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葉子、と。

とおりゃんせ


 正月も四日を過ぎた。日曜日である。
 正午前、亨は北野の天神さんへ初詣に向かっていた。毎年、三が日は初詣客で混雑する天神さんだけれど、四日ともなれば落ち着いているはずだった。こういう時、大抵一緒にいる葉子は、いない。

 葉子は、割れたコップで掌をふかく切ってしまった母を手伝うために、年末から実家にいた。元旦には亨も葉子の実家に行き、二日は亨の実家に二人で顔をだした。
 ようやく三日は二人だけで過ごしたのだけれど、今日、葉子は東京から帰省している幼なじみの妙子と実家近くの神社にでかけている。

 天神さんは、亨の通った小学校の学区の中にあった。小さい頃から路地という路地を歩き尽くしていたから、亨は天神さんに抜けるいくつもの「路」を知っていた。一人歩きの気楽さもあって、亨は子供の頃「開拓した」狭い路の一つを歩いていくことにした。

  (とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ)

 ふいにこの唄が亨の頭に浮かんだ。
 そういえば子供の頃、この唄を口ずさみながら街を「探検」していた記憶がある。この歌を覚えたのはいつのことだろう。幼稚園か保育所か。あるいは母親が歌ってくれたのか。この唄が路を探させたのだろうか。路が唄を思い出させたのだろうか…。


 空は全体に曇っているけれど、ところどころで雲が破れている。そこから斜めに光線が地上に降り注いでいるのが見える。南の方角にいくつか。東にも。強い北風が雲を裂いているようだ。
 亨は横断歩道を渡りはじめた。渡り終えるとすぐに北へ歩いていく。脚が地面を踏みしめるたびに体の中に残った、昨夜の記憶が響くようだった。まだ手にも脚にも葉子の余韻が残っている。

 小学校の南側で路地を東へ折れる。灰色の塀が続く路を行き止まりまで歩き、すぐに北へ向かう。
 前方から孫であろう女の子と手を繋ぎ、腕に買い物籠をぶら下げたお婆さんがゆっくり歩いてきた。光がお婆さんの髪を銀色に輝かせ、女の子の黒髪に輪となって載っていた。お婆さんが子供に言い聞かせるように唄をうたっている。

   とうどのとりと にほんのとりが
   さかいのはしをわたらぬさきに

 亨は即座に思いだした。母の唄では聞いたことがなかったけれど、祖母がうたっていた唄だ。
(唐土の鳥と 日本の鳥が 境の橋を渡らぬ先に)

   ななくさなずなで ほおほおよ

 お婆さんが続けて歌う。
「ほおほおよおお---」女の子がおもしろがって復唱する。

 七草の唄である。正月七日、京都では夜が明けると禍いを持った鳥がやってくるので、その前に七草粥を食べるという習慣があった。「渡らぬ先に」とは未明のこと。
 さすがに夜明け前に七草粥は食べなかったけれど、七日の朝は決まって七草粥だった。あの女の子も自分と同じようにお婆さんから言い伝えを聞いているに違いない。
 南下していく二人の先には市場がある。七草を買いに行くのだろう。

亨は北上を続ける。すると建物の陰に東へ続く舗装されていない路地の入口が見える。亨はそこへ入っていく。


 どんどん狭い路へ、どんどん静かな方へと亨は歩いていく。その路の先端から石段が降りていて、狭いけれど深い川に行き着いた。紙屋川である。
 誰もいない。

 小さな鉄の橋が架かっている。橋の渡った向こう側には堤がある。秀吉が京を分断すべく造った「御土居」とよばれる堤防の名残だ。もうそこは天神さんの境内なのだけれど、その向こう側のざわめきはまったく聞こえず、水の流れだけがあたりに響いていた。

 橋を渡り石段を上がると「御土居」の端に出て、そこから御土居を越えるといきなり本殿に出るのだ。亨は橋の上に出ようとして気がついた。自分の回りがずいぶん明るいのだ。どんどん狭いほうへ、静かなほうへと歩いてきたこの路は、どんどん暗い方へと歩く路だった。

