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葉子、と。

Cherry Sage,Purple Sage

 秋がゆっくりと深まっていく。気の早い桜葉には紅葉を前に散り始めるものもあり、街で、たぶん一番先に黄葉する桂の葉にはその兆しが浮かび始めていた。
 葉子が毎日手入れしをているベランダのキッチンガーデンには、小さな鉢植えのハーブたちが、右からパセリ、セージ、ローズマリー、タイムの順で並んでいる。葉子の母が小さい頃からよくハミングしていた歌の歌詞どおりに並べているのだけれど、(母は今でもこの歌をよくハミングする)この並びを見てその歌に気のつく人はまだいない。亨にも教えていない。

 そして葉子は、朝露に濡れ「きゅっ」としまった姿をしているハーブたちの様子をチェックしながら月下美人の冬越しの方法を考えたり、ハーブの隙間にサルビアの真っ赤な花を置いてみようかと考えている。目の前ではセージに紫の花が咲いていた。
 午前の光は柔らかく、風が少し出てきた。気持ちいいなと感じた途端、葉子は思い出し笑い。昨日、それは亨が仕事に行った先の老人ホームでの話だった。

                 

 その日、亨は老人ホームに大型テレビを配送し、アンテナの規格を調べ、テレビの設置をしていた。設置場所は1階の、リビングのようなオープンスペースの壁際である。新たなアンテナを立てる必要はなく、テレビを設置し、配線を済ませていった。
 そんな作業の間中、亨はそのオープンスペースのベンチに座った老人達をなにげなく見つめていた。皆、静かだった。介護士さんの指示する声が時折、響いているくらい。中には額をつきあわせて語りあっているようなお婆さんたちもいるけれど、声は聞こえてこない。

 作業が終了し、事務所に確認してもらおうと広い廊下に出た時、トイレから白い長靴、白いビニールのエプロンをつけた職員の方が出てきた。広い肩幅と短い髪は、一瞬男性のように見える。だけど近づくにつれて顔の輪郭や胸の膨らみが若い女性であることが判った。まだ十代を思わせる若さの。

 亨が声をかけようとした時、空色のナップザックに何やらものをぎっしりと詰めた老婆が、脇を素速くすり抜けていった。若い女性職員の前に立つと、やおらしっかりした声でこう言ったのだ。
「マグロくださいっ」
「??????」
 職員と亨の、老婆の発言の意味をすばやく探ろうとする思惑と視線が廊下で交差した。

 と、白いビニールのエプロンと白い長靴。短く刈り込んだ髪…。
(魚屋さん?)亨の直感である。
「なにゆうてんのおばあちゃん」
 若い女性職員は笑いながら近寄ってゆきます。
「これで!」
 老婆はナップザックを降ろすと、中からベルのついた丸い目覚まし時計を取り出し、ぐっと突き出しました。
「これでマグロください」 
 職員はまるで我に返ったように、自分の白い長靴とエプロンを見つめ、そしてにっこり笑うと、相手をしっかりと見つめた。
(どうやらほんとに魚屋と間違えてる。)

「おばあちゃん、あかんねん。今日はマグロないねんか」
 二人にゆっくり近づいていった亨の耳に、彼女の声が聞こえてきた。
…そう来たか…と、亨は思う。

 亨がナップザックを覗き込むと、中は様々な時計でいっぱいになっています。老婆は亨に気がつくと振り返り、困った、という顔をし、また職員に向きあいました。

「マグロあれへんの?」
「ごめん。おばあちゃん、今日はイカしかないねん」
…おいおいそんなこと言っていいのか…
「マグロやないとあかんのですう!!」
「ほんまごめんイカしかないねんー」
 老婆は瞬間黙ると、あーそうでっかあ、と大声で言いながら時計をナップザックにしまい込むと、ひょいっと背負いまるで何事もなかったかのように歩いていった。


「あ、どうも。こんにちわあ。ようあることなんです。あのお婆さん、いつも時計を持って歩いていて…。トイレ掃除した恰好のままやったんで、間違えられたみたいですね。へへ」
「ほんまに魚屋さんやね」
 亨が、彼女の盛り上がった肩の筋肉に感心しながらいうと、彼女は照れたように笑った。ふっくらした白い丸顔の頬が桃色に光っている。
「私、高校まで柔道部やったんです。そのせいか男に間違えられたことも何度かあって…」「ここでも?」
「はい。ここで介護の仕事させていただいてから何度もです。こないだなんか、おばあちゃんの下着の交換してたら、『あんさん、えらいもん見てくれたなあ。奥さんに言いつけるええ!!』って言われましてん」
「ははは。だけどしっかり女の子やん。はよ彼氏つくってみせたらな」
「ありとうございますう。そやけど私、彼氏いますねん」
「あ、ごめんごめん」
「わははははは」
                   
