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音函

踏切


朝は遺跡、踏切こそ
繰り返し踏み固められた重さに
時間が破れている
静かな二筋の鉄の版、日々は
落ちてこない空とレイルの間の
いちまいの版画
削られる時間は赤い鉄粉に染まり、人の
眼を鎮めては立ち尽くさせて、鳥が
いちばんに切る、踏切の朝
緑の滴が落ちて鉄の眼が開いた



魚子薔薇

 早春の朝の光は、まるで水を含んでいるようだ。空気は澄み切っていて、すべての植物はしっとりと濡れて輝いていた。
 団地のとあるベランダでも、黒いワイヤースタンドに据えられたいくつかの木箱の中でハーブ類が輝いていた。
 ガラス戸の向こうから母親らしき女性のくぐもった声がして、戸が開け放たれた。出てきたのは白いトレーナーにジーンズのスカートをはいた幼い女の子だった。自分のではなく大人用のサンダルを足全体で持ち上げるようにしてつっかけ、ハーブの箱のところまで歩み寄ると、小さな声でオマジナイを唱えだした。
「みんとしゃんろけっとしゃんばじるしゃんうーーんとおおきくなぁれ」
 手に持った赤い金魚の形をしたジョウロから水を根元に注いでいく。カラになるとパタンパタンパタンとガラス戸の向こうに戻り、ジョウロを水で満たして戻ってくる。今度はベランダの右隅に大きく場所をとり、こんもりと繁っている植物の根元に水を注ぐ。そしてここでも植物に声をかける。オマジナイであるかどうかはわからない。
「ななこしゃんはきれいだねぇ」
「ななこ」と呼ばれた植物にはたくさんの花芽がついていた。
 

 夜のバスターミナルは、いちめん黒く輝く池のようだ。潤一はバスを1本やり過ごしたあと、待っている列の先頭に立ち、目の前に現れたがらんどうのターミナルを見ながらそう思った。そういえば団地にも小さな池があった。「池」に映る夜の光。この私鉄駅前の「バスプール」だとネオン、団地では家の灯りだ。奈々子も池の周りで遊んでいるのだろうか。自分が不在の昼間、今年で三歳になる奈々子はどうしているのだろう。バスを待っている間、潤一はその想いを募らせていった。
 まるで深海魚のように、団地を循環するバスが滑りこんできた。バスを一便やりすごして受け取った紙袋を体の正面に持ち、潤一は運転席横のシングルシートにすわった。袋の中には小さな苗が入っている。潤一は混雑でその苗を少しでも損ないたくなかったのだった。
 きっかけは偶然だった。潤一は巨大な印刷工場で働いている。そこでたまたま刷っていた、大きな園芸店の通販カタログの色むらをチェックしていて「魚子薔薇」という名前に出会ったのだ。色を見てみると白い五枚の花弁で、先だけがピンクのぼかしのようになっている。とても普通の「薔薇」には見えなかった。さらに、潤一は写真に添えられた説明文に引きつけられた。
…ななこ?…。
 