 建物の陰、塀の陰、木陰…陰の中を歩いて、あげく明るい本殿前にぽんっと出るのだが…。今日はずいぶん明るい。亨は思わず空を仰いだ。光線が亨を包んでいた。

 紙屋川を冷たい風が渡ってくる。秋まで陰をつくっていた葉がすべて落ちていたのだった。川横の大きなモミジの枝の上から降ってくる光を浴びて、亨は橋を渡る。石段を登り、御土居へ向かう入口に立つ。右を見ると強い光が差していた。右へ続く道は梅林の外周に沿った路だ。亨は光のほうへ向かうことにした。

   (どうぞ とうしてくだしゃんせ)

 金網越しに梅林を見ると、蕾が膨らんでいた。春が近づいている。
 参道の横にでた。光はさらに強く、参道の人々にまんべんなく降り注いでいて、そのなかに亨も入っていった。

 切れ切れの雲から気まぐれに降ってくる光。そのなかに葉子もいて、自分のように空を眩しそうに見上げていないかな。そんなことをふと思う。
 眼を細めながら空を仰ぎ見る葉子の姿を想像する。それだけで自分と繋がっている気がする。それだけで。

   (いきはよいよい かえりはこわい)

亨は携帯をかけた。
…あのさ、七草買うて帰るから…
 葉子の弾んだ声が返ってきた。
 
                         (了)

ほらっ、こっちだよ


 日本画家のアトリエ南裏にある雑木林が切り払われるという話が、一月の半ば頃に町内の一部で囁かれ始めた。やがて誰もが「どうなるんやろねえ」と話題にし始めた頃、林の西側にある誰も住んでいない古い大きな家の解体がはじまった。
 椋鳥の群れが巣を作り、コロニーのようになっていたのは、この古い家の奧にある、四方を家に囲まれた誰も中に入れなかった雑木林である。

 いつも行く八百屋の店先で葉子が聞いた話では、家と林は遺産の分与のことで、なんと20年近く親族間で争っていた物件ということだった。話し合いはまとまらず、結局、裁判で決着がついたのだという。
 誰がどのような分与を得たのかはわからないけれど、あの古家と雑木林を手に入れた人間の最初に下した決断が、古家の解体と雑木林を更地にすることだったのだ。

 ある日を境に毎朝九時になると、チェーンソウの爆音が町内に響いた。その音の下で人々の囁きはずっと続いた。
 例えば葉子が「そういえば近くの枇杷の木に見たことのない鳥が来るようになりました」というと、「画の先生のところの梅の木にウグイスがきていましたよ」とか「カラスが異様に低く飛ぶようになったと思いません」などと、おもに鳥たちの話がざわざわと盛り上がる。
…みんな実のところ椋鳥がどうなったか気になっているんやわ…
 葉子は鳥の話をする人の表情に、そんな気持ちを感じていた。もちろん葉子自身の気がかりでもあった。

 取り壊されている古家の前の道は、亨が毎朝、駐車場へ向かう道である。その家の前から緑の影が払われて、どんどん明るくなっていく様子を葉子は亨から聞いていた。
「ほんとに根こそぎやわ。かたっぱしから切り倒してる。前に住んでいた人がいろいろと植えていたんやね。玄関の両側から道を覆っていた楓とか…」
「あの紅葉は素晴らしかったやん」
「もう切られちゃったよ。その奧に何本も棕櫚が植わっていて、その奧に何があったと思う」
「なんだろ。棕櫚でも意外なんだけど」
「バナナの木」


「こんなに寒い冬があるのに?誰も手入れしてないのに?」
「不思議やけどね…。そんなふうに毎朝、通るたび奥の方の樹が見えてくるんや。夕方にはもう切られているやけどね…バナナも今日行けばなくなってるやろな」

