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葉子、と。

兆し




  節分の次の日。葉子は家の土地を借りているお寺に毎月の地代の支払いに行った。空は晴れ上がり空気は冷え切っていて、道には昨晩、「鬼」めがけて投げつけられた豆がいくつも転がっていた。
 葉子は一年で一番寒いのはこの頃だと思っている。だけれどそれは春が近いということだとも。例えば大宅さんの庭で水仙の花が咲いていたり、天神さんで梅がほころび始めたように。そうそう澤田さんも退院して家に戻ってきているし。
 
 お寺の広い板張りの廊下の端で、葉子は管長さんが支払いの事務手続きを終えるのを待っていた。
 古い禅宗のお寺である。歴史は室町時代から続いているのだけれど、何度も火災に遭い、現在の建物は江戸時代のもの。
 玄関は吹き抜けになっていて、葉子の頭上で剥き出しの真っ黒な太い梁ががっしりと組まれている。玄関から三段上がると広い廊下。その端を区切って、観光客に入場券を販売し、絵はがきや禅宗の高僧たちの筆蹟集などを販売する受付スペースがこしらえてある。
 すべてが木造。葉子から右手へ伸びていく廊下は黒光りしていて、突き当たりには達磨和尚の古い襖絵がある。そこから右へ回り込むと、去年の秋、亨と波多野がお地蔵さんを運び込んだ方丈に出るのだけれど、葉子はそこまで入ったことはなかった。

 葉子の左手は管長一家の居住する建物につながっていて、廊下から衝立で仕切られた向こうに畳敷きの部屋が続いていた。その部屋に古い台帳やらノートが立てかけられた本棚と、印鑑、ボールペン、鉛筆などが突っ込まれた筒が置いてある文机があった。衝立の裏にはもう一つ机があるようで、度の強い眼鏡をかけた管長さんが文机と衝立の陰とをいったりきたりしている。台帳と通帳をつきあわせているようだった。

 毎月のことだけれど、支払いの手続きはとてもゆっくりとしている。そのことに葉子はすっかり慣れていて、いつもその間、古いお寺の壁や柱や前庭を眺めているのだった。黒光りする廊下もよく手入れされた前庭にも中年の女性がいて、静かに掃除をしていた。


「おやおや、どちらへお買い物?」
 衝立の向こうから女性の声が聞こえてきた。
 畳の部屋の向こうは大きな台所になっていて、そことも衝立一つで区切られている。天井は高く、仕切りが衝立だけなので部屋の風景が一部だけれども見える。だけど誰なのかはわからない。

「ははは。あらあほんまに、どちらへいかれるの」
 別の女性の声もする。

「あ」
 小さい声が衝立の裏から聞こえた。管長さんが衝立から頭だけを出すと、葉子を見て苦笑いだ。
「ごめんなさい。墓地管理料の台帳とまちごうてしもうて。いますぐしますから」
「はいはいわかりました」
 これもいつものこと。危なっかしいようだけれど間違えられたことは一度もない。ただ、とにかくゆっくりとしているのだ。

 台所のほうからは、「ふふふ」とか「ははは」と笑い声が聞こえてくる。随分楽しそうだな、と思いながら、葉子はこのお寺が女性ばかりなことに思い当たった。近所の話では管長さんは前管長さんの娘さんで、いわゆる執事のように寺の宗教行事を仕切っている男性のお坊さまは本山から派遣された方、とのことだった。その男性以外は掃除も案内も接待も、そして墓地の管理から貸している土地の管理まで、すべて女性たちがこなしているのだ。
 庭に、廊下に、台所に、そして今、帳面とにらめっこをしているであろう衝立の裏に、と女たちが散らばっている。
 また笑い声が聞こえてきた。一瞬、葉子には、女ばかりの匂うような空気が、古い建物のなかにひろがった気がした。しかし黒光りする廊下がすべてを吸い込んでしまったかのように、すぐに、しんとした空気に戻る。

「あれあれ、またお買い物?」
 と、また台所から。
 葉子は不思議に思った。確かに向こうは台所だけれどその外は、つまり勝手口の外は道路に面していない。長い土壁があるばかりなのだ。お手伝いの同僚がちょっとした買い物に出るためには葉子の方に出てこなくてはいけない。

 そうしているうちに台帳と通帳への記帳はようやく出来たようだった。
「どうもお待たせしました」
 そういいながら管長さんが衝立から姿を現した時、向こうの台所からも何かが動く気配がし、こちらに向かって音もなく子猫が駆けてきた。スーパーのレジ袋を口にくわえていた。水晶のような眼をしている。