 カタログでは「魚子」と書いて「ななこ」と読ませていた。「ちいさい」という意味なのかもしれない、と潤一は考えた。たしかにその花は小さくて弱々しく見える。説明書きによれば、薔薇の原産地の一つ中国から大阪の商人の手によって日本にもたらされた薔薇があるという。それは現在「ナニワノイバラ」という名前で流通している。その「ナニワノイバラ」をベースにして作り出されたのがこの「魚子薔薇」だという。できたのは江戸の中期とある。
 そのカタログの違うページには「ナニワノイバラ」も紹介されていた。差は歴然としていた。強い緑とでもいうのだろうか、ナニワノイバラのほうの葉は艶めいていた。そして真っ白な花。ハイブリッドティーやオールドローズなどのヨーロッパスタイルの薔薇を見慣れた目にはとても薔薇とは言い難い。しかし、もともとの薔薇はこういう花だったのだ。シンプルで明るさと逞しさを感じさせるナニワノイバラに対して魚子薔薇のほうはいかにも日本的だ。微妙な色のぼかしかたも、繁り方も。しかも四季咲きだという。
 同じ薔薇でもここまで個性が違う。まるで別の植物と見まがうばかりに。
「ななこ、か」潤一は娘の名前を呟いていた。
 潤一は妻の信子がベランダでハーブ類を育てている姿を思った。毎朝、ダイニングテーブルで珈琲を飲んでいると、ベランダで丹念に世話をしている信子の柔らかそうなお尻が見える。たいていは眠っている奈々子も、日曜日などは信子の傍らに立ってなにやら葉を触ったり土をいじったりしているようだ。潤一はその姿が好きだった。そして娘と同じ音の名前を持つ薔薇をその横に置きたいと、その時思ったのだった。
 通勤途中にある園芸店で注文し、2週間で手に入れた。信子にはもう言ってある。
「まさか、そんな名前の薔薇があるなんてね。ほら薔薇って皇室関係の名前とか、外国の女性名がほとんどでしょ。まさか奈々ちゃんと同じ名前の薔薇があるなんてね」
 夫から聞いたその日から信子はインターネットで「魚子薔薇」を検索し、育て方のメモをとると、ベランダの右隅あたりに新たにワインの木箱を置く準備を始めていた。
 とっぷりと闇の降りた団地の同じバス停で降りた十数人は、まるで蜘蛛の子を散らすように一瞬で各棟へ散開していく。真四角の暖色系のいくつもの灯りが帰宅を待っている。潤一は少し急いで家に向かった。家に着き扉を開けると奈々子がかけてきた。苗を信子に渡し、奈々子を抱き上げる。
「かわいらしい苗ね。でもほんとに『薔薇』には見えないわね…。よーし、綺麗に咲かせましょう」
「奈々子はどうだった」
「うん、元気よ」
 奈々子はきゃあきゃあと笑っていた。

 翌日、潤一が出社した後、家事を済ませた信子は薔薇の植付け作業を始めた。カタログには半つる性と書いてある。小さな格子のフェンスを補助に使い、こんもりと繁らせる計画である。ちいさな葉も茎もとても頼りなげで、果たして育つかどうか少し不安を覚えるけれど、とにかく陽射しはある。風もある。私が見てあげればかならず花は咲くはず。
信子はそう思いなおして盛った土を固め、水をたっぷりと与えていった。横では奈々子が母親の手元を見ながらちょこちょこっと手を出している。信子が土を触れば土を、苗を触れば苗にそっと触れようとしていた。そうして植え込みが終わると信子は毎日欠かさないオマジナイを唱える。
「ミントさんバジルさんロケットさん元気に育ってね。今日からはななこさんも仲間入りね。ななこさんも元気に育って」
 奈々子は首を少し傾げて、母親の呟きを聞いているのだった。信子は、聴きながらそっと薔薇の苗を撫でている奈々子を、たまらなくいとおしく思った。
…この子は植物が大好き。とても優しい子。だけど…
「だけど」
 その言葉の先を信子は飲み込んだ。それを口にすれば世界が壊れる気がほんとうにした。自分と潤一と奈々子の三人で、とにもかくにも日々つくりあげている生活そのものが一瞬にして崩れてしまう気がした。そんな言葉を脳裏にうかべた自分の気持ちを責めた。信子は防水エプロンをはずし奈々子と部屋に戻ると、一緒に手を洗い、急いで奈々子の前に坐る。
「奈々ちゃん、あの『はっぱ』もななちゃんですよぉ」
 信子は奈々子を抱きしめた。ぐうぅっと言って奈々子がしがみついてくる。顔を覗きこむと嬉しそうに微笑んでいる。
「ななちゃんはいつでもごきげんでしゅねぇ。さあ、奈々ちゃんお話しましょ」