「椋鳥の大群のいた林は…」葉子の口から思わず言葉がこぼれた。
「あれなんと樫の樹やったんよ。樫の樹が四本並んで立ってたんだ」
「それも…」
「うん、なくなった」
 亨から、道の雰囲気が変わった、といわれても葉子はその前を歩く気がしなかった。そうすれば樹の残骸や切り株を見てしまうことになる。そう思っただけで不快になるのだった。
 亨は、椋鳥たちがチェーンソウが鳴り響いたその朝には姿を消していたという話を現場の人間に聞いたそうだ。
「ぼくも一番気になっていたのは鳥のことやから」と、亨。


 波多野は窓の向こうの赤松の枝にカラスがたくさん留まっていることに気がついた。堀河天皇火葬塚を覆っていた一本の巨大な赤松の、今日が最後の日である。カラスたちがまるで別れを惜しむように並んでいる。

 夏、いつになく葉の緑が冴えないな、と思っていたら、あっといいうまに茶褐色になった。それは波多野が実家のある田舎でも何度か見たことがある光景だった。マツクイムシのために枯れてしまったのだ。
 四方を住宅に囲まれていたため、騒音などの発生について付近住民との調整をしていたのだろう。赤松の伐採について大家が通告してきたのは一週間前のことだった。
 波多野の横には尚美が座っていた。尚美も伐採のことはすでに知っていて、赤松から目を離さずにいた。
 

 尚美は毎朝、この松の向こうをジョギングしていたし、波多野が尚美を見初めたのが「赤松の向こうの尚美」だったことも、最初に声をかけられたその日に聞いていたから、なにか心が動くのだった。 

「もう枯れているのよね」
「ほとんどね。だけどまだ微かに生きている気がするな」
「こんな立派な枝振りの赤松なんて見たことがなかった…」
「10メートル四方を一本の枝で覆い尽くしていたんだもの」


「あ、お婆さんが出てきた。わかる?」「うん」
 アパートから赤松を挟んだ向かい側の家の前に老婆が出てきて、赤松をじっと見上げていた。
「昨日、塚の門の前で赤松を見ていたら、話しかけられたんだ。この赤松、樹齢が三百年をこえてるんだって」
「堀河天皇が亡くなってから植えられた樹でしょ。いつ亡くなったんだろ。勝さん、パソコン貸して。ウィキで調べてみる」

 赤松の周りに造園業の人たちがばらばらと散開し、伐採の準備を始めた。
 すぐに尚美が波多野の横に戻ってきた。

「もう900年も前になるのね」
「ということはこの樹と同じ年齢を生きたとして、赤松は少なくとも三代は続いたんだね」

 チェーンソウが唸りを上げた。たちまち声が聞き取りにくくなる。
「もういい。樹がバラバラになるの見ていたくない」
 と言いながら尚美は立ち上がった。赤松の向こうでは老婆が家に入り、戸を閉めた。

「『この先の景色』見てみる?」波多野も立ち上がった。
「『この先』?」

                  ●


 葉子は洗濯物を干すためにベランダに出ていた。どうしても向こう側にあった緑の塊を探してしまう。そこはとうに透けてしまっていて、空が広がっているばかりなのだけれど。
…なんだか街が間抜けになってしまった感じがするなあ…
 亨はそういって仕事に出かけていった。

 ジーンズを伸ばして干す。顔を空に向けて目を細めた時、斜めに視界をよぎるものがあった。
…雀?…
 もう一度飛んでくる。
「むくどり!」
 葉子は思わず声をあげていた。 

                  ●


 波多野と尚美は堀河天皇火葬塚のすぐ横の馬代通りを北に向かって歩いていた。波多野は「その先の景色」がこの道の先にあるという。
 「きぬかけの路」を横断してまだ北上する。道はくねくねとした坂に変わり始め、右に金閣小学校が現れた。
「小学校の裏に回り込まないといけないんだ」
 二人は右折し住宅街の中に入っていく。やがて東西と北を住宅に、南を小学校に囲まれた四角い空き地に出た。
「まん中、見て」
 波多野にいわれて尚美はフェンス越しに覗いてみた。
「ずいぶん大きな切り株…古いわね…。あれ、松なの」
「たぶんね。ここは白河天皇火葬塚」

