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葉子、と。

その70円について



「ああ気持ちいい天気」
  幸子のよく通る声に、路地の静かな空気が微かに揺れているようだった。
「ほんとうに」
 玄関の鍵を締めた葉子が幸子の後ろから応える。二人の少し前には花田俊之介と亨が並んで歩いていた。

 十二月最初の日曜日、今日は花田一家が勢揃いした。俊之介と幸子が嵐山の紅葉を見た帰りに息子夫婦(亨と葉子)の家に立ち寄り、これから四人全員で俊之介の大好きな京都駅前のビアホールへでかけるのだ。
 毎年、紅葉の季節になると家族全員で食事をとることが恒例になっていた。場所はいつもビヤホール。それも河原町三条から四条あたりの行きやすい繁華街ではなく京都駅前と決まっていた。俊之介の決めたことで、何故そこなのかは誰も聞いたことがない。料理の質だとかジョッキの大きさじゃないの、と葉子が亨に聞いたことがあるけれど、亨は笑って首をひねるばかり。
「駅の近くが好き、っていうのもカワイイと思うけど」などと呟くぐらいで。

 亨たちの家の付近から京都駅前へは普通市バスでいくのだけれど、歩くのが大好きな幸子のリードで西大路を円町まで歩き、そこからJRで京都駅に行くことにしていた。これも毎年同じ。

「ねえねえ葉子さんは今年、紅葉見に行ったの」と幸子。
「行ってないんです」
「ああやっぱりねー。きっと亨も父さんに似て仕事、仕事なんでしょ。あかんなあ」
「でもうちの近所には龍安寺や等持院や妙心寺があるんで、用事で出かけたときに紅葉、見えますから」
「いやいやそういうことやないの。紅葉見物しもってお嫁さんをいたわる、って事やんかいさ」
「いやそれはまあ、へへへ、日々いたわってもうてますから」
「あらま」


 どこからか線香の匂いが漂ってきて、葉子たちをすり抜けていく。さらにしばらくいくと焚き火の匂いに包まれた。もう冬やなあ、と葉子はあらためて感じるのだった。

「常寂光寺も祇王子も綺麗やったよ」
 幸子が家で散々しゃべった嵐山の話をもういちどひっぱりだした。
「お義母さんは永観堂や東福寺にはいかはらへんのですか」
「ああそやねえ、東山界隈は行ってへんねえ。昔、何遍も行ったからもうええかなとも思うんやけど」
「わたしもそうなんです。ちいさいころに大抵のところ、行ってるでしょう。だから…あ、あそこは行ってないです。岩倉実相院」
「紅葉鏡のとこやね。わたしも行ったことない」
「夏の緑鏡も綺麗だそうですよ」
「こんど一緒にいこか。な、いこいこ」

 きらきら光る西大路の緩い下り坂を、冷たい風を頬に受けながら四人は南下していく。幸子と葉子は俊之介と亨に追いついた。

「一度死んで四日後に生き返る男がいたんや」
「そうそう。確かそいつは向こうのことをしゃべらへんねんな」
「そしたらもう一人、同じように一度死んでは四日後に生き返るのを繰り返しているのがいて」
「で、『しゃべらへん男』というのは『あちら』では閻魔大王なんや」
「おれはその下で働いているんや、と」

「あんたら何を話してんの」
「は、本の話やけど」
「ほんまに変わった父と子やわ」
「あんたらも楽しそうに なんや話してたな」
「うん。わたしら岩倉実相院にいくねん」
「ああもう散ってるかもしれへんな。早めにいったほうがいいよ。まあそれでもあの板の間は一見の価値ありやけど」
「お義父さんはいったことあるんですか」
「うん、あのぴかぴかに磨き上げられた板の間に感心したなあ。そこに映る紅葉が水に映る紅葉のようで微妙に違うんや」
「わあ見たい」
「静かなときに見たらなおいいと思うよ」