 信子は夕食の買い物に出かけた。午前中にだいたいのメニューを決めて、冷蔵庫をチェックしメモを書き出す。早ければお昼前、そうでなければ奈々子がお昼寝をした後、午後三時ごろには団地の中央にあるマーケットへ出かける。もちろん奈々子も一緒だ。
 団地は外周を、計画された幅の広い道路が円環状に取り巻いているのと、縦断と横断のまっすぐな道が一本ずつある以外は、人が歩く程度の細い道が各棟の間を網の目のように走っていた。住民の殆どはその細い道を利用している。
 団地ができてから三十年以上が過ぎ、並木のケヤキや桜も、棟の前に植えられている椿やツツジも立派に成熟していた。また、それ以外の地面はリュウノヒゲという濃い緑の細長い草がびっしりとはえていたから、人々はさながら緑の海を歩いているようだった。
 少し歩くと信子は声をかけられた。同じ棟に住む小沢さんである。小沢さんには奈々子より一つ年上の裕樹君という男の子がいる。目がくりくりっとしていて、いつも走り回っているような子だ。
「あ、こんにちは。お買い物?」
「こんにちは。そうなんですよ。奈々ちゃんもお買い物?」
 小沢さんが奈々子を覗きこんで言う。
「奈々ちゃん『こんにちは』は?」
信子は奈々子のかわりに、決まり文句で答えた。奈々子は唇をきっと結び固い表情のままだ。じっと黙っている。
「ままー」
 裕樹君は興味津々といった顔で奈々子を覗き込んでいたけれど、なんの反応もしないとみるや、母親に先に行こうと急かし始めた。
「これ、裕樹。少しは奈々ちゃんを見習いなさい。すみませんねぇ。もう落ち着きがなくって」
そう言いながら小沢さんは先にマーケットのほうへ歩いていった。それを見送りながら信子は胸のまんなかあたりで、じゅっと音がしたような気がした。
…いや、そんなことはない。自分でそんなことを決めつけてどうするの…
 信子は小沢さんが奈々子を覗き込んだ目を思った。
…あの目、あきらかに「可哀相に」といっていた。でも、その裏にはうちは違う。よかったという安堵があるに違いない…
 だけど、と信子は思う。そんなふうに感じるほど私はこの子を信じていないのかしら。いやそんなことはない。「私たち」は「私たち」できちんと暮らしているのだから。しかし、あの目…。
 信子は冷静に自分の感情をのぞきこんだ。
 結局、悔しいんだ。悔しい?何が?うちの子が、うちの子が…。何故、悔しがる必要があるの。駄目。あの子の力になれるのは「わたしたち」しかいないんだから。
 