 塚は斜面の途中につくってあって、南側の小学校側からは見上げる形になる。そこには小さな階段がついていて、南側から北に向かって拝する形になっていた。堀河天皇の塚と同じ構造である。ぐるりを背の低い生け垣で囲っているところも同じ。まん中に松が「あった」ことも。

 尚美は南側から塚を見上げた。堀河天皇の塚とは違うものがそこから見えた。青空だけを背景にした高さ三メートルほどの若い松だった。
「これは黒松だと思う。次はこの松の枝ががここを覆っていくんだ」と波多野。
「この黒松が朽ちたら…」
「その頃はまん中の切り株が土になっているから。そこにまた松を植えるんだろうね」
「赤松だといいな」
「そうやってずっと続いていくんだろうね」

                  ●


 椋鳥は一羽ではなく、いくつもの軌跡を葉子の目に残して北へ飛んでいく。洗濯物を急いで干し終えた葉子は、ダウンジャケツトを着こみ毛糸の帽子を被ると表の道へ飛び出した。まだ電線に絡むように多くの椋鳥がバラバラに飛んでいる。しかしバラバラなのだけれど、まるで飛行の軌跡が一本の大きな綱を編んでいるように全体は一つの方向に向かっていた。その後を葉子はついていった。

…新しい林、新しい巣、こどもの鳥は…
 通りを二筋、北へ行くと椋鳥たちが一軒の家の庭に集まってはそこからまた飛んでいくのを目撃した。中年の痩せた女性が深紅のカーディガンのポケットに手を突っ込んで庭を見ている。彼女は葉子に気がつき、振り返って微笑んだ。 
「むくどり?ですか」
「ええ。気になって付いてきちゃいました」
「あまり騒々しいから外に出てみたの。そしたら、これ。こっちへ飛んできたのね」


「ここは…」
「ふふ私の家です。あの『林』から飛んできたのは偶然なのかなあ。それとも…ね」
 女性が庭の樹を指さした。庭には大きな合歓の木があって、その奧に大きな葉の樹が覗けて見えた。
「あれひょっとしてバナナですか」
「そうなの。冗談半分で植えたら育ってね。あそこの林の解体作業、毎日見ていたの。そしたらうちと同じバナナの木があるじゃない。同じことをした人がいるんだと思ったら楽しくなっちゃった。だけどねえ…」
「え?」
「植栽が好きなことって遺伝しないのね。あれはまるで緑の虐殺だった」
「ああ…」
 椋鳥たちが彼女の家のバナナを目印に飛んできたのだったらおもしろいな、と葉子は思った。鳥たちはさらに北へと飛んでいくようだ。この先には山が連なっている。たぶんその中に新しい巣が出来るのだろう。

                  ●

「そういえばさ、花村さんの家の近所で小さな林が丸々一つなくなっちゃったんだよ」
「あ、知ってる。深い緑の影があったのに」
「たぶん造成地になるんだろうね」
 波多野と尚美は入試のはじまった大学を迂回しながら帰ってきた。
「あれ葉子さんじゃない?」
 大学の南端に隣り合ったのイチョウ並木道を葉子が歩いていた。葉子は大学裏の山裾からの帰り道である。二人が手を振る。葉子も気がついた。
「散歩なの?なんだか二人並んでいると眩しいわね」
「葉子さんだって顔がきらきらしてますよ」

「何かいいことでもあったの?」
 三人の声が弾んだ。

                        (了)

おいしい土


 二十数年ぶりに遺産相続問題が解決した通称「雑木林のある家」の解体は、街路や隣接する家々に新しい日射しもたらした。
 大正期に建てられたという屋敷と、椋鳥たちが住み着き、ほとんど林と化していた庭が全くの更地になったのだから、当然のことではあった。
 整地作業は徹底していて、葉子は掘り起こされた木々の大きな根がダンプカーに満載されて運ばれていくのを何度か目撃した。

 樹の残骸が転がっているのを見るのが嫌で更地の前を通らないようにしていた葉子だけれど、そうやって根の残骸を見てしまったり、近所の人たちが、なんとなくにこやかな表情で、あかるくなったねえ、と口々にいうものだから、とうとう今日、買い物に行く途中、更地の前を通ってみることにしたのだった。