 その日、亨は手にチェリー・セージの花束を持って帰った。介護施設から帰ろうとしたら「マグロのお婆さん」が素速く近寄ってきて手渡していったのだ。

 亨が慌てて事務所までその花束を持って行くと、あんまり繁りすぎたんで剪定して処分した花とのこと。いややわあ。あのお婆さんいつもと違う人を見ると必ず何かをあげるんですよ。ご迷惑でしょう、と言う。いや、もらえるものなら頂いて帰ります、と亨。 
「ほら、ここまでしてもらってるし」
 そういって亨は花束の切り口を職員に見せた。きちんと揃え、輪ゴムで束ね、湿らしたキッチンペーパーでくるみ、さらにアルミホイルで巻いてある。
「あらあ、ほんと!」
                   

 葉子は鉢植えの紫のセージを三本切ると、テーブルセンターのまん中に硝子瓶に生けたチェリー・セージに混ぜてさした。ひょろひょろの茎の先で小さな紅い花がふわふわと揺れている。
「ねえねえ。その女の子、お婆さんが、イカでもいいです、っていわはったらどうするつもりやったんやろ」
「うん、ぼくも同じこと聞いた」
「なんていうん」
「『ごめんまちごうた蛸やった』て言うんやて」

「ふふふふふ」
                                                                                               (了)


●参考楽曲
Scaborough Fair…Simon and Garfunkel

夜は散歩者


  花村俊之介は目が覚めても夜風の感触を頬に感じていた。
 外がほの明るくなったきた午前六時。久しぶりに見た夢の中で吹いていた夜風の。微かに心地よい疲労感さえ感じていた。
 時々あることなのだ。以前、仕事場を大掃除する夢を見たときも、目覚めると達成感に包まれた疲労感があったな、と俊之介はその時のことも思いだすのだった。
 顔を洗い、歯を磨き、台所にいる妻の幸子の背中ににおはよう、と声をかけた俊之介は、プレスの効いたまっ白なクルーネックシャツと紺のズボンを身につけ、いつものように台所のテーブルにすわって珈琲豆を挽きはじめた。挽き方も淹れ方もあなたのほうが上手なんやから、と幸子が言うので、朝の珈琲は結婚してからずっと(もう40年になる)俊之介が豆を挽き、ペーパーで淹れていた。
 モカが飲みたい気分だったのだけれど幸子の好きなマンダリンを選んで、手動のハンドルを回していく。
 ごりごりぐりぐり…


 するとまるで回転にあわせるように、夢の記憶のかけらが糸で縫い合わせたように思い出されるのだった。

 気がつくと(夢の中で)俊之介は愛車のホンダを運転していた。走っている風景から24号線だとすぐに判った。京都と奈良を結ぶ唯一の国道である。ちょうど伏見の御香宮から宇治川を渡り向島へ向かうあたり。文化財の修理で何度も通った道なので、車窓を流れる風景は見慣れたものだ。
 奈良へ向かっていた。
(あ、そうか奈良町へ行くんだ。)俊之介は夢の中で思い出した。

 奈良市奈良町。奈良の中でも昔の情緒と風物が残る街。俊之介の好きな街である。 
奈良町へ…(あ、布巾を買いに行くんや)。家で久しぶりに亨と葉子の二人と一緒に食事をした時、幸子の手伝いをしていた葉子が「この布巾とてもいいです!」といったのがきっかけだった。布巾は幸子も気に入っているのだけれど、もともとは俊之介が奈良町で買った蚊帳生地仕立ての布巾である。蚊帳の生地が八枚重ねになっていて、しっかりとしたつくりの大判のもの。仕事帰りに偶然見つけて、家でも仕事場でもいいかもしれない、と買ったのだった。

「ガーゼの感触がいいでしょ」
「そうです。そうです」
「水もしっかり吸うしね」
「はい。それに大きいのがいいです」
「そうそう」
 幸子と葉子の会話も思い出されます。

(それにしても布巾ために車を走らせるとは。確かネットでも変えたはずやのに)と、俊之介が苦笑いすると「わりと空いてるんですね」と助手席から声がした。突然声がしたのに俊之介は驚きもしないで「今ぐらいは大丈夫なんや。朝は酷いんだよ。車が動かへんもの」と平然と答える。夢を思いだしている俊之介はそのことに驚く。
(あれ?あ、そうだ尚美くんを連れて中宮寺へいく途中なんや。)
 助手席には真っ青なシャツにまっ白な短いスカートの鈴木尚美が乗っています。まっすぐな足がきちんと揃えて前に伸びているのですが、裸足です。
「あれ靴はどうしたの。あ、脱いでるんやね」
「ええ、なんだか暑くて、服を全部脱いでしまいました」
「あ…あん!」
 俊之介がびっくりして横目で助手席を見ると、誰もいません。
「ああいけないいけない。ふきんやふきんやふきんや」