 西大路が大きく凹んでその上をJR嵯峨野線(山陰線)の高架がまたいでいる。歩いている人が増え、四人は円町駅に到着。電車に乗ればすぐに京都だ。

「おれ70円しかないねん」と、若い男の声。
「えっ、うっそお ほんまにそんなんしかないのん」若い女の声。
 京都に向かう列車の中である。声は座席の葉子と幸子の頭上でかわされているもの。女の子の驚く声に、葉子はそれとなく視線をあげながら、どういうことなのかと聞き耳を立てた。ちらりと横を見ると、幸子も興味津々といった目で葉子を見ている。

「ちょっとみせてみ。ほんまなん」
「ほら」
「…ほんまに70円しかあれへん。そやけど財布だけは立派やねんな」
「へへへ」
 葉子は上目遣いに財布をちらり …ぶっ。エルメスや…。
「そおいえば、あんたは昔からなんでもブランドにこだわってたな」
「うん」
「うんやあれへん。ほんまにないの…いやほんまに70円やわ」
 男女とも20代のようです。男はジーンズにまっ白なセーター(ブランドものなのだろうか)女は黒いマイクロミニスカートに黒のレギンス、真っ赤なセーター。葉子は頭の中で声と目に見える範囲内の服装から、二人の関係を想像し始めた。それは幸子も同様かもしれないし、車内で「ほんまに70円」という朗らかな、よく通る声を聴いた乗客たちは皆そうだったかもしれない。

 車内の少し離れたところには花田俊之介と亨が並んで座っていた。二人を見ていると、以前よりずいぶん似てきたな、と葉子は思います。二人は熱心に何か話し込んでいた。さっきと同じ中国の昔話なのかな、と葉子。俊之介の趣味なのだけれど、なぜか小さい頃から亨はその父親の持っている説話集を読み耽っていたそうなのだ。家にもあるけれど葉子は読んだことがなかった。


 列車はあっという間に京都に着き、人々がぞろぞろと改札へ吸い込まれるように歩いていく。コンサートを開くのが十分可能な「大階段」を横目に、幸子と葉子は、前方の人の波の中に見え隠れしている白いセーターと赤いセーターを追いながら、その「70円の彼」のことを話していました。

「定期持ってるんでしょうね。それとも電車賃払ったら70円しか残らへんかったんかな」
「まさかキセル…」
「ひゃあ」「きゃあ」
「70円をエルメスの財布に入れて、二人はどこに行くんでしょ」
「あれは恋人どうしやね」
「そうですかあ?」
「だってあんなことわざわざ言う?」
「『あんた昔から』といっていたから幼なじみかも」
「なんか雰囲気的に女の人が年上のような気がしたけど」
「うーん」

「何を話してんの」
 亨が二人の背後から声をかけた。葉子が、列車の中にいた「70円の彼」の説明をする。それを聞きながら四人は改札を抜けていった。

「そやけど、また70円とはな」と俊之介。
「70円しかなくても紅葉は観られるよ」と亨。
「市バスにも乗れへんぞ」
「市立図書館には行けるよ」
「おお」
「『聊斎志異』が読める」父と子が顔を見合わせる。

「そんなことよりさ」と幸子がにこっと笑いました。
「70円しかなくてもビヤホールには行けるみたいやで」
 三人が前を見ると赤いセーターと白いセーターの背中がビヤホールに入っていくところだった。
「ははあ」と俊之介。
「なるほどね」と亨。
「と、いうわけや」と幸子。
 葉子はくすくす笑うばかり。
 みんなの想像はもちろん、ばらばらなのだけれど、何故だかみんな納得したような顔をしていたから。

                           (了)


●参考・中国古代説話集「聊斎志異」

ぐんじょう組


11月27日午後五時半過ぎ。
 早い夕暮れに空は群青に染まりつつあった。波多野と尚美は北風の冷たい船岡山の山頂で肩を寄せ合い、熱い紅茶を啜りながら上空を見上げていた。波多野はポケットからメモを取り出し、パソコンから写しとったデータを確認している。
「雲が来なきゃいいけど」と尚美。