 この街でこんなに広い地面が顕わになったのは何年ぶりのことなのだろう、と葉子は先ずその広さに驚いた。そしてそれ以上にその明るい茶色に引きつけられた。
 以前、亨と一緒に石榴をとりにいった老人たちの「畑」は、老人たちの髪に似た灰色の土だったし、自分たちの街にこんな土があるということが葉子には思いもよらないことだった。

 地面はまだ均らされておらず、大きな穴があったりうねっていたりしていた。その様子がまた土に力強い印象をあたえていた。なるほど、植栽好きの人が「なんでもすくすく育ちそうな土やよ」と言っていたわけやわ、と葉子は思ったのだけれど、そればかりかその土が、おいしそう、と感じている自分自身に驚いていた。

…ほんまに「おいしそう」な土 なんでやろ 色かな 匂いかな…

 土に見とれていた葉子がようやく八百屋に向けて歩き始めると、前を、二人の女性が京都の地図を見ながら歩いていた。すると前方から黒いコートに灰色の帽子を被った女性が小走りにやって来て、女性たちに飛びつくようにして何事か訊ねている。二人が振り返り葉子の方を指さす。黒いコートの女性は二人に軽く会釈をすると、葉子の方に早足で向かってきた。
「どうしはりました?」
 葉子から声をかけた。
 近づいてきたのは顔に深い皺の刻まれた老婦人だった。
「犬、見いしませんでした?」目が大きく見開かれている。

 犬を連れて八百屋まで行き、店先にある駐禁のポールにリードを結わえて買い物をしていたのだけれど、戻ると犬がいなくなっていたというのだ。
おとなしい子やおもてたのに、いくあてもないのに、犬はアホなんやろか、と犬を責める言葉が次々と出てくる。

「あの二人が、あの道を東へ走っていった、て言わはりますねん」
『あの道』とは、今、葉子が立っている道とT字に交差している道である。葉子はそこを左折してきたのだ。
「ほな私が見てるか、すれちごうてるはずですねえ」
「おうてませんか?」
「うーん、おうてないです」
 犬種はミニチュアダックスフント。雄で名前はココアという。
 葉子は、自分がぼおっと土を見つめていた背後を小さな犬が走り抜けていく姿を想像した。
「お家はどちらですのん?ひょっとしたらもうお家に帰ってるかも」
「そう思っていま戻ってきたんです。いいしませんでした。ああどうしよう。娘に怒られる」
「娘さん?」
「わたし、娘と二人暮らしですねん。娘は犬を子供みたいに可愛がっていてねえ。昼間は働きにでてるんで私が見てますねんけど…ああどうしよう。怒られる」
 今にも泣きだしそうだ。
「もうじきに夕方やし、はよ見つけなあきませんね。うん、私も探してみます」
「あ、おおきに。ありがとうございます」
 老婦人はそう言い残すと、そのままT字路を東へ曲がっていった。

 葉子は老婦人の困難を助けようと思ったわけではなかった。「犬がアホ」だの「娘に怒られる」だの、自分のことばかり言いつのる老婦人に僅かだけれど反感さえ抱いていた。

…勝手な人やわ、きっとリードかてええかげんに結わえてはったんちゃうやろか… 

 迷った犬は何らかの理由でパニック状態になった可能性が高く、ますます出鱈目に動き周り、交通事故にであうことが考えられた。またこの厳寒の時季だからすぐに弱ってしまうようにも思われた。ましてミニチュアダックスは室内で飼われていたのだろうし、小さくて体力がない。
 葉子は路地の一つ一つをみてまわることにした。

 葉子は実家で柴犬を飼っていたことがあって、何度も犬の脱走を経験していた。幸い事故は無かったけれど、散歩仲間の犬がとうとう帰ってこなかったり、交通事故にあって亡くなったのを何度か見てきた。

…急がないと…

 街には夕方が訪れ、犬の散歩が始まっていた。様々な犬連れに出会うたびにミニチュアダックスの消息を訊ね、見つけたときの連絡先は八百屋の前ということにした。(老婦人から家の住所や電話番号もきいていなかった)

