見出し画像

葉子、と。

ぎゃあてえぎゃあてえはらぎゃあてえ


 普段、町内ではあまり聴くことのない大声が葉子の耳に聞こえてきた。声の主はどうやら四軒隣の土生さんのようである。路地で立ち話をしている脇を何度か通り抜けたことがあるので、その声には聞き覚えがあった。ベランダで洗濯物を干す手をちょっと止めて耳を澄ますと、「いやそやから土生さんに…」という声が聞こえた。それは間違いなく大宅さんの声。

「わしはいやや ゆうてんねん わからん人やな」
 土生さんの激しい声でその会話は突然断ち切られた。戸をぱちんと閉める音のあとは、いつもの静かな路地に戻りはしたのだけれど。

 葉子は、毎日大宅さんと顔を合わせます。それは二人が八百屋とスーパーで午前中の同じ時間帯に買い物を済ませてしまうから。大抵、どちらかで出会うのだった。その日は八百屋で葉子は大宅さんとばったり。
「朝、土生さんとこいってはったでしょう。なんや大きな声が聞こえてたけど」
「あ、やっぱり聞こえた?いやあ困っていてねえ。実はお地蔵さんの祠の土台が虫にやられてぼろぼろになってるんよ。それで修理してもらおうと思うて町内の人に了解とって廻ってるん。花村さんとこも今日、行こう思ててん。でな、そうしようおもたら、修理の間、お地蔵さんをどこかに移さなあかんやんか。職人さんも移してくれるならやりますよ、ていうてはんねん」

 路地の突き当たり、中田さんの所有する学生マンションの壁を背にして、この路地のお地蔵さんは祠に安置されていた。
「あれは土生さんが毎朝…」
「そやろ」

 京都は地蔵信仰発祥の地だ。現在でも各町内、いや各路地という単位でお地蔵さんが奉られている。新しい宅地の造成や道路の拡張などのために、それこそ道ばたに雨ざらしの状態になっているものも含めるとその数は見当もつかないくらいだ。ほとんどの町内や路地では高さ1メートルほどの石垣を組んだ土台の上に小さな社や祠を据え、その中に子育て地蔵菩薩と大日如来との二体の石仏が収められている。およそ高さが40センチくらいのものだ。二体ともよだれかけをしていて、そこには路地に住む人や、その血縁である児の名前が書かれている。町では当番を決めて常にお花を供えているし、毎日、誰かしらが線香をあげて子の健康を祈願していた。子供の健やかな成長を願うためのお地蔵さんなのだ。


 土生さんが、そのお地蔵さんの前でお経を唱えだしたのは今年に入ってからだった。カセットデッキを道路に置いてテープを流し、それにあわせて自らも般若心経を唱えるのだ。子育てとはまったく縁のないように見える土生さんの、突然の「お勤め」に町内一同びっくりしたのだが、だからといって信心を止め立てする人もいるわけもなく、ただ異様に大きいテープのヴォリュームと、やたらとならされる鉦の音が午前五時の路地にはうるさく、案の定マンションから苦情が出たのだった。土生さんはそれでもおかまいなしにテープも鉦も続けていたのだけれど、老人会の方から「テープは邪道や」といわれるとすぐにテープを止め、老人会のカラオケ大会で「あんさん、あんなに鉦を鳴らすのは、お経のやり方、まちごうてまっせ」といわれると鉦も止め、今ではぶつぶつと般若心経を唱えるだけになったのだった。

…なむはんにゃあはーらーみーたー からはじまる般若心経。葉子は法事や地蔵盆の時に聞くその経の「ぎゃあてえぎゃあてえはらぎゃあてえ」という部分の音が面白く、そこだけおぼえているのだけれど、土生さんのはなんだかその部分が不明瞭に聞こえる、と思っていた。

「町内でもいちばん熱心にお地蔵さんに向きあってはる人やから、大切なお地蔵さんを移すの手伝ってください、てゆうたんよ。女の手では無理やし。そしたら『いやや』の一言でおしまい」と大宅さん。
「いやや、ってなんでやろ」
「『そんなん下に置いといたらええやろ』ていわはんねん」
「雨ざらしになるやん」
「そやろ。そやからどの町内でも祠やお社つくってんねんやんか。それが何が気に喰わへんのか、しまいに『あんたらとは宗旨が違うんや』やて。どんな宗旨やねん。ほんまに」
「まあまあまあ」