2009年11月27日
17:49:30  311(北西) 12
17:52:00  285(西北西)79
17:54:30   135(南東) 14


 船岡山は京都市内の北西にある小さな山。この山の頂上に平安京造成時に中心線の始点となった岩が今でも残っている。しかし二人の目的はそこから市内を眺めるのではなく空にあった。天気は良好だ。
「そろそろくるよ」
「わあ、どきどきする」
「あ。あれかな?動いてる」
「ん、どれどれ」

 方位角311度、仰角12度で京都盆地の北西上空に国際宇宙ステーションが姿を現し、天空にめがけて上っているように見えるはずだった。二人がゆっくりと仰角をあげながら空を探す。
「あ、あれだ!!流れていく」
 データどおり北西から南東に向けて小さな赤い輝きがゆっくりと動いていく。
「あああ高いなあ。それにとても明るい」
 尚美が溜息と一緒に呟いた。
「飛行機どころじゃないんだ。当たり前だけど」
「あの高度だと太陽の光があたっているんだろうね。地上はもうこんなに昏いのに」
 球体の天蓋を人を乗せた船が滑っていく。
「あんなところに人がいるのね。それがテレビじゃなくて肉眼で見えるのが凄い」
「あそこはもう宇宙だよね」
「うん。まさに宙船(そらぶね)」


「あんな高みで『船』の中に長時間いるとどんな気持ちになるんだろう。想像を絶する孤独感かな。それとも…」
「それとも?」尚美が空を見上げたまま反芻した。
「ひょっとしたら地球や宇宙の美しさに陶然となっているのかも」
「無重力というのもあるわよ」
「重しがとれる解放感もあるだろうけれど、どこにも帰属しない感覚はどうなんだろ」
「人間の肉体は重力がある世界で造り上げられ、生きてきたんだものね」
「地上で生きている人類も、このままいったら別の意味で地上に帰属できなくなりそうだよね」
「…」

 見える航跡は長くはなく、僅かな時間で船は姿を消した。空は冬の暗闇に溶けていく。
 声もなく佇む二人の前から、からからからからと音が駆けてきた。二人が目を凝らして前を向くと、 栗の木からいっぺんに落ちた葉が風を受けて走り出したところだった。

                      ☆                  


 12月10日午前五時過ぎ。
 葉子は真っ赤なダウンベストを着て弁当と朝食の準備中。亨がテーブルで珈琲を淹れていた。テーブルに置いたラジオからは午前五時の放送が始まったところだった。
 
「あれ、今日は言わないね」
「何?」
「ほら最近、毎朝、見えた!見えた!って盛り上がってたやん」
「ああ国際宇宙ステーションね。きっと航路を変えたんやわ」
「同じところを回ってるんじゃないんだ」
「そう定期的に航路を変えるって昨日説明してたよ」
「ふーん」
「だから今朝は見えないのかも。だいたい日没前か日の出前によく見えるんだって」
「こんな早朝から視聴者のメールをオン・タイムで紹介する番組なんて、早起きしている人たちだけの熱狂みたいでおもしろいなと思ってたんやけど」
「テレビもラジオもそろそろ双子座流星群の話題でしょ。だけどこの番組だけは宇宙ステーション」
「ふふ、なんだかおもしろいね」
「でもこれからは流星群の話になるんじゃないかな。『昨晩、見ました!』って」
 葉子は熱い珈琲をステンレスのボトルに詰めた。ボトルとステンレスのマグカップを小ぶりのナップザックに入れて、テーブルでパソコンを見つめる亨をみつめた。


…また宇宙ステーションのメールが届きました。関西の方ですねー。ISSが見えたそうです…
 
 亨と葉子は一瞬ラジオを見つめ、顔を見合わせるとベランダに飛び出しました。ベランダは南西方向が見えるのだ。
「うーん、だめだなあ。方向が違うのかな。雲も多いし。それとももういっちゃったのかな」
「あ。メール、過去形たやったね」
「あ」
 二人は寒い寒いといいながら部屋に戻る。

「全天見えるような場所で待ちかまえないとね」
「航路が変わるということは方角も一定じゃないんだよね」
「うん」
「どこかなあ…」
「船岡山とか」
「どっちにしてもネットで調べてみるよ」
 その時から亨は国際宇宙ステーションについてインターネットで検索を始めたのだった。