 夜、奈々子はもう寝ている。信子は潤一に昼間感じたことを話した。
「小沢さんが悪人だなんて思わないの。ただ、彼女のそういう『動作』をみただけでそう感じてしまう自分が情けなくてね。大丈夫、大丈夫と思うんだけど、正直、不安が顔をもたげてきて、くたびれたと思う時もあるの」
「不安なのはわかるよ。不安に振り回され続けているのもいやだろう。検査を受けてみるか」
「検査ね。どこかに具合の悪い所がないかって」
「うん、問題が明瞭になるのならその方がいいだろう。それに奈々子にではなく、ぼくらに問題があるのかもしれないし」
「わたしたち?」
「そう」
「何故?わたしたちに落ち度でもあるっていうの」
「いいか、信子。事実として奈々子は言葉を使ってコミュニケーションをとらないんだ。これは普通じゃない。あらゆる可能性を考えるべきだろう」
 信子はこらえていたものが壊れたようにまばたきもせずに泣きだした。潤一は声を落とした。
「たしかにぼくは一日中仕事で家にいない。育児のことも家事も君に任せきりだ。君のことだから一生懸命やってくれてると思う」
 信子はふっと立ちあがるとお茶をいれにキッチンにいった。お茶が入るまで二人は無言だった。
「ぼくもあまりにも楽観的過ぎたのかも知れない。いろいろ周りの人にも聴いてみるし、なんでもやるよ。だから、とにかく問題の根っこをはっきりさせようよ」
 テーブルの上にぽたぽたと信子の涙が落ちて溜まっていた。
「わかった」消え入りそうな声だった。
「わかったわ。だけど検査はちょっと待ってちょうだい。今、『お話しましょ』って毎日ずっとやってるの。私の直感なんだけど奈々子の中で何かが動いているような気がするから」
「奈々子は何か言えるの?」
「あなたが聞いてるとおりよ。ママとパパ」
「時々思うんだけど、それだけじゃ駄目なのかな。三歳で…ぼくはどうやって言葉を覚えたのかまったく記憶が無いんだよ。いったいどうやって『とうさん』『かあさん』って覚えたのか全然記憶にないんだ。それに何歳からかもわからない。だけど誰かが教えてくれているんだよね」
「わたしは母に教えてもらったの。最初にしゃべった言葉」
「なに」
「でんき」
「へぇ」
「たぶん天井を見てたんでしょうね。それから二語でしゃべるようになり、語彙が爆発的に増え出して、好き嫌いを言い出して、人の名前を覚え、それぐらいから『なぜなぜ攻撃』を母にしたんじゃないかと思うの」
「ぼくにはそういうのがないんだ。しゃべらない子だったから」
「どうして?」
「今思うと恐怖だよ。父は仕事で家にいないし、離婚していたからね。家には軍隊の将校だった祖父と祖母しかいなかった。とにかく祖父が怖かったんだ。体も弱かったしね」
「あなた絵本ばかりみてたんでしょ」
「覚えてないけれど、そうらしい。だけどなんで?」
「奈々子ね、絵本が大好きなのよ。ほっといたらいつまででも見てる」
 信子の涙は止まっていた。大きな目の下には隈ができている。信子は懸命に頑張っているんだと思うと潤一はたまらなくなった。手がすっと伸びて、信子の髪を撫でていた。
 潤一と信子はもう一度、現状を整理していった。
 不明瞭ながらも覚えている言葉はふたつ。パパとママ。もっとあるかもしれないけれどしゃべらないからわからない。これは何?という問いかけには意味不明の返事、もしくは無言。自分が「奈々子」であることは認識し理解しているようだ。呼ぶと反応する。イエス·ノーは首を縦に振るか横に振ることで表現する。このやりかたをどこで覚えたのかは不明。あとは意味不明の声のニュアンスを信子が判断している。絵本はとにかく手当たり次第に見ている。土いじりも大好きで信子の作業に加わろうとする。信子に絵本を開いて読み聞かせてもらうのが大好き。
「やっばり、少し遅いだけじゃないのかな」
「わたしもそう思いたい。お義母さんも『大丈夫、この子は人見知りが強いだけよ』って
 二人の間に沈黙が流れると、奈々子の息遣いが聞こえてきそうだった。
「子供同士で遊ぶのはどう」
「だめね。じっと見てるだけ。小沢さんとこの裕樹君だけがいつもかまってくれるんだけど」
 とにかく、と言って潤一は話を切り上げるべく立ちあがった。
「語りかけて、遊んでやるしかないみたいだね。ぼくも喋るよ。それに会社でもいろいろ聞いてみる」

 朝が来た。親たちが光の満ちてくる部屋の空気の中で、その日の準備をすすめていると奈々子がちょこちょこと歩いて寄っていく。
「なな、おはよう」
 潤一がおおげさにお辞儀をすると、奈々子も、ぐふぅといいながらお辞儀を返す。
「ななちゃん、おはよう」
 信子が朝食の準備をしながら、奈々子に声をかける。
 テレビからはニュースやCMが流れ、窓の外からは鳥の声がする。出勤していく車の音、遠くでクラクション、団地を歩く人の声、階段の足音…。親の二人は奈々子の声に耳をそばだてだしてから音に敏感になった。
「今日もいろいろやってみる」
出勤していく、潤一に信子は声をかけた。うなずく潤一にしてみても同じことだった。
「いろいろと聞いてみるよ」
 潤一を見送ってキッチンを振りかえると、テーブルの向こう、窓の外では魚子薔薇がすっかりベランダの空気にも箱の土にもなじんでいた。
 朝食の後、信子は家事を済ませ、ハーブ類の手入れをする。そしてそれからずっと奈々子の傍らにいる。絵本を広げ読み聞かし、おもちゃで遊び、天気が好ければ散歩にも出た。
 遊んでいる時、奈々子の目は輝き、見えるもの、母の言うことなんでものみこんでやろうという意欲がはっきりと感じ
られた。
 …だから…と、信子は思う。  …大丈夫…。
 …この子の言葉が口をつくための最後の壁はなんなのだろう。それがわかったら、それこそ粉々にして踏み砕いて、塵一つ残さず捨て去ってやるのに…。
 
