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葉子、と。

弥勒


 尚美にはお気に入りの散歩道があった。誰にも、波多野にさえ教えたことはない。
 その道は尚美が毎朝走る道の中にも組み込まれていた。
 尚美の住んでいるアパートの近所にある妙心寺の境内を北から南へ抜ける。そのまま南下し丸太町通りを越え、このあたりから狭くなった道をさらに南下。三叉路にでたところで左折。そのまま東へいき西大路へ。ここで左折。西大路を北上し北野白梅町の交差点を左折。しばらくいって北の路地にはいり波多野の住んでいるアパートの前を通過して自分の部屋に戻る。この、街を四角に走るのが毎朝のコースなのだった。

 このなかの「道が三つに分かれているところで左折。そのまま東へいき、西大路へ」というところが、尚美のいちばん好きな道の一部だった。とても狭い道なのだけれど、歩いていて、走っていて、あきらかに他の道と空気が違うと感じるのだった。京都の「碁盤の目」から外れたような、何かが違うような気がして仕方がなかったのだ。

 尚美には愛媛から京都の大学へ通うと決まった時、生活が落ち着いたら必ず会いにいきたい「仏さま」があった。それは太秦にある広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像である。高校生の時に写真を見ただけでその美しさにひかれていたからなのだった。
 で、京都で実物に「お目にかかって」みると、その美しさは衝撃だった。そして、尚美にとってたんなる美しい木像ではなく、毎日でもあいたい存在になったのだ。その時から心の中で「仏さま」と呟くようにもたのだった。

 
 今では多くの名刹を誇る京都だけれど、桓武天皇が平安京を開いたとき、意外なことに寺はひとつもなかったという。平城京の反省から、執政から宗教の影響を排除しようとしたからではないかといわれている。その頃京都にはいくつかのお寺があったけれど、ほとんどが廃寺となった。
 数少ない例外のひとつが広隆寺だった。このお寺は平安京以前からあった。場所は現在地ではない。平安京造営のとき「碁盤の目」の外に出されたのだった。

 尚美が魅せられている道は、その広隆寺へ続く道だった。そのことを知って尚美は、なにか「縁」を感じた。何本かある道の中から自然とその道を選んで走り始め、それがあの弥勒菩薩像に繋がっていたものだから。
 道の名前は「太子道」という。太子とはすなわち聖徳太子である。


 お寺の縁起には諸説あるけれども、広隆寺が配布している「しおり」には次のように記されている。

 広隆寺は推古天皇十一年(603年)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七大寺の一つである。この寺の名称は、古くは蜂岡寺、秦公寺、太秦寺などといわれたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている。
 広隆寺の成立に就いて、日本書紀によると秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それを御本尊として建立したとあり、その御本尊が現存する弥勒菩薩であることが廣隆寺資材交替実録帳を見ると明らかである。

(「広隆寺沿革」より)


 ただし現在地ではない場所にあった。しかし秦氏も、蜂岡寺(広隆寺)も平安京以前からこの京都にあったのだから、ひょっとしたら地名も一緒に移動した、とも考えられのだが。あの弥勒菩薩像と一緒に。

 蜂岡寺がどこにあったのか、という考古学上の研究に尚美は興味が持てなかった。重要なのは弥勒菩薩像であって、場所は二次的なもののように思えたから。
 いずれにしてもこの広隆寺のあるあたりは、都となる以前から秦氏の根拠地であったことは間違いはない。現在も「太秦(うずまさ)」という地名が残っている。そして秦氏の子孫たちは現在も京都に住んでいる。「秦」「波多野」などの名で。
 なので、尚美がキャンパスで波多野から声をかけられたとき、その美貌に息を呑んだのと同じくらい驚いたのが「波多野」という名前だった。


 尚美は今、市バスに乗っている。
 わざわざ街のまん中までバスで行き、そこから太子道を西へ向かって歩くのだ。月に一度は歩く長い道のり。
 それは尚美が持ってる小さな夢、幻想といってもいいけれどそれに浸る時間だった。
 尚美はこの道の存在を知ってすぐに、歩きたいと望んだ。古の人たちと同じように、と。しかし、だからといって尚美は熱心な太子信仰者ではない。ただ弥勒像を求める心が自分を突き動かしていた。自分と同じような人たちがまたこの道を歩いたことだろうと確信したのだった。「倣いたい」「付き随いたい」そんな気持ちがあった。

