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音函

雲がたくさん浮かんだ空のした
犬の遺骸と山をのぼった
まっしろな急坂には いが栗がいっぱいに落ちていて
わたしたちはけっして滑らなかった
最後に触れた白い躯にねぎらいの言葉をかけて
まわりに家の花を敷き詰めた
煙の気配をしみこませながら
指から流れる汗を独りで見ていた
喉仏をまんなかに 箱を閉めて 抱きしめて
家に帰る
まばらな光の 峠の向こうで
雷が響き始めていた 


草の音


金曜日の夜、仕事を終えたぼくは、まっすぐに車で妙子の家をめざした。市街を抜けて国道一号線を南下し、ある交差点で右折する。
 と、あたりはいっぺんに闇が濃くなる。人が歩いていない。
 前進していくとすぐに、忘れ去られたかのような静かな土地になっていく。国道の轟音と光に慣れた耳と眼がゆっくりと興奮を鎮めていく。
ほとんどが畑である。ぽつりぽつりと倉庫が立ち、もっとまばらに人家がある。さらに進むと闇の一段と濃い帯が見えてくる。淀川の堤防である。その上は全開の夜空。
 妙子が一人で住んでいる家はその真横にあった。
 午後8時を過ぎていた。
「酷い顔してる」妙子の笑顔が待っていた。
「そりゃ、一週間分の疲れがね、どっと」
 ぼくも笑ったつもりだった。
「遅くなったね。ごめん」
「お疲れさま」
 玄関から小さなキッチンへすすみ、ぼくたちはふたりだけのささやかな夕食を始めた。
 妙子が用意してくれたのは魚の形をした瓶の赤ワイン、いろんな種類のフランスパンとチーズ、ほうれん草のサラダ。それに鯛のカルパッチョ。カルパッチョに乗っているディルの香りが漂っていた。
 お互いの仕事の話や友人たちの話をしながらの食事の時間は、ゆったりと過ぎていった。
「かたづけるよ」
「うん」
 二人で並んでシンクの前に立つ。洗うのはぼくで拭いていくのは妙子だ。食器は妙子が揃えたもののほかに、ふたりで陶器市で買った大皿や小皿など。それぞれを買った時のことはすぐに思い出すことができる。
 こうやっていくつも想い出を積むようにして生きてきた。
 かたわらの妙子を見る。
 もう何年こうやってきただろう。二年、三年、…。
「どうしたの」
「いや」
 二人が黙ると遠くから轟音の残骸のような音が響いてくる。国道を走る車の、音の塊だ。夜の通低音のように低く途切れずに。耳を澄ませていると川の流れる音にも気がつく。そして、いつしかこれらの音が消えていく。最初からなかったかのように。だけど間違いなくふたりはその音の川に挟まれているのだ。
 妙子は染織作家を目指していて、個人の作業スペースを確保するためにこの家を借りて住んでいる。ぼくはずっと北の市街に住み、そこで働いている。そして週末にここに会いにくるのだ。ぼくの部屋でも会えるけれど、ぼくはこの家が好きだった。すみずみまで妙子の「手」が入っている事が好きだった。

 ぼくらは同じ高校に通い、その時からずっと付き合っている。そして卒業してから十年が過ぎていた。
 ふたりで食器を片付けて、テーブルを拭く。静けさだけが広がっていく家。風の音がした。風が堤防の草を渡っていく音だ。波のように、駆けるように。強く弱く、まるで夜の息のようにも思える音だった。
 それから二人はゆっくりと抱き合う。ちいさい灯りだけをたよりに、お互いを求める。
 いとおしい人と、時を忘れ、全てを忘れ、手を伸ばし、相手だけを確かめながら。
 それから闇の中へ落ちていくように眠る。草の揺れる音、ずっと家を撫ぜていた音に抱かれるように。
 胸にとまっている妙子の手の重さで目を醒ました。風の音が唸りをあげていた。
 まどろみのなかで、二人の間に小さなもう一つの命がいたら、と突然思った。ここにもう一つの命が眠っていたら、と。
 

 想像の中でその子が目を醒まし、妙子にじゃれていく。
 草の揺れる音が強くなった。
 いとおしさだけで妙子とずっと暮らしていく事ができるのだろうか。
 部屋にさしこむ光が上半身を照らす。
 そうじゃない。できる、できない、じゃない。そう生きるんだ。

 目の横に妙子の頬があって、指でつつくと、起きてるよ、と目を瞑ったままで言う。立ち上がって窓を開け放ち、目の前でうねる草と、その弾く光の粒を見ながら、川から吹きこむ風を浴びた。
 堤防を散歩しようと言った。妙子は化粧のない綺麗な顔で黙って笑った。
 草の音が一段と高くなり、玄関を開けると、視界の全部が草の緑と葉翳の黒に埋め尽くされ、それらが光の粉を振り撒きながらうねっていた。草の中、堤防を上っていく。
 強い風によろめいて握ってきた妙子の手が瘠せているのに気づいた。光が降り注ぐ堤防で、見渡す限りふたりだけだった。草の音だけが鳴っている。
 ぼくは妙子の瘠せた手を握りしめた。もうこの手を離さない。思いが口からこぼれ出した。
「なぁ」
「なあに」
                                                              (了)
  

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