                   ☆

 波多野がISS(国際宇宙ステーション) を自分の部屋から見つけたのは、ほんの偶然からだった。彼が毎日、午前五時に起き、熱いミルクティーを啜りながら南側の窓の外に広がる風景を眺める習慣がなかったら。そしてアパート南側で堀河天皇火葬塚の巨大な赤松が枯れ、大きな空が見えるようになっていなかったら、マサルはISSの航跡に気がつくことはなかっただろう。UFOでも飛行機でも流れ星でもないその正体をマサルもラジオで知ったのだった。

 尚美は相変わらず朝のジョギングを欠かしていない。そして走り終えると波多野の部屋に立ち寄ってシャワーを浴び、いっしょに朝食を摂っていた。そして波多野がさっき見たという航跡の話を聞いたのだった。 
 尚美の興味はそんなところに人間が「いる」ということ。目をくるくるさせて、おもしろそう、という。

「定期的に航路が変わるから。今度は11月の後半に見えるはずなんだ。問題は天気と場所。今度は北西で日没の頃」
「その都度変わるのね。ネットでわかるの?」
「うん」
 そうして二人は11月27日、船岡山に立っていたのだった。

                              ☆                  


 12月15日午前六時半。波多野の部屋。
 波多野と尚美は一緒に朝食を食べていた。小さなガラスのテーブルにはベーグルとリンゴとバナナ、簡単なサラダ、そして熱いミルクティー。
 二人ともテレビは観ない。波多野の部屋の朝はラジオが流しっぱなしになっているか、バッハのCDがかかっているかだった。午前五時からの 番組はもう終わっていた。リスナーからのメールは、波多野の予想通り「ふたご座流星群を観た」というものが目立った。

「やっぱり流星群のメール、あったね」
「うんあったあった。流星群を見た人たちは徹夜組なのかな?」
「うーん寝不足組っていったほうがいいかも」
「全国の『早起きさん』が見ていた宇宙ステーションはどこにいったんだろう」
「北海道の北を飛んでるよ。あ、早朝だけじゃなくて日没も、だろ」
「あ、そうだった。じゃあ私たちは『群青組』。群青色の空ばかり見上げているから」
「ぐんじょうぐみ?幼稚園みたい」
 笑顔が二つ向き合った。

 
    from masaru  to naomi
 今度、衛星が見られそうなのは25日。方角は北北西。時間は午後六時過ぎ。どうする?

    RE:
 ベランダからは無理ですね。北の空が開いて見えるのは船岡山?またしても。

    RE:RE:
 寒いよ。行く?

    RE:RE:RE:
 「ぐんじょうぐみ」だもん。いきます。イヴからずっとマサルさんのとこにいます!!!
   
    RE:RE:RE:RE:
 了解。


                    ☆

 12月16日午後八時過ぎ
 葉子と亨は夕食を食べ終えて、珈琲を飲んでいるところ。部屋には亨が買ってきたノラ・ジョーンズのアルバムが流れている。亨はジャケットに写っているセントバーナードの頭の大きさに感心していた。
「大きいなあ。かわいいなあ。大型犬好きなねん」
「セントバーナードなら北野の天神さんの近くで散歩してるのよく見かけるわよ」
 葉子は夕刊のクロスワードパズルを解きながら応える。
「へえ。今度いってみよう」

「あ、今晩、新月」
 パズルを解き終えた葉子は柿をむくために立ち上がり、たまたま目をとめたカレンダーを指さした。
「真っ暗だから、ふたご座流星群、まだ見えるかもよ。見る?」
「いや、いいや。ぼくは寝不足で仕事をしたくないし」
「そうやったよねー。わたしも寝ちゃうかもしれないしなあ」
「そうそう例の宇宙ステーション、調べたよ」
「今、どこ飛んでるの」
「北海道の北。で、今度見える『予定』は25日の夕方。六時過ぎ」
「もう真っ暗やね」
「方向は北北西から回ってくる」
「短い時間でしょ」
「ほんの数分。それに天気がどうかな」
「じっと待ってるんじゃなくて、その時間にいけばいいんだから、いこいこ」
「どこ?船岡山?」
「そう」