 千本通りの旧二条で下車。目の前に細い道が西へ向かっている。いろいろ調べた結果、いちばんわかりやすい始点はここだった。
 まったく観光とも商業地域とも無縁の道である。道は狭く、微妙にうねっている。それが直線的な「碁盤の目」の道とは違う。建物も空気も「艶が消されている」という印象。道までもが老いているというべきか。古からの道が先ずあり、そして家々が後からそこに貼り付くようにできたのだろうと、尚美は考えていた。

 尚美はまっすぐな姿勢で西へ向かって歩いていく。心の中に、かつて太子信仰を持った数え切れない人がこの道を歩いた、というイメージを描きながら。出発地点の千本通りはかつて平安京の中心、朱雀大路だった。太子道はまるで街の中心から「へその緒」のように西へと続いていく。
 旧い道である。市街地には「太子道」というバス停もあり、その標識のついたまっすぐな「太子道」もある。しかしそれは新しく整備された広い道で、その10メートルほど北を、微妙にゆらゆらしながら進んでいるのが古来よりの太子道なのだった。舗装されてはいるけれど、この道の上だけ時間の流れが止まっている…あるいは「違う流れ方」をしている、尚美は改めて強く感じるのだった。
 どんなに太陽が輝いていても、どこかしら「陰」を感じさせる道。光がしみ込んでいくような道。光の棘がすべて刈り取られたような道…。
 しかも道端には不思議な地蔵の祠が突然現れたりする。

 尚美は夢を見ているような気持ちになることがある。あまりに強くイメージを描くせいだと思うけれど、自分のその状態が嫌いではない。現実感が薄れるぶん、何かが現れてくる、いやすでに現れているような気になるからだった。多くの人が信仰のために千年以上歩いた道ですもの、とその気持ちを噛みしめて歩く。

 風が吹いていて北には緑の塊の双ヶ岡や仁和寺の裏山がみえている。
 西へ、西へ。
 何かが一緒に歩いてくれている。
 西へ…。

 「古い太子道」はしだいに細くなって、やがて行き止まり。天神川を渡ってすぐに広隆寺だ。ここで左へ曲がり「新しい太子道」へ。車が行き交い、途端に賑やかになる。もうぼんやりとして歩いてはいられない。
 川を渡り再び住宅街を少し歩くと、三条通に合流。路面を電車が走っていて、右手に南大門が見えてきた。広隆寺だ。
 門さえくぐれば静寂に満ちた空間に浸れる。尚美は急ぎ足で進んだ。


 日常と違う空気のなかに入っていく。目の前には塵一つ無い石畳みが続いていた。
 尚美はまっすぐに進む。彼女の「仏さま」である弥勒像までもうすぐ。
 歩くほどに静寂が深まるお寺なのだった。
 石畳の上に人影がひとつ、揺れています。

 石畳のずっと先で波多野が微笑んで立っていた。彼の向こうには車止めと満開の白と紅のツツジが見えていて、その奧まで石畳は続いていた。風が一瞬強くなり、ざあっと葉の擦れる音が流れていく。尚美は視線をあげてくるりと周囲を見渡した。さまざまな木々の、様々な色調の緑が重なって揺れていて、境内の空気を解しているようだ。風が寺の東隣にあるのであろう保育園から子供の声を拾って、尚美の耳まで運んできた。それも止むと、低い風の音だけが境内を流れているのだった。
 尚美は波多野のほうへ、講堂や本殿にも眼をくれずに、まっすぐに彼に向かって歩いていった。

 二人で広隆寺にいこう、といいだしたのは波多野だった。たまにはお寺を歩くのもいいんやないかな、連休中でもあそこなら静かだろうし、と。もちろん尚美が弥勒菩薩像が大好きであることを波多野は知っていたのだけれど、自分も久しぶりに「お会いしたくなった」のだった。

「ひょっとして歩いてきたん?」
 会うなり波多野は尚美の顔を覗き込んで言った。
「わかる?」
「そういう顔してる」
 尚美は黙って肯いた。だけど、西大路から歩いてきたことは黙っていた。
「勝さんは」
「ぼくは嵐電(※注)」

 二人は参拝の受付を済ませると、車止めを越えて奧へ歩いていった。石畳の突き当たりを左へ行けば聖徳太子が楓野別宮とした八角円堂の桂宮院本堂。右手に行けば弥勒菩薩をはじめとする多くの仏像が安置されている霊宝殿がある。
 波多野は尚美の左手をそっと握り霊宝殿に進んだ。