「あらあ、かわいい」と、葉子。
 …なるほど「お買い物」やね…
「うちにご飯を食べに来る野良の『お母さん』が庫裏の縁の下で生んでねえ、うちで面倒みなあかんようになりましてん」
 管長さんは微笑みながら言う。
「あの、襖とか文化財とかひっかきません?大丈夫ですか」
「はい、あちらには行きしません」
 子猫は葉子の顔をじっと見ると、袋をくわえたまま、台所のほうにさっと引き返していった。

「あらあ、お帰り。何こうてきたん」
 女性の明るい声が聞こえてきます。
 葉子は、まるで明日にでも春が来るような気がしたのだった。

                                                                                                           (了)

花をどうぞ


 二月の半ばを過ぎた頃、波多野の住んでいるアパートから西へ一筋離れた家の前庭でミモザが咲いた。尚美は早朝のジョギングでそのミモザに気がついたのだけれど、その黄色の小さな花がびっしりと枝についた様子を、雪が積もっているものと勘違いした。数メートル手前までいってようやくそれが花だと気がついたのだった。

「どこにも雪なんて積もっていないのにね。去年だって見てるはずなのに…。ミモザって葉っぱが『お辞儀』してるでしょう。そこにあの房になった花が載ってるから、あ、雪だ。って」
「人間の思いこみっておもしろいよね。あの『かたち』と『氷点下近い気温』。その二つで雪と認識するんだもん」
 と、波多野。
「あと色。昼間見たらあれだけ鮮やかな黄色は雪だと思わないでしょ。日の出前でモノクロの世界だったから」
「でも真下にいく前にはわかったんだね」
 波多野は向かい風に眼を細めながら尚美に応える。
「うん、何か変、という気持ちはずっとあったんだけど、香がしたとたんに。あ、花なんだって」
「そうしてみると香ってすごいね。いろんな思いこみをいっぺんにひっくりがえすんだから」

 二人は今出川通りのパン屋さんに向かって歩いていた。明日は月曜日。花村家での朝食会にふたりでおいしいパンを持って行くことにしたのだ。

 冷たい風がとても強く、尚美は波多野と腕を組んで、ぴたりと体をつけていた。
 交差点で止まった二人の視線の先には、横に長く伸びる小さな山の斜面があって、雲の影が踊るように流れていた。
「まるで竜が暴れているみたい」と、尚美。
 信号が変わり歩き始めると児童公園で太極拳をしている人たちに出会った。全員がお婆さんだ。ラジカセから流れる音楽に合わせて、ゆっくりと手足を伸ばしている。まるでそこだけ強い風が吹いていないかのように見える。
「ゆったりとしているけれど眼が集中しているよね」
 通り過ぎながらマサルが呟いた。
「自分の体の内側を見つめる眼?それに呼吸が大切なんでしょうね」
「お婆さんなのに、とても柔らかいなあ」
 思わず背中や腰を伸ばして歩く二人なのだった。

                  *
 
 月曜日の朝だ。波多野と尚美のリクエストでミネストローネをつくった葉子は、家の前を掃除していた。
 人の気配に顔を上げると澤田さんが茫然とした表情でお寺の山門の前に立っていた。葉子が澤田さんの姿を見るのは、澤田さんが1ヵ月の入院から帰宅されてから初めての事だ。葉子は思わず息を呑んだ。澤田さんの染められていた髪はまっ白になり、脚も腕も身体もますます細くなっていたからである。だけどそのことより葉子が驚いたのはその眼でした。
…見ているようで、どこも見ていない…。
「あ、おはようございます。澤田さん。どうですか具合は」
 なんの答えもない。そもそも眼の焦点が合っていないのだ。
「今日はゴミの日?」
「いいえ明日ですよ、澤田さん」
 零度近い気温なのに、薄いパジャマにカーディガンを羽織っただけで、素足にサンダルである。生気が感じられない。
「あ、明日」
 そういうと澤田さんはゆっくりと踵を返した。葉子は言葉を失って立ち尽くしてしまった。