 クリスマスまであと9日。晴れますように、と願う四人の「ぐんじょう組」だった。
 
                             (了)

妙心寺の狸さん


 一月四日、月曜日。
 二〇一〇年の正月は三日が日曜日だったので、多くの店や職場と同様に亨の仕事始めも月曜日からとなった。よく晴れた朝である。
「おめでとうさん」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 と、いっても新年早々の急ぎの仕事はなく、その日は店の奥で社長と奥さん、亨の三人は明日からの段取りを調整したり商品の点検をしたり。

 午前十時過ぎに奥さんが珈琲を淹れて休憩に。電気ストーブを三人が囲んだ。
「花村君、初詣はいったん?」
「宗像神社にいきました」
「へえ御所までいくん。遠いのにー」
「なにゆうてんのあんた。うちらの伏見稲荷のほうがよっぽど遠いわ」  
「はは、そらそうやな」
 京都で「お商売」をしてる人の多くは商売繁盛のお願いに伏見稲荷へ詣でる。


 仕事から帰った亨は、そんな話を葉子にしながら台所に立っていた。
 冷蔵庫ではおせちが不揃いに残っていた。数の子やお煮染めはなくなったのだけれど黒豆とか蒲鉾などは残っていて、それを組み合わせつつ、ご飯を炊き、塩鮭を添えた葉子の献立に亨が一品付け加えようとしていた。亨が帰宅しての第一声は「葱のたくさん入った卵焼きがなんだか無性に食べたい」だったもので。

 葉子はおかずをずらりと並べたテーブルに肘を載せ、その上で組んだ手に頭を載せて亨の広い背中を見ています。部屋には去年の暮れから部屋によく流れるノラ・ジョーンズの歌が低いボリュームで。

「それでさ、ほら、除夜の鐘のこと聞いてみたんよ」
 大晦日に花村家では除夜の鐘が、四方八方で打たれているように聞こえてきたからです。葉子と亨は「北の等持院の鐘なのか、南の妙心寺の鐘なのかわからへんね」と、ベッドの中で半分眠りに落ちながら去年最後の会話を交わしたのでした。
「社長は『そら妙心寺やろ』て言わはんねん」

 亨の家に限らず、寺の多い京都では除夜の鐘が重なって聞こえてくる場所が結構あるのだ。ただし亨と葉子がそんなふうに聞いたのは初めてのことだった。
「わたしの『説』といっしょやわ」
「いや、そやけどなあー距離で言ったら等持院やとおもうんやけど。それになんだか音が回ってたような気もするし」
「鐘のが大きさとか、鐘楼の高さとか」
「うんまあそんな理由なら納得いくねんけどな」

「花村君、そら妙心寺やで」
 社長は自信たっぷりにいうのだった。亨は、等持院のほうが自分の家から近いと主張するのだけれど、「いやあ妙心寺やろ」とだめ押し。
「なんといってもあそこには狸がおるしな」
「は」
 奥さんは、また始まったとばかり、ににやにやしています。
「花村君は狸を知ってるな」
「あの、ぽんぽこぽんですか」
「そう。そのぽんぽこぽん」
 そういって社長は手を組んで前屈みになりました。
「親父が昔、仕事の帰りに毎晩、妙心寺の境内を走り抜けてた時の話や」

 妙心寺は京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の総本山。多くの塔頭と伽藍を有する境内は広大で、北は一条通り、南は木辻通りに面している。その門についている木戸は常に開けられていて、昔から南北を貫く長さ五百メートルほどの石畳を市民が自由に通行している。