 二人で来るのは初めてだったけれど、尚美だけでなく波多野も何度も弥勒菩薩に「会いに」来ているようだった。
 山深いとはいえ京都出身の彼だし、ひょっとして秦氏の末裔でもあるのなら、いろんな事を知っているのかも知れない、と尚美は思うのだった。
 波多野は藍色のシャツを着ていた。お寺の人たちが境内に散らばって静かに掃除をしているのだけれど、その人たちも、先程受付にいたご婦人たちも、みな同じ藍色の作務衣をアレンジしたような上着を着ていた。胸には白い小さい字で「広隆寺」とステッチが入っている。示し合わせたわけではないのだろうけれど、尚美には波多野がまるで同じ「所属」の人のように見えてくるのだった。
 その人たちの念入りな掃除で境内には塵一つ落ちていない。満開のツツジの花殻ひとつも、石畳に砂粒の一つも落ちていなかった。

「見事な境内やね」
 そんな気持ちを見透かしたように波多野が言う。
「ほんとに清々しい。無駄なものはなにもないし、これだけ綺麗なところってないような気がする」

 階段を数段上がり霊宝殿に入った。簡素なつくりで、弥勒菩薩半跏思惟像、十二神将像、泣き弥勒、秦河勝夫妻像、少年聖徳太子像など天平から藤原、鎌倉時代までの仏像がずらりと並んでいる。弥勒菩薩半迦思惟像は国宝第一号であり、千年以上昔のものであるにもかかわらず、他の仏像同様、ガラスケースに入らず観覧者と対面できるようになっていた。

 照明はかなり押さえてあり、尚美はうすあかりの中の仏像たちから発せられる、いいしれぬオーラが館内に満ちているように感じるのだった。声を出すことさえ憚られるような。
 二人は中央の弥勒像の前で立ち止まり、じっと見入った。
 照度が低いので古からの傷みは隠され、ぼんやりとした輪郭全体からやわらかな気が流れてくるようだった。
 毎日毎日この像の前に立っていたらどんな精神が出来上がるのだろう、ふと尚美は思った。(砂粒一つ落ちていない石畳のような)

 二人は正面から、左右から、たっぷりと弥勒像を眺めた。痩身の小さな弥勒像を。だけれど尚美は、その肌からまるで生きているような「はり」を感じるのだった。無駄な装飾は一切無く、研ぎ澄まされた美しさそのものがそっと置かれているようにも。

 尚美はそっと手をあわせて、弥勒菩薩半跏思惟像の前からゆっくり歩き始めた。隣には通称「泣き弥勒」が少し後ろに控えるようにあった。聖徳太子が亡くなったのち、その死を悼んで新羅から送られたという弥勒像だ。半跏思惟像よりも一回り小さいうえに、影に入っているため、まるで哀しみが黒く凝ってしまったようだった。

 出口近くに「御火焚きのご案内」と書かれていて、護摩木とサインペンが小さな机の上に積まれていた。もう多くの方が護摩木の短冊に自らの願いを書いて傍らの台に納めている。一本二百円。
 尚美がぼんやり見ていると波多野が慣れた様子で机の前に立ち、さらさらと願い事を書いて二百円を小さな箱にいれた。護摩木は剥き出しになっているので、尚美は願い事が読めてしまう。

みんなが健康でありますように        波多野勝 二十歳

 尚美は微笑んで、書いた。

家内安全 無病息災         鈴木尚美  十八歳

 そして小さく苦笑い。

 外へ出ると五月の光が緑色に染まっていた。波多野がまちかねたようにしゃべり始めた。
「京都ではね11月に『御火焚き』が各神社で行われるんよ。ほとんど各町内が関係してるんとちがうかな。で、さっきみたいに願い事を書いた護摩木を奉納しておくと、それを燃やして祈祷してくれはるん。そしてめいめいが紅白饅頭をもろうて家に帰るんや」
「あれ、ここはお寺でしょ」
「ここは特別。聖徳太子のお寺だから。それに真言宗は護摩法要をするからね」
「ねえねえ勝さん、このお寺は聖徳太子のお寺でしょ。なんで空海なの」


「うん。このお寺は何度も荒れ果てたこともあるし、何度か燃え落ちたこともある。で、燃え落ちた寺を再興したのが道昌というお坊さんんなんやけど、この人は秦氏出身で空海の弟子やったんや。そやからこのお寺は真言宗のお寺なん」
「秦氏のお寺でもあったのよね」
「そう」
「ねえ勝さんも『波多野』でしょ。末裔になったりするわけ?」
「たぶん関係はあると思う。親父もそんなことゆうてたし。そやけど波多野とか秦なんて名前はいくらでもいるし、まあそんなに珍しいものでもないんと違うかなあ」
「ふーん」
「渡来人の末裔は奈良や京都、いや日本中にたくさんいはると思うよ。それに秦氏が根拠地にしたのは京都だけじゃないし…静岡に多いらしいんや。」


