街函
ディーゼル
モーニングサービスの忙しさも一服し、私は窓の外をみた。朝からの細い雨はまだ降り続いている。外は一面、淡く光っていた。
カウンター端のスツールの下を覗き込んでみる。犬は眠っていた。
今から三時間前の午前六時、開店のために玄関をあけると、ずぶぬれの犬が立ちすくみ震えていた。いつ頃からそこにいたのかは分からない。
「どうした」
声を掛けると、くぅんとなく。茶色の雑種、柴系の中型犬である。黒い首輪をしていた。脱走したものの帰れなくなったのか、捨てられたのか。
とにかくこのままにはしておけないので、首輪を掴み店の中にいれた。犬は素直だった。
店で使うタオルを何枚か引っ張り出してきて、犬の身体と脚を拭いた。大きな怪我はしていない。からだもそれほど汚れていない。皿に水をやると、ぺたんとその前に坐ってしっかりと飲み始めた。
私の店はカウンター席に五人とテーブル席が三つの喫茶店である。私一人でやっている。
モーニングサービスの用意をしなければならないので、首輪にタオルを四本結んでリード代わりにし、カウンター奥のスツール脚に結びつけた。スツールの上には「予約席」の札を置いた。それからその日の新聞広告の白紙の裏に「犬、預かってます」と書いて外の看板に貼り付けた。
早朝やってくる客は毎日決まっている。サンドウィッチ用の白い皿とコーヒーのためのソーサーを6つずつ並べて、用意を始めた。常連が次々とやってくる。そして誰もが、犬がいるの?と声を掛けてくる。犬が苦手だとか駄目な人はいないのだ。
「マスター。犬と一緒にいるの久しぶりじゃない」
近くに一人住まいのお婆さん、藤本さんがいう。毎朝、店にきてくれる。
藤本さんはフレンチブルドッグを飼っている。名前はヒデキ。冬場はヤンキースのロゴの入った犬用ベストを着せて一緒に店にやって来る。
「そうですね、五年ぶりかな」
かつてゴールデンレトリーバーの「ジュピター」と私は一緒に暮らしていた。ジュピターはいつも店の奥で横になっていて、お客さんに可愛がられていた。もちろん「ヒデキ」とも仲良しだった。
五年前に亡くなった。
店の名前も「ジュピター」。看板には笑っている犬の顔写真をつかっていたので、犬の嫌いな人には敬遠された。ペットショツプと間違えられたこともある。
「でもさ、急だったんだろうけれど、タオルのリードはないでしょう。ジュピターのは残ってないの」
なかった。寂しさに耽るのことを振り切りたくてジュビターのものは写真以外全部捨てていた。
一人で店をやっているので、途中で出かけることができない。
藤本さんが、わたし、暇だから買ってきてあげるといって新しいリードとフードを持ってきてくれたのが、午前十一時。それからランチの忙しい時間帯である。
すぐにでも警察と保健所に連絡しなければならない。飼い主が探しているとしたら急がねば。
藤本さんとヒデキがずっと横にいてくれて、犬の相手をしてくれている。
「だけどさ、この子、人の出入りが平気だよ。ずいぶん人に馴れてる」
ほんとうにそうだ。疲れもあるのだろうけれど、おとなしく横になっている。
警察に連絡したところ、今のところ届けはないという。何かあったら連絡をもらうことにして、こちらで面倒を見ることにした。藤本さんの提案である。警察のケージの中より、人のそばの方がいいよ、と。
「ジュピター」がいた頃からのお客さんは、皆、犬を飼っていたり、犬が好きだったりで話が盛り上がった。脱走だろうか、捨てられたのだろうか。話題はそこに集中した。
もし捨てられたんだとしたらひどい、と皆同じことを言う。
あとはそれぞれの「脱走自慢」である。
本木さんとこのシェパードは鳴滝の家から逃げて、見つかったのは鞍馬だったとか、清水さんのところの黒ラヴは花園から逃げて、仁和寺の八十八ヵ所巡りのところでみつかった、とか。草野さんのところのグレートピレニーズは200メートル逃げたあと、道の真ん中で寝てしまい周辺を大混乱に陥れたとか…。どれもこれも大型犬である。夜道で出会ったりしたらさぞ怖かっただろうな、とおもう。もちろん怖がるのは人間だけど。
ひとしきり自慢した後、さて、この子はねえ、といってみんなの視線はその犬に向けられた。
「『しつけ』はきちんとできてるよ」
犬がもぞもぞしたとき、それを排泄欲求と見抜いて散歩に連れて行ってくれた山本さんが教えてくれた。山本さんは72歳の独り暮らしの男性。ずっと柴犬を飼っていたけれど、二年前に犬が亡くなった。人が犬より先に死んだら犬が可哀想だからと、その後犬を飼うのは諦めている。
時間はどんどん過ぎていった。
それから数日。警察からはなんの連絡もない。犬は私のベッドサイドで眠り、朝は開店前に散歩し、店で藤本さんや山本さんに可愛がられ、散歩にも連れていってもらった。不思議な癖もわかった。
突然立ち上がり、しっぽを振り、リードが結わえ付けられたスツールごと玄関の方へ出て行こうとするのだ。
一度、藤本さんが席から落とされそうになったこともある。或いは山本さんと散歩をしていて、特定の車が横を通ると、異常に興奮するのだという。
ある日のランチタイム。おとなしくしていた犬が突然立ち上がって、しっぽを振り出した。外へ出ようとする。それが二回続いた。そのときは私が押しとどめたけれど、しばらく興奮が冷めなかった。
「わかったよ」
と、いったのはタクシードライバーの渡瀬さんだ。
「こいつは、ディーゼルエンジンの音に反応してんだよ。さっきからそうだもの。ドゥルルルってあの独特の音が聞こえると反応してる」
山本さんがいうには、道で反応するのはワンボックスだという。
「そういえばありゃあ全部ハイエースだよ。トヨタ・ハイエースのディーゼル車」
これがこの犬の来歴の鍵を握っているらしい。だからといって、どうすることもできない。
やがて犬の名前は自然と「ディーゼル」になった。
藤本さんは「ディー君」とよび、「ディーゼル」を「ヂーゼル」と発音する山本さんは「ヂーヂー」と呼んでいる。最近、そう呼ばれて反応するようになった。
相変わらず警察からはなんの連絡もないままだった。
それから時間はまた少したった。
店を閉めてから夜の散歩に出て、私も時々トヨタのハイエースに出くわした。ひょっしたら自分を置き去りにしたかもしれない「車」に尻尾を降り続ける「ディーゼル」を見ていると哀しくなった。
最近、それが少し変わった。
立ち止まり、頭を上げて、じっと見据えているのだ。テールランプの去っていく先を。
そういう時、私はかならず言うのだ。
「さあディーゼル帰ろう」
(了)
春宵
夜毎歩帰路
沈丁花香闇
三日月滲曇
最終講義を終えて帰る学生たちは
みな母国語で静かに語り合っていた
槐輝如銀泥
千年以上前、あなたたちの国のこの樹が
この町に来て整然と街路に植えられていたんです
声流夜沈沈
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