 街の辻から通りを探っていると、同じようにしている人たちがいる。数は少なくない。沢山の視線が街を飛び交い、なんだか街が脈打ちだしたような感じさえする。
 そんな人たちとばったり出くわすと、老婦人の隣組の人だったり、八百屋の買い物帰りの人だったりした。みな老婦人から「娘に怒られる」ときかされながら、ココアを探していたていた。誰かに保護されているかも知れず、とりあえず警察に電話をしておくことを、今度老婦人に出会ったら伝えることをみんなで確認した。

 ココアはなかなか見つからなかった。
 葉子は街の突き当たりの山を見た。逃げ込んだかも知れない、と思った。以前、山で野良犬を見たという人の話をきいたことがあったからだ。
…山に逃げ込んでいたら大変だぞ。だけどミニチュアダックスがそこまで逃げるかしら…

 山に方向に向かって歩き始めると、次の角にシーズー犬を連れた小学生らしい女の子が立っていた。目を瞑って小首を傾げている。
「ココアを探してんの」
 女の子は肯いた。
「おばちゃんも探してんねんけど、いいひんねえ」
「わたし、ココアのことよう知ってんねん。あの子、あかんたれやし、犬におうたらすぐ吠えんねん。そやから声が聞こえてけえへんか待ってんねん」
「あっそうなんや。よう知ってんねんなあ。おばさんも一緒に探すわ」
 女の子は小学校五年生で亜由美といい、つれているシーズーは「ゆり」という名前だった。

 二人と一匹で少しずつ場所を変えながら耳を澄ませた。そうしてみると結構犬の声が聞こえてくる。
「あれはたぶん柴犬え」
「なんでわかるのん?」
「おばちゃんとこな、昔、柴犬こうててんそやから柴犬の声、ようわかんねん」
「へえそおなんや」
 甲高い声が聞こえてきた。
「スピッツ」二人で同時に呟く。
「『雪ちゃん』ゆうんです」
 野太い声が聞こえる
「あれはゴールデン?ラブラドールかな。ものすご怒ってるみたい」
「ほんまに…。たぶんラブのケンタやとおもうけど。ココアがいったし吠えてんのんちゃうやろか」
 亜由美ちゃんが駆けだした。
「あ、ゆりちゃんは」
 ピンと張ったリードが緩み、シーズーのゆりちゃんがまん丸い目で二人を見上げた。
「いいよ、ゆりちゃんはおばさんが抱いていくから。亜由美ちゃん、先にいって」
「うんっ」
「ケンタの家はどこなん」
「すずなりさんとこおー」
 そう言い残すと亜由美ちゃんは一目散に駆けだしていった。

 葉子は、あっと思った。鈴成家は更地になった土地の南側にあるのだ。
 ゆりちゃんを抱いて小走りに寺に近づいていくと、野太い吠え声に混じって甲高い吠え声が聞こえてきた。間違いない。ミニチュアダックスが吠えている。

 鈴成家の玄関脇から奥の方へ入っていくと、ラブラドールレトリバーを鈴成さんの奥さんが力一杯リードを引っ張って止めていて、亜由美ちゃんがココアのリードを握りしめ、ココア、ココア、といいながらなだめていた。
「よしよしケンタ、もういいから」
 飼い主になだめられてケンタも静かになった。
「裏の土地で遊んでたんやね。樫の根を掘った穴の中で転がり廻ってたみたい。垣根をくぐってケンタを呼びに来たみたいやわ」
「八百屋さんの店先から逃げたらしいんです」
「遊びたかったんやわ」と、亜由美ちゃん。

 ココアは目はきらきらさせていて、鼻の先と口の横には土がべっとり付いていた。
「土の匂いにつられてきたんかなあ」
「犬にしてみれば新しい遊び場やとおもたんでしょう」

「そんなに土がおいしかったんか」と、亜由美ちゃんがココアの口と鼻を素手で拭きながらいった。
「やっぱり」と、葉子。
「え?」

                        (了)

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