 土生さんは70歳くらいのお爺さん。西陣織りの下絵を描いていたという。奥さんと二人暮らし。仕事はリタイアしていて、毎日、家からは民謡やらムード歌謡を唄う声が聞こえてくる。町内の評判はすごぶる悪く、みな、あの人は偏屈や、というくらい。カラオケやお祭りで気心の知れた老人会のメンバーとは和気藹々と語りあっている姿がみられるのだけれど 、同じ町内の人間とは口も聞かず挨拶もしない。


 それどころか右隣の家の椿が塀よりも高く伸びたら自分の敷地の外なのに枝をへし折り中に投げ込んだり、たまに家の前を角掃きしたら「鈴木さんの椿」の根元にわざわざゴミを棄てたり、雪が降ったら石のはいった雪玉を左隣の家の壁にいくつも投げつけたりするのだった。そしてそのいちいちを町内の人に目撃され、その都度もめてきたのだった。

「それでねえ、お地蔵さんどうしようと思てね。お地蔵さんは古いでしょう。わたし怖くて」
「怖い?」
 葉子はちっともそんなふうに考えたことも感じたこともなかった。聞いてみると、大宅さんはこの町内に来る前は上京の、由緒ある古い神社の近所に住んでいたのだそうだ。もちろんその町内にもお地蔵さんはあり、今回と同じように祠が傷んだので修理することになったという。その間、お地蔵さんをどうするか町内で話し合ったところ、自分の家のガレージを提供したご夫婦がいたというのです。
「修理が済んですぐに、そのご夫婦が二人とも亡くなったんよ。そしたら…お地蔵さんをガレージみたいなところに置くからや。粗末に扱ったからやゆうて、えらいいわれて。うん、偶然なんや。たぶん偶然なんやろけど、気い悪いやんか。またそんなことあったら…」
「そら…ねえ。そらまあねえ。そうやねえ」
「で、ここのお寺に預かってもらおうと思って話聞いてきたの」
 それは葉子たちの町内にある古い禅寺です。
「どうでした」
「そしたら、魂を抜いたあと、奧の御本尊の脇に置いてくれはるらしいの。ただしお地蔵さんを運んでくれたら、という条件付き」
 つまり、職人さんも、土生さんも、お寺の和尚さんさえも、たぶん大宅さんもお地蔵さんを動かしたり触れたりしたくくないんや、と葉子は思った。
「で、花村さんのとこ、どうやろお。運んでくれへんやろか」
「え!うち!!」

 その夜、葉子は亨に事の次第を説明したのです。
「あ、ええよ。日が決まったらゆうてよ」
 あっさりと亨は答えた。葉子も亨も京都育ちですが、子供の頃地蔵盆で遊んでいたお地蔵さんを「守る」立場になったのはこの町内に来てからのことだった。二人ともお地蔵さんがそこまで畏怖されているとは知らなかった。お地蔵さんを粗末に扱ったものに仏罰がくだる、という単純な因果に葉子は半信半疑だったけれど、例えそうだとしても今回のことはお地蔵さんのためにやることなんだから「よきこと」なはず。よもや亨に変なことは起きないと思っていた。だけれども葉子は亨が「いややで」といってくれたら即座に大宅さんに断ろうとも思っていたのだった。だけど亨はすました顔をしている。
「たしか二つあったよね」
「地蔵菩薩と大日如来」
「一人で二つはしんどいなあ。こういう時こそあいつ呼ばなきゃ」
「波多野君?」
「そう。あいつに手伝ってもらおう。それにあいつ、こういう事にやたらと鋭いやんか」
 