 工場の昼休み、潤一は食堂で缶珈琲を呑みながら、もし奈々子がしゃべれなかったら、と考えて見た。最悪の状況である。
…だからといって奈々子を捨てるのか、殺すのか?生きていくんだろう。かりに奈々子が言葉を失ったままだとしても、親は全てを引きうけなければ。たとえこの先どうなろうと自分が守りきらなければ。…
 潤一は大きく息を一つついた。
「花村、どうかしたのか?」
 同期入社の桜井が声をかけてきた。潤一よりもはやく結婚していて、子供が二人いる。お互い独身時代からの付合いである。
「あんまり暗い顔しているからさ」
「桜井、おまえんとこいくつになった」
「子供?」
「うん」
「上が四歳だよ」
「あのさ、言葉とかどう。問題ない?」
「う…うーん、別にないけれど。なに?子供の事?」
「おまえわかるか、子供が三歳のころどれぐらいしゃべってたか」
「いやぁ、そう言われるとどうかな。かみさんに全部任せてるからな。なんだ、おまえのところ…」
「正直いうと、奈々子が言葉を喋らないんだよ」
「全然?」
「いや、パパとママは時々言う」
「いくつだっけ」
「もうすぐ三歳」
 あー、といって桜井が表情を緩めた。
「だいじょぶだよ。個人差があるからさ。医者じゃないからはっきりとしたことは言えないけどさ、…おまえ駅前の村野歯科って知ってるだろ。あいつ、同級生なんだけど、あいつは幼稚園になってもパパとママしか言わなかったんだぞ」
 桜井は、そんな村野が歯医者になれるんだ、三歳で?そんなのだいじょうぶだと言った。
「その村野ってのはなんで幼稚園までそれでいけたんだ?」
「ああ、あいつんとこは駅前の土地持ってる大資産家だろ。親父はヨットだ、ゴルフだと忙しいし、母親は財産管理に忙しい。ほったらかしにされたんだよ。で、ほったらかしでも、黙っていても御手伝いさんが全部やってくれるからしゃべる必要がなかったんだ。だからさ、息子が幼稚園で馬鹿にされたと知ってからは凄かったぜ。カウンセラーやら家庭教師やら雇ってさ。幼稚園で家庭教師だぜ」
「ほったらかしか…」
「まさか、おまえの所がそうだなんていってないよ。だからさ、六歳までそんなのでも関係ないってことだよ。大丈夫だよ」
 桜井の話は、だけど、溜息をつくぐらいの効果しかなかった。いずれにしても本人が言葉を発しなければどうにもならない。
 潤一はそうやってぽつぽつと社員仲間から少しずつ話を聞いていった。だけど娘のことに問題意識を持つということは、現実を思い知るということでもあった。なにより、子育てに夫がまったく参加していない家庭がいかに多いかということを知ったし、露骨に「障害」を口に出すものもいた。潤一は生まれて始めて「障害」と言うことばを浴びせられ、この言葉が砥がれた刃物のような鋭さを持っている事を知った。ほとんど誰もが検査をすすめた。そう言わなかったのは桜井だけだった。
 電車とバスを乗り継いでの帰り道、潤一は桜井の言っていたことを考えていた。「必要がないからしゃべらない」のと「未発達」だけどそれにしたって素人の判断である。いつまでも同じ状況なら医師の所に相談に行くべきだろう。
 その日、信子は公園で小沢さんと話をしていた。
 花村一家が住む巨大な団地は、大都市の北の方角の丘陵地帯に造成されたものだ。団地を一歩外に出ると、古くからの田園地帯が広がっている。かつての名残は団地の敷地の微妙な起伏と、かつては少し小高い山で今は平らに造成された公園に残る松林ぐらいのものだった。就学前の子供を持つ親たちは、大抵この広い公園へ散歩や遊びに子供を連れ出していた。
 信子はむこうから軽く挨拶をしながら小沢さんが裕樹君といっしょに近づいてくるのを、なかば「心を決めて」待ち構えた。いつも出会う時にひっかかる気持ちの正体を、今日こそ暴いてやろうと思ったのだ。
「おはようございます」
「おはようございます。裕樹君、おはよう」