「すると必ず同じところで自転車のランプが消える、言うねん」
「は?」

「親父もわしと同じで幽霊やらUFOやらわけのわんらへんものは、まったく存在を認めへんという人間やったんやけどな。あんまりにも毎日同じ所で消えるんで考えた。である日『やっとわかった。超常現象やなかったで』と、わしにゆうたんや」
「どうやったんですか」
「『狸が消すんや』て。あれ?なんで笑うん。まあええわ。わしも最初は気のせいやろ、とゆうてたんや。消すとこみたんか、て。ところがある日、わしが太子道のほうで仕事があった帰りの晩に妙心寺を通ると、親父のゆうてたあたりでライトがぽんって消えるねん。で、通り過ぎるとすぐにまた点くんよ。あ、これか、思て何度か行ったり来たりしてみたら。やっぱり同じところで消えるんや。石畳の段差のせいではないしなあ。不思議やったでえ。親父に言うたら『ほらみてみい、狸ぢゃ』て。そやからな花村君、そんな狸やから鐘の音ぐらいなんぼでも飛ばせるやろ」
「いやいやいやいや。ちょっと待ってください。だから、わけのわからへんものや超常現象を信じないという社長や社長の親父さんが、なんでそこで『たぬき』なんですか?」
 と、亨が言うと
「あれ?狸のこと知らんの?」
 と、社長はあきれたように言うのです。そんなことも知らないのか、という表情で。
「はあ」
「あんた一度『妙心寺の狸』って新聞に投稿したらどうなん」
 奥さんが笑いながら言います。
「奥さんは社長みたいな事に遭うたことありますのん」
「うん何遍もあるよ」
「で、やっぱり…」
「そんなん狸に決まってるやん。ははははは」
「いやだから何故それが…」

           ●

「つまり、狸が理由になってんの」と、葉子。
「わけわからへん。それ以上何も教えてくれへんし」
 亨は葱たっぷりの卵焼きを皿に盛りつけながら言う。
「そのほうがおもろいやん」
「まあそらそうやけど」
「ふふ、案外社長夫婦が狸やったりしてね」
「もうええわ」
 


「そうそう澤田さんがね」葉子が話題を変えた。
 葉子は、町内の『鈴木さんの椿』を管理している澤田さんの姿を年末からまったく見ていなかった。十二月三十日、大晦日と遠くに嫁いでいる娘さんが帰ってきていて、何人かの人と一緒に大掃除をしている様子は知っていたのだけれど、澤田さんの姿はなかったのだった。
「入院しはったんやて。今日、大宅さんが『そやから回覧板は一軒飛ばして回して』て、言いに来はったん」
「具合悪いんやな」
「娘さんは検査入院としか言わはらへんそうやけど、背中が痛くて胃腸も調子が悪くて食欲がなくて…」
「インフルエンザかも」
「どうもなかったらええねんけどね」
「なんだか路地がどんどん寂しくなるような」
「そやねえ」
 二人は夕食を食べ始めた。

「今ふと思たんやけど」
 葉子が亨に言った。
「仮に社長さんたちが当然のように認めてる妙心寺の狸がほんまにいたとして、やっぱりいたずらしかせえへんのかな。例えば人の病気を治すとかできたらええのにね」
「はは。そやなあ、狐はお稲荷さんで商売繁盛の神さまになってるんやし。ちょっとゆうてみようか」
 亨は天井の蛍光灯に向かって、ひやかすように語りかけました。
「妙心寺の狸さん狸さん、聞こえていたらお願いします。澤田さんの病気を治してくださいな」
 亨が「なあーんてね」と言おうとした時、蛍光灯がふっと消えた。

 翌朝、亨を送り出した葉子は門掃きをしていた。寺の山門から内側へ。静まりかえった澤田さんの家がどうしても気になる。カーテンを閉め忘れた二階の窓は暗い部屋の影を映すばかりだ。葉子は溜息をついて、椿と木瓜の前を掃いていった。寒風の中で枝が揺れている。葉子は立ち止まって思わず見入りてしまった。この寒さの中で二つの木が共に枝いっぱいに花蕾を膨らませているのです。木瓜の蕾は桃色に染まっています。 葉子は心の中でお願いしました。
…花が咲くまでに澤田さんが戻って来れますように…
 もちろん「妙心寺の狸さん」にお願いしたのだった。
 
                             (了)

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