 快晴。気持ちのいい風が吹いていた。
 最初に予定した日は仏滅だったので延期になり、大安の日曜日の朝、いよいよお地蔵さんを運び出すのだ。祠の前に大きな椅子が置かれ、紫の座蒲団が和尚さんを待っていた。
 町内の人たちがほとんど集ったけれど、老人たちは皆一様に腰やら脚を痛めているので床机に腰掛けている。そして土生さんはいなかった。
 葉子も亨も波多野もみんなと同じように数珠を持って和尚の到着を待った。尚美も波多野について来ていた。やがて袈裟に身を包んで禅寺から和尚さんが歩いて到着。椅子に腰掛け、線香を立てると、合掌をし、じっとお地蔵さんを見つめます。
「ここのんも古いですなあ、いつごろのものやろ。やっぱり平安後期かな…仏さんに年月や名前は彫ってありませんでしたか」
「いやあもう全部溶けてます。…お顔ももう…」
 お婆さんの誰かが答えました。
「ああそれはそうですわねえ。祠はいつのもの?」
「これは昭和57年と書いてありました。その年に新築しはったみたいです」
 修理を引き受けてくれた職人さんが答えた。
…ということはその時もお地蔵さんは動かされたんや。誰が…と、葉子は一瞬思う。
「ずっとこの場所にあったんでしょうか」と和尚。和尚さんは三年前に、古刹の住職に赴任され、この町内のことは詳しくないのだ。
「いいえ。あちらにいはったんです」
 もう一人のお婆さんが答え、波多野がそこを指さした。同じ町内の人間でもないのに、しかも大学生なのに何故わかるのか、驚いたのは葉子だけのようで、他のみんなは肯いている。亨も波多野なんだから、といいたげに葉子を見てにやり。
「あそこはもともと野っぱらで、そこにいはったんですねんけど、家が建つことになって、ここに移らはったんです」とお婆さん。
 波多野が指さしていた場所は土生さんの家だった。
「ああそうですか。じゃ、始めます」
 そういって和尚さんはいくつかの印をきり、般若心経を唱え始めた。皆が神妙に聞いているうちに、葉子のお気に入りの一節やってた
「…ぎゃあてえぎゃあてえはらぎゃあてえ…」
 やっぱり違う、と葉子は思う。…ほんもの、やわ。…

 和尚さんはあと二つの経を唱え、式を終えた。
「さあではお願いできますか」
 そう言い残すとお寺へすたすたとまた歩いて寺へ帰って行った。

 亨が路地に車をまわし、波多野が小さく肯いて祠の前に立った。波多野の真っ青なシャツが朝の光に輝き、風に揺れていた。葉子と尚美が白い布を二人に渡す。
「ぼくが出します」
 そういうと波多野が祠の奧の扉を開き、石のお地蔵さんを一体ずつ取り出しにかかった。まず白いよだれかけの地蔵さん。白い布を持った亨に渡す。
「おっ、けっこう重いな」
 亨はお地蔵さんを白い布でくるむと、車の助手席にそっと置いた。次に赤いよだれかけのお地蔵さん。
 祠が空になったところで職人さんが前に出てきた。
「土台以外はまだまだ綺麗やね」
 といいながら亨に声をかけ、屋根の下を二人で持ち上げた。すぽんっ、と屋根が外れ、次に正面の扉もすぽん。組み立ての造作がすんなり解けた。

 道の反対側に止められの車に分解された祠が積み込まみ、この傷みなら二日後にはできてますから、といって職人さんが帰っていった。
 それから亨たちがゆるゆるとお寺に向かったのだった。


 室町時代にできたという禅寺の正面から、二人はお地蔵さんを抱えて入っていった。何度か焼失を繰り返した寺の現在の建物は江戸期のもの。達磨大師の大きな画の前に和尚が立っていて、「こちらに」と、先に立っていく。ついた先はしんとした本堂の大日如来坐像の脇だった。縁側の扉がすべて開け放たれていて風が吹き抜けていた。
「確かにお預かりしました。祠が治ったら連絡してくださいね。また伺いますので」
 和尚がそういって二人に手をあわせたのだった。