 そして…
…小沢さんはまた奈々子を覗き込む。そう、この観察しているような眼が…
「奈々ちゃん、大変ですか?」
「え」
 信子が奈々子を見ると、奈々子に裕樹君がが何ごとか呟いている。四人は陽射しを避けるように藤棚まで歩いていった。
「なにか奈々子、おかしいですか」
 しゃべりながら信子は耳朶がかっと熱くなるのを感じていた。
「間違えてたらごめんなさいね。一年前の裕樹と同じ雰囲気がするものだから…」
「裕樹君と?」
「そう、裕樹ね、全然しゃべらなかったの」
 …。
「あ、ごめんなさい。余計なおせっかい…いやなんにも知らないで失礼だわね。ごめんなさい」
 四人は藤棚に腰を下ろした。すぐに裕樹と奈々子が藤棚の横の松林の斜面のほうへ駆けて行く。親たちは二人を見な
がら話始めた。
「実は…そうなんです」
 信子は奈々子の状況を説明した。
「で、育児書だとかを引っ張り出して、どこが、何が悪いのかいろいろと考えて、出来ることはやっているつもりなんですけど…。夫も義母もちょっと遅いだけだって言ってるんです。だけど、さすがに夫も心配になってきたみたいなんですよ」
「うちもそうでしたよ。今はあんなでしょ」
 裕樹が斜面の石垣にかぶさるように伸びているリュウノヒゲを前に、なにか奈々子にしゃべっている。
「ほっとしたのはいいんだけど、今度はうるさくて。ははは、親なんて勝手よね」
「なにかなさったんですか?検査とかカウンセラーとか」
「ななちゃんも大丈夫ですよ」
 小沢さんは信子の問いには答えないで菜々子を見ながらそういった。
「病気だったら、ああいうふうには遊べないと思うの。ほら見て。しゃべってますよ」
 裕樹の熱弁に答えて奈々子の口が動いている。だけど、たぶん言葉ではない。信子はそう思った。
「正直、裕樹が駄目ならって夫と二人で腹を括りました。だけどね、子供の味方って親しかいないでしょ。周りや本人がどう思おうと。だから、そのままを受け入れようって。しゃべれようが、しゃべれまいが」
「そうですね。親が受け入れてやらなければ、子供はますます固く閉じていくのかも」
…なにごとか裕樹君に言っている奈々子。わたしはひょっとしたらもっと深く耳を傾けて聞いてもいないのに「言葉じゃない」と決めてしまっているのかもしれない。わからないじゃないそんなこと。それに例え言葉じゃなくてもそれでもかまわないじゃない。わかってあげよう…
「個人差はあるし、何がきっかけでしゃべりだすかわからないし…。テレビとか大人の会話とか聞いてるでしょ。凄いわよ、覚えてくスピード。でね、うちのしゃべらない原因も冷や汗モノだったし」
「なんですか?」
「わたしの早口と短気」
「ああ…」
「裕樹がしゃべる前にわたしがしゃべっていたのよ。で、裕樹はしゃべることを諦めてたみたい。ある日、夫がのんびり相手してたら、のんびり答えが帰ってきて、で、今に至るってわけなんです」
「あっ!」そういって小沢さんが裕樹君に声をかけて、立ち上がった。
「裕樹!やめなさい!」
 裕樹君が石垣にへばりついてリュウノヒゲをひっぱってむしっていた。奈々子もそれを見上げている。親たちが駆けつけると、ふたりはきょとんとしてそれぞれの親をみあげた。
「裕樹、なにしてんの。だーめこんなことしちゃ。ねえ、花村さん、子供を信じるのとアタマにくるのとはまた別ですよねえ」
 小沢さんが苦笑いをしている。
「見せて」
開かれた裕樹君の手には違う種類のリュウノヒゲの葉が握られていた。ひとつは艶のある濃い緑の葉で、もう一つは白い線が入っている少し薄い緑の葉だった。
「なーに、これ」
「くさ」
「あー、くさね。だめよこんな、引っこ抜いちゃって」
 信子はその様子を見ながら奈々子に向き直った。奈々子は嬉しそうな顔をして同じくニ種類の葉っぱを信子に差し出す。
「まぁ、ありがとう。なんですかねー、これは」
 