「花村さん」
 振り返ると葉子と同じように箒をもった大宅さんが立っていました。
「どう思う」と、大宅さん。
「どうって」


「澤田さんのこと。娘さんが毎日、介護のために来てはるやんか。その時に聞いたんやけど、家に帰ってきた時『ここは私の家と違う』ていわはって大変やったそうなんよ」
「お腹の具合が悪くて入院したってきいたけど、そのなんていうか…」
「うん。入院した途端、認知症っていうかボケが急に進んだみたいなのよ。娘さんは、あんな母を見た事がない、っていわはんねん。で、お医者さんが『脳のリハビリせな』いうんで退院しはったそうなんよ」
「そんなに急に」
「高齢の人には環境の変化は禁物なんやて。よく、よかれと思って田舎の親を都会に呼び寄せたら、急にボケることがけっこうあるらしいの」
「ふーん、そうなんや。だけど病気になったりしたら仕方ないしねえ」
「そう。そこらへんがねえー。難しいのよねえー…。だけど今、澤田さん『ゴミの日?』って聞いてはったでしょ。『自分の家やない』て、とこからは回復してるといえへんやろか」
 葉子はついさっき見た澤田さんの眼が忘れられず黙っていた。
「うん。戻ってきてる」
 大宅さんは葉子の答えを待たず、自分に言い聞かせていた。
「花村さん」
「はいっ」
「娘さんも、ヘルパーさんもいつもいはるわけやないから、澤田さんの事、私らで気いつけときましょ」
 葉子は黙って肯いた。

                   *

 レーズン入りのライ麦パン、カマンベールチーズを焼き込んだパン、玄米パン、クロワッサンと買い込んだ二人は、近くの北野天満宮を覗いてみる事にした。梅苑でも境内でも梅が咲いているはずだった。
 大鳥居から石畳をまっすぐにすすみ、石段を上がったところで二人は振り返りました。右手に梅苑を俯瞰できます。 
「もうずいぶん咲いてる」
「今月になってから何度も氷点下の朝になったけど、梅はどんどん咲き始めてたんだ」
 苑内では紅白の梅花が塊になりつつあります。
「夜になるとこれも『雪』に見えるかも」
「ミモザといっしょね」
「境内もみようか」
 二人は前に向き直り、門をくぐっていきました。境内の至る所で紅白の梅花が微かに揺れていた。


                    *


「おはようございます」
 葉子が振り返ると、パンの入った紙袋を抱えた尚美たちが並んでにっこり笑っていた。波多野の手には花のつい枝が数本、紙に包まれて握られている。
「おはよう。お、それが街で評判のパンやね。楽しみやわ。波多野君の持ってるのは紅梅?」
「桃の花です。白梅町の花屋さんで売ってたんで。どうぞ」
「わあ嬉しい」
「亨さんは?」
「珈琲、淹れてるとこ。さあ行きましょ」
 三人が家に向かって歩き始めた時、葉子は寺の山門の影に立ち尽くしている澤田さんの姿をみつけました。
「あ、二人で先にいってて」
 葉子は澤田さんの後ろに近づいて行った。澤田さんは、自分の家の横にある椿を見上げている。『鈴木さんの椿』だ。葉子は澤田さんの視線の先に見当をつけました。じっと探っていると葉の陰に隠れて紅い花がほころんでいます。
「あ、椿の一番花ですね」
 葉子の言葉にゆっくりと、とてもゆっくりと澤田さんが振り返った。能面のような顔だ。
「それは桃?」
 澤田さんは葉子の手元を見てそう言った。
「ええ」
「いま香がしました」
 葉子は桃の枝を一本、紙包みから抜き出して澤田さんに手渡した。
「どうぞ」
 澤田さんは黙って枝を受け取ると花に顔を近づけます。じっと何かを考えています。葉子は澤田さん顔に微笑みがひろがつていくのを見た。
(あっ!)
 ぱたぱたぱたと、つっかけの音がする。大宅さんが向こうから駆けてきた。 

                                                                                                          (了)


春を告げるもの 



 三月が近づくにつれて雨の日が増えていった。そしてその雨はつま先から凍える程に冷たくはなくなり、雨上がりの街の空気が柔らかくなったように葉子には思えるのだった。まだ寒さは残るものの、日に日に暖かくなり、昨日、葉子は買い物に行く途中で沈丁花が咲いているのを見つけてもいた。あとは桜の開花を待つばかりだな、と。

 葉子は尚美と一緒に烏丸一条の「とらや」まで行く途中である。どちらかが疲れたらバスに乗ると決めて歩いていた。二人とも雨上がりの澄んだ空気が好きなのだった。もちろん散歩も。

 「とらや」には雛祭りのお菓子を買いに行く。実は月曜日の食事会で話題が出た時、波多野と尚美は「とらや」は東京のお店だと思っている事が「発覚」した。それを亨と葉子がそうではなくて、もともとは京都の店であることを力説したのだった。

「東京に遷都した時に『ついていった』お店の一つなねん。御所の周りにあった和菓子屋さんの中にもたくさん東京へ移っていったお店がある、て、子供の頃聞いたの。『とらや』さんは御所の横の店を残して東京へ出ていったんやけどね」
「『とらやの羊羹』て、有名でしょ。てっきり東京のものだと思ってたな」
「御所の『御用』だったところで天皇さんについていったお店はほかにもあるよ。たとえばお香の鳩居堂とか」
「あの銀座にある地価日本一でよく紹介されていたところですか」