 突然場面が変わり、俊之介は奈良町の石畳を早足で歩いていた。あたりはすっかり暗くなっていて、観光客も帰り始めていた。俊之介は布巾を売っている店へ急いだ。橙色の灯りがあちこちに浮かび黒い町に滲んでいます。車を駐め、狭い石畳をかつかつかつと歩いていった。(しまっていませんように。)以前にふきんを買った店が見えてた。俊之介は店に飛び込むように入った。

「いらっしゃい」
「ならまちふきん、二枚ください」
「はいはい」
 お金を出そうとして、どこかで聴いたことのある声だなと思って店員を見ると、若い頃の幸子が目の前にいた。
「あ…あ」
「なにか?」
 すると目の前には幸子ではなく、狐のお面を頭に載せた若く美しい男がいた。
「いやいやなんでもないんや、ごめんごめん」

 布巾を手に持って店を飛び出ると、どこかで見た街に出た。あれ、と思ったけれども見あぼえのある街である。近くの標識を見ると「金閣寺前」。(亨のところまで坂を下っていけばいいわけやな。あれ、車は?)
 いきなり奈良から京都に飛んでいるのに、おまけに車がないのに何故か俊之介は平気である。風が吹いていた。温かな柔らかい風。気持ちよくて思わず目をつむってしまいそうだ。風に撫でられながら亨と葉子の住む家へ俊之介は歩いていった。夜はどんどん深くなっていくようだ。
 もうすぐ家、というところで、行く先に人の姿が街灯の下に浮かんでいました。亨と葉子、それと青いシャツの尚美、狐のお面を頭に載せた美男子。それになんと幸子までいます。
「おおーい」思わず声が出ました。
 向こうも手を振ってます。


「おとうさん、どうしはったん」
 幸子に言われて俊之介は我に返った。珈琲豆はとっく挽けていた。
「久しぶりに、見た夢、おぼえてて。それちょっと反芻してたんや」
「へえ。いい夢やったみたいですね」
「けったいな夢やったけど、まぁええ夢かな」
「ふふ。よかったやないですか」

 珈琲を淹れ、新聞にざっと目を通し、朝食である。
 最近は健康のためにと発芽玄米。おかずは鮭と納豆、舞茸と若布のみそ汁、ほうれん草の胡麻和え、壬生菜の浅漬け。

「ごちそうさま」
「よろしゅうおあがり」
「ほな行ってくるわ」
「あ、今日、帰りにでも亨のとこ寄ってくれません」
「なに」
「これ、葉子ちゃんが『ええわあ』ゆうてたでしょ。うちの余ってるし、一つ持ってったげてください」
 幸子が奈良の布巾を俊之介に手渡しました。
「昨日の晩、買うたのに」
「え?」
「いやいやなんでもあれへん。持ってくよ」
「はい。お願いします。ああ、あなた万歩計つけないと」
 俊之介は今年に入ってから万歩計をつけるようになっていた。幸子の薦めで、夫婦二人ともつけている。目標は一日一万歩。もちろん健康のためである。
 万歩計は午前0時で自動的にリセットされるので、ズボンのポケットにクリップを挟んで動き出してからその日の一歩目が記録される。昨夜の夢があったので俊之介は冗談半分にメーターを見ました。最初は汚れかな、と思った。画面になにか字が浮かんでいる。

「5198」

                            (了)

冬が駆け足で


 11月。葉子と亨のもとへ福知山の友人からカリンが届いた。友人が移住した土地に以前からあった樹で、毎年、秋に実ができると送ってくれるのである。葉子は早速、玄関の靴箱の上に一つ置いた。これからしばらく、玄関に甘い香りが漂うことになる。
 カリンの表面はてらてらと光っていて、玄関の少し昏い光の中だと陶器のように見えるのも葉子は好きだった。

 カリンが花田家の玄関でゆっくりと香を滲ませているる間にも、季節は晩秋から冬へと駆け足で変わって行くのだった。
 街に紅い粒子が降ってきたかのように、紅葉する木々は梢から染まった。朝晩は冷え込みだし、とうとう早朝に吐く息が白くなるまでになっていった。この頃にはどの路地でもいくつかの軒先には大輪の菊の鉢が、満を持して並べられる。さながら宙に黄や白や薄紫の泉が湧き出たかのような光景。そして生け垣には山茶花の花が咲き始め、千両や万両が真っ赤な実を垂らしていく。
 やがて街全体が灰色に覆われる季節の予感にあらがうように、街は錦繍に溢れていた。