 二人が祠のあった石垣の土台の前に戻ると、椅子は撤収されていたが、床机に座ったお婆さんの何人かと葉子と尚美を含めた女性たちが待っていた。みんながごくろうさん、と声をかけてくれる。例によって波多野はは女性たちの関心を一手に集めたようだ。まあ何と美しいお方やろ、というお婆さんや、こんな白魚みたいな手であんな重たいものをよう持たはったねえ、と波多野の手を離さないお婆さんまで。大宅さんも時々、ぼおっとして波多野に見とれている様子。葉子はそれが面白くてたまらない。
「もうすぐに修理はできるようですから」
 亨の一言にやっと婆さんたちは、いや、女たちは振り返るのだった。


 二日後。またしても快晴。ずいぶん秋らしくなった日射しの中、今日お地蔵さんが帰ってくる。祠の前には祭壇が組まれ地蔵盆の時のような供物が並べられている。赤飯も炊かれた。
 午前十時、亨とマサルがお地蔵さんを引き取りにいった。掃除の人が数人いるだけの静かな伽藍を歩き本尊の前へ。それぞれがお地蔵さんを抱えると、二人は顔を見合わた。持ってきた時よりもあきらかに重くなっているのだ。慎重に運びだそうとすると、和尚が声をかけてきた。
「京都の地蔵信仰の源流というかおおもとの仏さんはこの寺にあるんですよ」
「え、そうなんですか」
「観光客の方には教えてませんけどね」
「京都の人も知らないんとちゃいます」
「たぶん知らはらへんでしょう」

 二人が車で路地に戻ると、すでに職人さんが祠を組み上げていた。そこに慎重にお地蔵さんを戻す。
「くうっ、重いな。あかん」
 亨が一度外に戻した。ぼくがやりましょう、といって波多野が亨からお地蔵さんを受け取り、そっと中に安置した。ひとつ、もうひとつ…。
 お婆さんたちはその姿にうっとりとしている。
 二人の後ろでは和尚さんが待っていて、すぐに魂を戻す式が始また。また般若心経です。そして「…ぎゃあてえぎゃあてえ…」。
 波多野が亨にこっそりと囁いた。
「きっとお地蔵さん軽くなってますよ」
「なんで」
「魂が戻ったから。さっきぼくらが運んだのはただの石ですから」
「あ、そうか!」

 式が無事に終了。口々に、お疲れさんどした、といいながら老人たちが引き上げていく。波多野と亨は尚美と葉子と一緒に花村家へ。大宅さんが走ってきた。
「ほんまに無事終わってよかった。ほんまにおおきに」
 大宅さんは何度も頭を下げるのだった。

 テーブルに久しぶりに四人が揃った。尚美と波多野はミルクティーを飲みながら、葉子からこの間のいきさつを聞いたのだった。
「土生さんみたいな人って町内に必ずいますよね。なんかこう偏屈な人」と尚美。
「この後どうするんやろ」葉子は頬杖をついています。
「知らん顔してまた拝まはりますよ」波多野は断言する。
「協力を拒否していて、また平気な顔して拝むの?どんな神経なんやろ」
「何を願っているのかわからへんけど、あの人にはあの人なりの何かがあるんやろ」と亨。

「そうですね。どこかに外孫がいるのかもしれないし。その子のためだったり自分のためにお経あげるのかも知れませんから」と波多野。
「へえ、男の人たちはずいぶん優しいんやね。私はなんか腹立つなあ」
 葉子はどうも腑に落ちない。

 翌朝、午前五時過ぎ。葉子が起きだしてぼんやりしていると、家の外から般若心経を唱える土生さんの声が聞こえてきた。たぶん大宅さんの家にも聞こえているだろうなあ、怒ってるだろうなあ、と思いながらお湯を沸かし、珈琲を淹れる準備を整えていく。朝起き抜けに亨がキスをしてくれたので、葉子はなんだかご機嫌だった。

 ふいに般若心経を唱える土生さんの背中が脳裏に浮かんだ。
 …丸い背中…
 葉子は急に切ない気持ちになった。

「…ぎゃあXXXーぎゃXXあXーはらぎXXXゃXXあXXえ…」
 …だけどやっぱり何をゆうてるのかよう聞こえへんなあ…
 葉子は首をすくめてくすっと笑うのだった。

                         (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?