひさしぶりやねえ」
 上村さんがにこにこして迎えてくれた。ぼくが高校を出てすぐに電器店に就職した時、すでに上村家はお得意さんで、ぼくはクーラーの増設、冷蔵庫の設置、スカパーのアンテナ設置など、何度もこの家に来ていた。
 上村さんは61歳の女性。一頭の犬と一緒に暮らしている。旦那さんは一昨年亡くなった。

「こんちわ。大変でしたね。何か思い当たること、ありませんか?」
「怪しいなあって前から思てるのは、ここ」
 そういって上村さんは天井を指さす。
「三年前、たぶん猫が潜り込んで歩き回ってたんよ。猫が線を囓って、出ていったんとちがうかなあ」
「そこが劣化した、と」
「そう」
「猫ですかあ。うーん、猫は線が出るまで囓るかなあ」
 社長が首をひねった。
「私のお友だちの家は、猫が電話のコードやら延長コードを噛むゆうて困ってましたよ」


「だけど感電死してへんでしょ」
「…そういえばそやね」
「ね。わたしはこんなケースで猫を見たことはないんですよ。大抵ネズミです」
 社長がきっぱりと言った。

 上村さんは犬が好きだけれど、猫も大好きで、野良猫にご飯をあげたり猫トイレを裏庭につくったりして、ずっと面倒をみてきた。どれだけの数の猫が上村家を通過していったかわからない。中には長い旅の果てにここで亡くなる猫も多く、それはそれで弔ってきたのだという。
 ぼくも社長もやはり猫が好きなのだが。

 先ず天井に点検孔を開ける作業を開始。
 社長が分電盤とブレーカーが落ちた配線の方向に見当をつけ、リビングを対角線ではさんだ両隅に孔を開けることにした。きっちり正方形に天井板を切り取り、それぞれにアルミのフレームをつける。それで着脱可能な蓋ができあがる。社長がフレームをつけている間にぼくが天井を覗いて、漏電のチェックをすることになった。

 社長の読み通り、穴から梁に沿って何本もの線がまとめられているのがみえた。
 奧の穴から見えた場所からは台所、居間のダウンライト、洗面所へ別れていっている。調べてみると漏電箇所はない。それからぼくは息を殺してゆっくりと天井の子細を点検した。ネズミとかイタチとかに遭遇するのはこういう時なのだ。生きているものは逃げていく。そうでないものはうずくまったままでいる。
 正面、左、右。異常なし。そして、もう一つの開口部へライトを回した。

 ぼくが脚立から降りると、上村さんが目を大きく見開いてまっすぐにぼくの顔を見つめてきた。
「ありました」とだけ伝える。

 蓋にアルミフレームをつけた社長がリビングの入口から入ってきた。
「どうやった」
「多分猫です。遺骨がありました。だけど線は綺麗です。まったく囓られていません。社長、漏電はそっちからの『分かれ』のどこかですよ」
「そうか」
「きっとクロちゃんやわ…」と上村さん。

 猫のことを後回しにして、先に漏電の修理にかかった。もう一つの開口部から頭をつっこむとそこにも結線がまとめられていた。そこからは家の外壁についているコンセント、亡くなった旦那さんの書庫、トイレ、ガス湯沸かし器、風呂へと線が繋がっている。チェックすると、別れた先で漏電していた。ぼくは古い線を切って新しい線を引く作業の用意を始めた。時間のかかる作業になる筈だった。


「ちょっと待って。外を確認してくる。これはたぶん…」
 と、言い残し社長が家の外へ出て行った。

「やっぱりね」と、戻ってきた社長。
「上村さん、ガスの湯沸かし器が内部で漏電してます。いま、確認しますから」
 湯沸かし器のコンセントを抜き、ブレーカーを入れる。
 落ちなかった。

 結局、湯沸かし器を明日交換することにして、上村家の電気はすべて復旧した。

「さてと猫ですね」
 と、社長が言うと、上村さんが肯きながら応えた。
「たぶん『クロちゃん』て、よんでた猫やと思います。三年前に現れて…。ずいぶん歳をとっていてねえ。大丈夫かなあと思てるうちに消えてしもて」
「ここを最後の場所にしたかったんですよ」
 と、ぼくが応えた。
「ここならカラスにもやられない」
 社長が肯きながら言う。
「それに下からは上村さんの声も聞こえてくるし…」
「ああそうやねえ。そうやねえ」
 上村さんは目が融けてしまいそうな表情になっていた。

「だけど天井裏をお墓にするわけにはいかないし。庭に埋葬しようとおもいます。手伝ってくれませんやろか」
「ええもちろん」
「花村、猫を頼む。俺はお墓つくるし」
「おおきにおおきに」

 ぼくは黙って脚立を上った。短い箒で慎重に遺骨を引き寄せる。
それは見事なぐらい崩れずに「そのままの恰好」をしていて、天井板も汚れていなかった。上村さんからもらった真っ白いタオルで何重にもくるみ、下に降りる。
 上村さんはそれをそっと抱きしめた。

 椿の横が猫のお墓になった。
 三人で手をあわせた。


 上村さんの何度もの御礼に応え、社長とぼくは撤収した。
「もうすぐお彼岸やし、よかったやん」
「そうですね」
 と、答えながら歩き始めると、狭い路地のまっすぐ先、夕映えから群青に変わろうとしていた西の上空に輝く一点の星がみえた。
 …あ…
 何故か声にならない声がぼくの喉にせり上がってきた。

「宵の明星やな」 立ち尽くしていたぼくの肩を社長がぽんっと叩いた。                                                              (了)

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