 亨が出勤したあと、お寺の門の前から小学生達が集団登校をしていった。いつも当番の親たち三人とお年寄りが二人、集合場所で子供たちを見守っている。親たちは子供たちが出発すると家に帰るけれど、お年寄りは学校までついていくのだった。学区には「見守り隊」という老人達のボランティアのチームがあって、子供たちについていく二人もそのメンバーなのだけれど、今週当番の二人を最初に見たとき、葉子には小学生が二人増えているように感じたのだった。身長が140センチくらい。高学年にはもっと背の高い子がいくらでもいる。


 その背の低いお婆さん二人は双子なのだった。「mimamoritai」と背中にプリントされたおそろいの紺のジャンパーは手が隠れるくらいに大きくて、それにやはり揃いの緑と白の帽子も大きすぎて顔の半分が隠れている。そして同じジーンズ、白い靴。身長も歩幅も同じ。二人が子供たちを学校まで送り届け町内に帰ってくる姿を、葉子はいつも「かわいい」と思ってしまうのだ。

 どちらがお姉さんでどちらが妹なのかは判ない。で、それぞれ三味線と舞のお師匠さんなのだ。
 朝日を背に受けておしゃべりしながら歩幅を合わせて帰ってくる二人。葉子はその姿をベランダから眺めているだけで心が和んでしまう。
…ふふ、仲いいんやなあ。なにしゃべったはんねやろ…

 頭が同じように、くいくいと左右に揺れて、掌をぴっと伸ばして歩いている。もうとうに70歳を越しているというのに姿勢がとてもよい。姿勢がよいので帽子とジャンパーで体を包んでしまうと小学生に見えてしまうのだ。膝や背中が曲がっていたらそうは見えない。
 葉子は思わず寒さのために無意識に丸めていた背中を伸ばした。その時、ふいに二人が葉子の方を仰ぎ見た。
「おはようさん」
「おはようございます」
 子供がそのまま老人になったような顔が二つ、にっこり。

 二人の背中を見送ったあと葉子は台所に戻り、収納からポットを出した。明日から亨に渡す飲み物を温かいものにするのだ。亨のリクエストは温かいほうじ茶。テーブルの上に置いた買い物メモに「ほうじ茶」を追加する。
 そういえば仕事に出かける前に亨がこんこんと軽く咳をしていたことを思い出した。

「ねえ咳してるけど大丈夫?」
「ああ大丈夫大丈夫。そやけど社長から『お、風邪ひき男に目病み女やな』っていわれてん」
「なにそれ」
「ちょうど奥さんが『めいぼ』(注)ができて眼帯してはったからかなあ」
「は?」
「色っぽいってことらしい」
「目はうるうるになるからやろか?風邪ひき男は…」
「へへ。美男子は病弱やからなあ」
「あほなこといわんといて。ほんまにだいじょうぶなん」
「ごめんごめん大丈夫や。ちょっといがらっぽいだけやし」
「気いつけてね」
 
 葉子は薬箱の中を確かめ、メモに「風邪薬」と加える。さらに「のど飴」。ちょっと考えて「ヒートテックインナー」と書き足した。


「こんちわあ宅急便です」
 岐阜の友人から「贈り物」が届いた。渋柿30個。これも毎年必ず届く。これは干し柿にする。買い物メモに「荷造りヒモ」を追加。柿を繋ぐためだ。

 机に座って一息。紙をもう一枚。
 年賀状を考えます。
…やっておかないと…と、葉子は思うのだ。冬は駆け足でやってくるから。
「とら トラ 虎 寅さん 」と書いて葉子は時計を見た。年賀状のことは中断。買い物に出かける。
 さっと化粧をすませ、黒のボックスタイプのコートを着込むと首に真っ赤なマフラーを巻き、大きなキャンバス地のトートバックを肩にかけて外に出た。
 風は冷たいけれどいい天気です。向こうから朝、出会った双子の老女が歩いてきた。二人はお揃いのまっ白なウォーキングシューズに明るい黄色のブルゾンを着て、姿勢良く腕をふって歩いている。
 
「こんにちわ」
「またお会いましたね。お買い物ですか」
「はい。ウォーキングですか?」
 二人はにっこり笑って肯くとリズムよく歩いていった。葉子は朝よりもさらに可愛らしく感じる。何故なら二人は山吹色の長いマフラーで繋がっていたから。


                            (了)

注・「めいぼ」とは医学用語で「麦粒腫」のこと。瞼の縁にできた小さな痛みを伴う腫れものです。「めぼ」「ものもらい」「めばちこ」ともいわれますよね。筆者の知る範囲の京都では「めいぼ」といいます。

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