 それから信子は小沢さんに言われたアドバイスを思い出しながら絵本を開いて、奈々子と一緒に見ていくようになった。アドバイスとは、できるだけゆっくりと語りかけること。動物や乗り物、食べ物、植物、人の名前…。
 次の日は日曜日。とても冷え込んだ朝だった。起き出してきた奈々子をあやしながら潤一が言った。
「ぼくらが神経質過ぎるのかな」
 昨晩の間に、潤一は桜井の話をし、信子は裕樹君のことを話した。
「うーん、昨日の奈々子見てたら、すぐにでもしゃべりだしそうなんだけど」
 潤一は椅子に据わりマグカップで珈琲を飲んでいた。膝の上には奈々子。信子は朝食の準備である。ベランダには朝日が差しこみ始めて、ハーブ類の緑が輝き出している。その隣の魚子薔薇も光をその葉に受け始めていた。
「魚子薔薇はまだまだだね」
「もう少し暖かくならないとね。だけどこの薔薇、四季咲きだから、ベランダはいつも花ざかりになると思う」
「うん、それはいいよね。夏だけは色が真っ白になるらしいしさ」
「あ、そうなの」
 潤一は奈々子もベランダの外を見ていることに気がついた。
「ななも見てるのかぁ。きれいだねーお外」
 奈々子がふっと強い目で潤一を見た。
「ななこ」
奈々子の口から突然、言葉がでた。
「そうだよね、ななちゃんはななこだものねー」
「ななこ、ななこ」
 奈々子は嬉しそうに連呼を始めた。
二人は思わず顔を見合わせ息をのんだ。
「ななちゃん、おしっこかな」
いつもは首を振るかうめくような声で意思表示をする奈々子がはっきり言った。
「ちがう」
「あ!違うんだ。奈々ちゃん違うんだ!」
 信子と潤一は興奮していた。奈々子が初めて言葉で意思表示をしたのだ。慌てたのは信子だ。口をぽかんと開けたまま、どたどたと奈々子のもとへ走った。
「おみじゅかなー、じゅーちゅかな」
「おみじゅ」
 初めて「お水」と言った!
「うわーっ、おみじゅだおみじゅだー」
 子供用のコップに水を八分目までいれて、信子は奈々子の口元まで持っていった。ぐっぐっと奈々子は力強く水を飲んだ。
「うわんぐわんにゅぐぁー」「???????」
「じゃれているんだよ、信子」
 潤一は狼狽する信子を見た。目尻が赤くなっている。
「ちがーう」また奈々子が言った。
「なーに。なにがちがうのなーに。なーに」
「ああうあう、ななこはねーななこはねー」
「どうしたの」
「ななこわぁーーーななこわぁーーー」
 奈々子はきゃっきゃっといいながらベランダに出た。
「ちがう、ななこ」
 そういって魚子薔薇をゆびさす。
 そして自分の胸に手を当てた。
「ななこ」
                                     (了)




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