「この御火焚きで亨さんに会ったことがあるんだ」
「葉子さんにも?」
「うん、亨さんのお父さんと一緒に来てた。各神社がそれぞれの職種の神様になっていて、例えば新日吉神社は金物の神様やし、広隆寺は建築や建具職人や機織りの神様なんや。亨さんのお父さんは建具職人だから」
「建築や建具職人の神様って…聖徳太子が」
「そう。職人さんたちの祖神。そんなこともあって京都の人はここのことを『お太子さん』っていうんや」
「空海は『お大師さん』だから間違えそう」
「うん『おだいしさん』と『おたいしさん』やね」
「さっきの護摩木、職人さんとかじゃなくて一般の人たちでもいいの?」
「ああ、もちろんもちろん」

 
 数日前の朝のことだった。
 波多野はいつものように珈琲を持って窓辺に立ち、走り抜けていく尚美を待ちながら外を眺めていました。そしてがらんとした空間になってしまった堀河天皇火葬塚を目の前にしていたのだけれど、あの赤松が気になって仕方なかった。自分の目の前で伐採されていった樹齢百年を超える巨木である。
 あの木はどうなったのだろう。適当な大きさに切り分けられ処理されてしまったのか、それとも…。
 堀河天皇の火葬塚をその枝だけで覆い続けた巨木。息を呑むような「力」があった。かりに火葬塚でなくともあの偉容こそ「霊木」にふさわしいのではないだろうか、と思うのだ。と、同時に自分の脳裏に浮かんだ「霊木」という言葉の出所がぼんやりと思い出されもした。

 誰かが樹木に霊力を感じてくれれば、いや別にそうでなくてもかまわない、どこに植わっていたのかという木の来歴に畏れを感じてくれてもいい、あの木が燃やされずに何かになっていてくれれば、と思うのだった。例えば家の梁でもいいし、あるいは何か彫像でもいい。例えば…。その時「霊木」という言葉を広隆寺に関する資料で見つけたことを思い出したのだった。

 
「その時、ここの弥勒菩薩がそうだったと、気がついたんだ」
「あの『仏さま』が」
「そう。あれは赤松の一刀彫なんだ」
「一本の赤松からできてるの」
「そう。少し前屈みなのは木が曲がっていたから、という説もある」
「で、気になりだしたわけ?」
「うん、尚美も夢中になっているし」
「お会いしてどうでした。久しぶりなんでしょ」
「やっぱり木像って静かに息をしているね。雰囲気だけじゃなくて木は伐採された後も呼吸しているわけやから。ほら水分の出し入れみたいに。だから『生きてる』」
「千年以上」
「うん」
 そう言いきられると納得してしまう尚美だった。

「アパートの前にあった赤松も誰かが彫っているかもね」
「そうだといいんやけど…そういえば聖徳太子は霊木を見分ける力があったんやて。だからそれを使って六角堂を造らせたりしたんだよ」
「六角堂って『六角通り』(注2)の六角のこと?。あれも太子ゆかりなの」
「ここの奧の桂宮院本堂は八角形の円堂だし、法隆寺の夢殿もそうやね」
「ふふ。なんだか多角形が好きなのね。建築関係の祖神っていうのもなんだか納得」

 だけどそれ以上に尚美は建物ではなく弥勒菩薩を思った。誰かが霊木を授かり、一心不乱にあの像を彫り上げたのだろう。たぶんずっとマントラ(真言)を唱え続けながら。

 二人はゆっくりと境内を歩くことにした。
「弥勒菩薩もあの大きさで木像だから助かったんだろうね」
 波多野が石畳を見つめながら呟きます。
「そうでなかったらとっくに灰になってる」
「何度も火事に遭ってるのね」


 尚美はそのたびに多くの仏像を抱えて運び出す人々を想像してみました。それは秦氏の子孫達であったのかもしれない。そしてみんな藍色の服を着ていたのかも…。
 波多野のシャツの裾をそっと掴んで、体を寄せる尚美だった。

                            (了)


(注1)嵐電…「らんでん」と読む。京都・四条大宮と嵐山を結ぶ京福電鉄の愛称。北野白梅町から帷子ノ辻を結ぶ北野線もあり、波多野はこれに乗った。なお神奈川県の「江ノ電」とはゆるやかな提携関係にある。車両も、雰囲気もよく似ている。

(注2)六角堂…京都市中京区六角通東洞院西入にある聖徳太子ゆかりのお堂。「六角通り」の名はここからきている。


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