「そうそう。鳩居堂は寺町三条下がったところにあるよ。まあ『とらや』も鳩居堂も今では東京が本社やとおもうけど、もともとは京都なねん」
「それにしても『東京に遷都』って京都ですねー」


 で、ついでに綺麗な庭も見てみようと、「とらや」へ行くことになったのだ。お菓子は安くはないけれど年に一度の雛祭りなので。
 家を出ると澤田さんとばったり出会った。クリーム色のスラックスに柔らかそうな薄い紫のシャツを着て、まっ白なズック靴が道に浮かんでいるようだ。
「おはようございます」
 葉子がそういうと、澤田さんは声ではなく満面の笑みを返してくれた。
 …ずいぶんよくなってきはった…
 ふと見ると、中指と人差し指で真新しいセブンスターを挟んでいます。澤田さんは愛煙家だった。葉子にはその挟み方がなんとも優美に見える。細い沁みだらけの指だけれど、とても美しい、と。


 それからお寺の森の横の道を歩いていると、ウグイスの声が聞こえてきた。
…ほーほけきょけ…
…きょけーきょけきょけ…
「春告げ鳥も本調子やないわね」
 葉子はそういうと声の聞こえた梢に向かって
「ほーほけきょ」
 と、声をかけました。
「ウグイスはね、鳴き真似で声を覚えるって聞いたことがあるの」
「え、ほんとですか」

…ほーほけきかきょか…
      「ほーほけきょ」
…きょっ きょっ…
      「ほーほけきょっ」
…ほーほけきょきょ…
      「あっ惜しい」
      「ほーほけきょ」
…ほーほけきょ…
      「ふふふ」

 二人は森の横を過ぎ、街の細かな通りを選んで歩いていった。
「葉子さん、瀬戸内には春告げ鳥と同じように『春告げ魚』がいるんですよ」
「へえ愛媛の方で?」
「知られてるのは神戸のものなんですけど」
「あ、それなら知ってる。『いかなご』でしょ」
「そうなんです。私『くぎに』が大好きなんです」
「あ、私も好き。今年はもう水揚げあったんかしら」
「大漁やったみたいですよ」
「ほなら『とらや』によったら錦市場までいってみよか。今年の初物があるかもしれへんやん。バスですぐやし」
「はいっ」

 二人の足は西陣を抜け、どんどん南東へ向かっていく。尚美は毎朝、走っているので平気なのだけれど、しっかり歩く葉子に尚美は感心していた。しかも時々鼻歌を歌いながら歩いています。さっきは「ひなまつり」。続いて「ロビンソン」。葉子が黙っているときは次の歌を探しているような気になる。

「うったうたうー」
「え、なんですかそれ」
「大好きな小説に出てくるの。小説読む?」
「はい。こんど読ませてください」
「うん」

 二人は御所横の烏丸通りにでました。まっすぐ南に向かって歩いていると、前から小学生の女の子が歩いてきます。もう下校する時間になっていました。
 女の子はピンクのパーカーを腰に巻き付けて歩いています。濃紺の半袖Tシャツとジーンズの短いスカート。(寒くないかしら)背中までの髪が後ろに流れています。近づくにつれて少し怒っているような表情がわかりました。伏し目がちに口をきっと結んで早足で歩いてきます。家の隙間や細い路地から西陽が女の子に当たります。そのたびに顔が、、脚が、腕が輝きます。
 すれ違うときに、葉子はその金色に光るうぶ毛の腕を見ました。その瞬間、それがまるで初めて世界へでてきた「もの」のように感じたのです。体に電流が走ったようでした。
 「その腕」はまるでこの日を待っていたかのように思えました。北風に寒さを感じなくなるのを待っていたかのような。まるで無防備なまま世界に現れた、はかなさすら感じさせるほどの肌理の細かな白い肌。
 葉子は目を奪われました。


「もう春なんですね」
 思わず立ち止まり振り返った葉子の背中を追い越してゆく尚美の声と視線も、去っていく少女の方に向けられていました。

   (了)

●東京赤坂・京都烏丸一条にある「とらや」は「虎屋本舗」ではありません。
http://www.toraya-group.co.jp/main.html

●鳩居堂はこちら。
http://www.kyukyodo.co.jp/

●「うったうたうー」については江國香織・「左岸」(新潮社)を参照されたし。
●「ロビンソン」はスピッツの曲です。


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