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街函

透明な翅

子供たちが、自分たちと同じく、あるいはそれ以上に、町を徘徊する老人の存在に気がついたのは、夏休みが八月に入ってすぐのことだった。
 彼らは小学校二年生の三人組。住んでいるのは、ぐるりを山に囲まれた街の北端だった。
 連日、午前十時には集合し、山の裾野にあたる自分たちの町内で蝉を追っていた。
 全員が帽子に半ズボン。捕虫網を手に持ち、虫かごをたすき掛けにし、その目は真剣そのものだった。目指すはクマゼミである。同級生でいちはやく捕獲した者がいたから、負けてはいられないのだ。
 枇杷や松の、手が届くところに留まっているような小ゼミは捕獲したところで何の自慢にもならない。高いところに止まっていてなかなか捕虫網にかからないクマゼミこそ、捕る値打ちがあった。

 執念の追跡は続いたがクマゼミは捕まらなかった。その日も収穫がなく、焦りが諦めに変わる頃、一人が確かめるように他の二人に声をかけた。
「あのおじいさん、毎日、歩いてへんか」
 他の二人は黙って肯いた。
 

 ほーほーほいっ
 ほーほーほいっ


 町中のどこにいてもこの声が聞こえてくる。老人は朗々たる声で、ほーほーほいっ、と拍子を取るようにして歩きまわ
っていた。子供たちが街中の桜の樹にねらいを定め、辻をまわって行進していると、前からやってくる。


 ほーほーほいっ
 ほーほーほいっ


 紅葉の大木のある家にねらいを定め、捕虫網を振るって小枝を折り、家の人に怒られていると、後ろ手を組んで傍ら
を過ぎていく。


 ほーほーほいっ
 ほーほーほいっ


 子供たちはその老人の家がどこにあるのか知っていた。
 町でいちばん古く、最も大きな家である。
 老人の脚は少し湾曲していて、腰も少し曲がっている。痩せていて、頭はほとんど禿げていた。
 その風体で、学校のある日の下校時には門の前に打ち水をしていたり、石垣に腰掛けて煙草をくゆらせていたのだ。
 自分たちが夏休みで、普段はいない時間帯に町を歩いている。自分たちが学校に行っているときはこの老人が町中を独りで歩き回っているのだろうか。
 三人はそんな会話をしていた。


 ほーほーほいっ
 ほーほーほいっ


 三人とはまったく関係のないところで空を仰ぎながら歩いているのを見かけることもあった。
 やがて三人は、静かな町で小さな悲鳴を聞くようになった。それはいつでも家の中から、たいてい女性の声で聞こえてきた。
 「きゃあ、だれなのあなたっ」「ひいっ」など。
 そしてその悲鳴のする家の玄関をがらがらと開けて、老人がまるで自分の家から出てくるように現れるのである。悲鳴の原因はあきらかに老人にあるように思えた。


 そしてまた、
 ほーほーほいっ
 ほーほーほいっ
  と、声を放ちながら歩いていく。


 やがて、どうもおかしいと、子供たちはおもいはじめた。
 老人が出てくると家の中の声はぴたりと止み、誰も表に出てこないこと。悲鳴をあげるほどなのにパトカーも自転車に乗った巡査もやってこないこと。
 家に帰って親にいっても、親たちは皆笑うばかりで子供たちに何も説明してくれないこと。
 そんなことを話し合っているうちに、子供たちは老人に対して身構えるようになった。 そもそも老人はよその家に入り込んで何をしているのか。
「なんにもせえへんねんて」と一人の少年が親から聞いたことをいった。
「らしいなあ。家の庭をぐるっと回ってでていくんやて」
「そんなんいきなりやったらびっくりするで」
「はいかい、いうんや」
「なんやそれ」
「じいさんみたいな人らのことやろうとおもう」


 夏休みも終わり近く、クマゼミの捕獲はいよいよ困難を極めてきた。道路の上にニイニイゼミやアブラゼミの死骸が転がりはじめている。
 三人組それでも相変わらずクマゼミを追っていた。他の蝉を見るたびにクマゼミの透明な翅とか光を浴びると金色にもみえる胴体の美しさがやっぱりいちばんだと口々にいいながら。
 ジージージーと蝉の鳴き声をまねたり、生きてんのを捕まえるからおもろいんやんなあ、ともいいあった。
 
 そんなある日のこと。

 クマゼミの鳴き声がする。三人は音の方向へ駆けた。そこは老人の屋敷前の松の木だった。老人が屋敷の前にいた。真っ黒に日焼けした腕が目立つ。打ち水をしたあと石垣に腰掛けて煙草をくゆらせているようだ。
 子供たちを見るとゆっくりと起ち上がり、近寄ってきた。
 子供たちは警戒した様子を露骨に見せて道の端を通り過ぎようとした。
「貸して」
 そういって老人が一人の少年の捕虫網を、なんのためらいもなく自然にすっと手にとった。子供たちがあっけにとられているまに長い腕が湾曲したかと思うと、すばやく宙をさらった。
「ほれほれほれっ」
 三人の待ち望んだクマゼミをがいとも簡単に網の中にいる。     

  沈黙が少し。


「すげえ」ひとりが唸るように言葉を吐き出すと、すげえ、すげえの連呼になった。


ほーほーほいっ
ほーほーほいっ


 三人の少年は捕虫網を肩に載せた老人のあとを歩いていく。古い寺の墓地の木戸を開けてどんどん歩いていく。気味悪がってそこには入ったことのなかった少年たちも今や怖いものなしだ。そして初めて見る栗と栃の大木の下で止まった。
 少年たちはのはるか頭上でクマゼミが鳴いている。よしっ、と老人はいうやいなや木にとりつくとあっというまに数匹をつかまえた。
「ここにこんなにぎょうさんおったんや」
「おじいさんやるやんか」
「かっこええなあ」


 クマゼミが三匹。それぞれの手の中で透明な翅を輝かせている。老人の手の中にも一匹。
「おじいさんありがとう」
「すごいやんか」
 老人はもごもごと何か言うと、にっこりと笑ってクマゼミを放った。きらきらひかる軌跡が一瞬見えて、すぐに見えなくなった。
「この樹やで」
 老人は初めてしゃべった。そしてじっと少年たちの顔を覗き込む。
 三匹のクマゼミが木の翳のなかに光の細い軌跡を描いた。
「うっほっほっーい」
三人は街に向かって駆け出していった。


 ほーほーほいっ
 ほーほーほいっ


 うしろからゆっくりと老人がついていく。
 夏がゆっくりと終わろうとしていた。
                             (了)

朝の手


朽ちた家の前庭から紫陽花があふれだし
つとめにいく人の裾を朝露が濡らしていた
通りにせり出した植栽に
手の幻が透けてみえる


かつて黒松の枝を切り つつじの花がらを掃き
アマリリスを見張り番のように玄関脇へ置いた手の
まぼろし

もうすぐ弾けるように百合が咲く
その手をいつまでも呼び続けるように咲く
するとすぐに手は空中に浮かんでくるのだ

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