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街函


朝の匂いのする手紙

 

 その日は土曜日。私の仕事は休みで、父が旅行に出てから三日が過ぎていた。
 母と私と犬のジョリーと、二人と一頭の生活は本当の久しぶりのことだった。父が旅行に出かけた初日なんて、ぽかんと開いた父のスペースが妙に気になって、家中に違和感がしたのだけれど、それにも少し慣れた頃だった。
「とうさんどうしているかしらね」
 少し遅い朝食の準備をしながら、母が独り言のように呟いた。
「ん、心配なの?大丈夫よ、子供じゃないんだから」
「そりゃそうだけれど、もう歳が歳だからね。無理しなきゃいいんだけど」
 
 父が一人で旅行に行きたいと言いだしたのは、定年退職をしてすぐのことだった。わたしの知っているかぎりでは、父はいつも仕事に追われていて、プライベートな旅行とはまったく無縁だった。もちろん母もわたしも反対する理由なんてなにもなかった。
 温泉に行く、というからてっきり湯治かと思っていたら、行き先は長野県の松本だった。なんと以前勤務していた場所、つまり私たち家族が大阪に来る前に住んでいた場所へいくのだという。そこは確かに浅間温泉という温泉もあって、一家はそのはずれの南浅間というところに住んでいた。そして、そこは私が生まれた場所でもある。ただ3歳までしかいなかったから、あまり憶えていないけれど。父は湯治がてらに昔の場所をみたくなったのだという。
 父は新聞局に勤務していて、当時の仕事は山岳などの自然や環境の記事の取材制作だった。母によれば、松本にいたときはほとんど外に出ずっぱりだったのだという。
「そりゃあ、一週間でも十日でも山に入りっぱなしということもあったんだから」
 転勤し、そして年齢の関係もあって、大阪にきてからは事務職になり、そのまま定年を迎えたのだ。だから私の記憶の中には、父が北アルプスを跋扈していたという姿はない。
「おとうさんは、松本の頃が恋しいんだね」と母。
 そういえば、定年が近づいてきて、これまでの資料などを整理しながら父が棚に丁寧に並べていたのは山の関係のものばかりだった。それ以外のものは惜しげもなくさっさと捨ててしまっていた。
…山が好きなんだ…
 父が私たち家族に、これはぼくの宝だといったテレピ番組がある。それは北アルプスの自然をスケッチした15分ぐらいの番組で、今でいう環境映像のはしりのような番組だった。父はガイドとして出演していた。それがテレビで再放送された日に家で撮ったビデオが、父の40年間勤め上げた仕事の最大の宝物だった。
 現地の植物のポイント、川の瀬の美しいポイント、山翳のうつろうポイント、虫や鳥のポイント、みんなで山に入って決めてさ、とすっかり生まれた東京の言葉に戻って喋る父の顔は輝いていた。
「山歩きをしているかもね」
「うーん、でも背広に鞄一つでいっちゃったけれど」
「温泉街をぶらぶらしてるかな」
 昼過ぎ、散歩をねだるジョリーと散歩に出た。ゴールデンレトリバーのジョリーは歩くのが大好きだ。緩やかな坂の上り下りになっているニュータウンの外周道路を舐めるように吹く風と歩いた。
 5月、街中の緑が優しく揺れている。空はとても高くて、雲雀が太陽めがけて弾けるように飛んでいた。
 これからは父が家にずっといる。ジョリーの散歩は父が独占するかもしれない。歩くのが好きだから。
 それも山を歩いていたからかな。
「ね、ジョリー」
 ゴールデンレトリバーはとにかくよく笑顔をふりまく。「犬は笑わない」という人はゴールデンを知らない人だ。そのときもジョリーは素晴らしい笑顔を返してくれた。
 家へもどり、ジョリーの足を洗い、飲み水を替えてあげる。そのまま家に入ると、母が紅茶をいれる用意をしていた。
「へへ、とうさんから手紙がきたわよ」
「ふふ」
「ふふふ」
「あれっ封書なんだ。それも速達」
「読んでみて」
 封は切られていて、一枚の便箋がテーブルの上においてある。
 

 おかあさん、由紀子へ
 とうさんは今、浅間温泉の旅館ででこの手紙を書いています。
今日20年ぶりに、一家が昔住んでいた県営住宅のあたりを散歩してきました。なんにも変わっていなかった。住んでいる人たちはもうすっかり変わっていたけれどね。
 小さかった由紀子を抱いて歩いた堤防は、舗装はされていたけれどあとは一緒。女鳥羽川の流れもまったく変わっていなかった。
 なんだかタイムスリップしたような気分。なかなかいいもんです。
同封したのは、女鳥羽川の堤防の並木になっていたニセアカシアの花です。
一応、半紙で挟んでいるけれど、押し花にしたいから、新聞に挟んだ上に広辞苑を置いといてほしい。
 ニセアカシアの並木はとても立派になっていました。明日はよく仕事で行っていた梓川に行ってきます。あさってには帰る予定です。
                                    とうさんより


「あなた女鳥羽川、憶えてる」
 母がダージリンをテーブルに置きながらいった。
「うーん、はっきりは憶えてないなー」
「梅雨の前ぐらいにね白い花がさーっと咲くの。あの丸い葉っぱの緑もきれいだった」
「それが堤防の並木?」
「そうよ。堤防に沿ってずっと並木と県営住宅があって、うちは堤防のすぐ下にあったの」
「やっぱり憶えてないな…」
 便箋を置き、封筒からニセアカシアの花と葉を出そうとしたときだった。封から薄いジャスミンのような香りがふわっと流れた。
 とても懐かしい匂いだった。
「あ…」
「どうしたの」
 母がけげんそうにこちらを見る。
 
  この匂いだ。憶えている。この匂いのあった風景。
  わたしを抱いた父の腕がみえた。
 覗き込んでくる父の顔がみえた。高く抱き上げられて…。
 父がなにかわたしに言ったんだ。
 ゆっくりと視線が堤防の上を越えていき…、
 そう、まだ峰に雪の残る北アルプスの山の連なりが目の前に広がっていたんだ。
 朝の空気は冷たくて、人の息で曇ってすらいなくて、目も頬もちくちくするような空気だった。
 そう、そして川からの緩い風に乗ってこの微かな花の香りが漂ってきたんだ。
「かあさん、思い出した。ニセアカシアの花」
 そう、そしてわたしと父の背後に母の笑顔の気配があったんだ。
 わたしは「生まれて初めて」家族が共有したかつての時間のひとかけを思い出した。そしてそれがずっとわたしの中にいつづけたことを知った。ひょっとしたらそれがわたしをずっと支えてくれていたのかもしれないとさえ感じた。
 朝の匂いのする手紙が、わたしの幸せの記憶を目覚めさせてくれたのだ。
 

 封筒から白い花の房と緑の丸い葉が一緒に出てきた。半紙は少し湿っていて匂いがそっと部屋にすべりでた。
「藤みたい」
「ジャスミンにも似てるわね」
「いつか育ててみたいね」
 二人の口から同じ言葉がこぼれた。
                                                       (了)


屋上


屋上は空を盛る皿
仏法僧を見るための黒い椅子に
柔らかなズボンをはいた老母がすわり
声もなく微笑んでいた
陽が私たちを彫り続けている
もう昔へ戻ることはできない
朱の嘴が田園をひとまわり
墨染に瑠璃をのせた翼
母の白髪 私のシャツ
風吹く屋上で


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