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葉子、と。

雨にぬれても


 梅雨の只中だった。亨は洛西ニュータウンの現場に向かってミニバンを走らせていた。大規模な団地ではなく、その区画のすぐ隣、戸建ての住宅のアンテナ修理である。
 今日も墨を撒いたような空からじくじくと雨が降り出した。亨はフロントに雨粒を確認するときゅっと気持ちを引き締めた。今年は普通の雨降りではないからだ。これまで亨はその異常さに何度か遭遇していたのである。たぶん自分と同じように現場で仕事をしている人たちも敏感に感じとっているだろう、とすれ違う営業車たちがワイパーを駆動させるのを見ながら亨は思うのだった。

 梅雨の傾向として毎年、指摘はされていたものの今年は特にひどいゲリラ豪雨である。だいたい半径2,3キロメートルの範囲に、一時間で40ミリ以上の猛烈な雨が降るのである。それが市内を動き回る。
 まあ、ぼやくより慣れるしかないな、と亨は思うのだけれど、あまりの凄さに茫然とすることが多い。ついこないだは京都府南部の久御山町でその雨に遭遇した。「バケツをひっくり返す」という形容も引っ込むような雨。滝だった。もちろん前はまったく見えず、道路から見える直線の用水路があっという間に溢れ、亨の車は「川の中」にいた。
 恐怖を感じ、用水路から遠く、数メートルでも高いところへと車を回し、息をひそめるように車を駐めた。それ以上動くとどこに突っ込むかわからないからだ。(後で聴いたニュースによると一時間に60ミリの雨だった)

 案の定、今日もまた前が見えないほどの大雨になりだした。幸い高台なので冠水することはない。しかし前が見えない。たぶん一時間か二時間のことなのだが。亨は車を駐め、訪問先に携帯で少し遅れる旨の連絡を入れた。すると先方も窓の外がまっ白なほど降っているとのこと。危ないからゆっくり来てください、と心配されてしまった。礼を述べて、次は北区の店へ連絡する。すると、店番の奥さんから「こっちは降ってないわよお」とのんびりした返事が返ってきた。…これなんだよなあ…。
「予定よりも店に戻るのが遅れそうです」
「はいはい了解」
 亨はハンドルに両手を置いて、水煙でまっ白な外を眺めながら、ラジオのスイッチを入れた。季節が季節なので話題は雨のことばかり。予想を訊かれた若い女性天気予報士が「今週はずっとぐずついた天気が続くでしょう」と、きらきらした声で語っている。

 それにしてもこの異常さはどうだ。亨は考える。よく言われる地球温暖化による異常気象だとしても、それだけではないような気がするのだった。先日報道されていたのは太陽の活動は低下しているということだった。そういう周期に入っているのだと。つまり地球は間氷期に向かっているはずだと。それと温暖化ガスとが組み合わさるとどうなるのだろう。
…無茶苦茶なはずだ…
 そう考えながらガソリン車に乗っている自分。…やれやれ。

 助手席に目がいく。先日、尚美が乗っていた。短いスカートから伸びた白く長い脚と美しい姿勢を思い出す。その時、確かにはっとした自分の気持ちも。
…ふーん…
 亨はダッシュボードの中からCDを選びはじめた。雨の音が脅迫じみてきたので、気を紛らわせたいと思った。亨は神経質そうにクリアケースをめくっていく。雨上がりに、いや雨が降っていても屋根に上るのだから。修理は待ったなしだ。心を平らにしないと…。
(俺はなにを気にしてるんだ)
 今日に限ってCDはどれもこれもピンとこない。顔を上げるとリヤウインドウの外もまっ白になっていた。前を見る。後ろを見る。亨は自分が車の中でちょっとした孤立状態になっていることに今更ながら気がつく。瞬間、恐怖感が心を掠めた。
 途端に葉子のことばかりが思われはじめた。顔が脳裏に浮かんできただけでいとおしさが心に滲んでくる。まっすぐ見つめてくる真っ黒い目も、小さな可愛らしい乳房も、おかっぱの髪も、しゃきっしゃきっとした声もなにもかにも好きだ。自分のすべてだ、と亨は思う。さっき、ちらりと想った尚美の姿はすっかり消え失せてしまった。
 亨は助手席をぱんっぱんっと軽く叩く。(仕事は大丈夫だ。)口からハミングが流れ出した。ワンコーラスを繰り返し繰り返し続ける。 

…Raindrops  keep fallin` on my head…

 亨が小さい頃から父の俊之介が家の中でも車の中でもしょっちゅうハミングしていた曲である。いつの頃からか自分もハミングするようになっていた。
 昔、ドライヴに連れて行ってもらった時、「いつもその曲ばかりハミングするんやね」と訊いたら、「単純に好きなだけや」と父は言った。「映画でこの曲が流れるシーンもな」、と。父が高一の時に観たという、その曲が流れる映画を亨は中学生の時に観た。
 父の車はそのころからずっとホンダだ。今でもハミングしているのだろうか…。

 亨の眼は豪雨の外をみつめていたけれど、頭の中には映画の曲が流れたシーンがひろがっていく。
…光が溢れていて、二人の幸せな笑い声が自転車と一緒にくるくる回って…
 亨の気持ちが軽くなる。


 亨はハミングしてみた。…ぱっぱっぱ ぱっぱっぱ ぱぱぱぱぱ…

 ふと亨はラジオのチューニングを変えてみた。この季節、リクエストなどで特集されるのは雨にまつわる曲が多い。どこかの局でこの曲を流しているかも知れない、と閃いたのだ。亨はチューニングをスキップしていく。雨は激しくなり、外からは俯いた亨の姿もほとんど見えなくなっていた。


 曇り空がいよいよ怪しくなってきたので、葉子は月下美人の上に透明なビニール傘をかけていた。花芽を濡らしてはいけない、と聞いていたからだ。花芽のうち一つは朱色に噴き出して伸びていき、二つは灰がかった白で、もう蕾はかなり膨らんできている。その芽の伸びようは、まるで小さな蛇のよう、と葉子は思う。いきなり咲くのかな?どちらにしても開花が近いのは確かだ。
 緑の怪物のように繁った葉はそのままにしてあるけれど、鉢に三本もある株のうち、まだ花が咲きそうにない株を抜いて植え替えの決心はついた。栄養分や水分の取り合いになっているのだし。花はちゃんと咲いて欲しいし。

 遠雷が響いた。遅れて稲光。見上げた葉子の額に雨粒が落ちてきた。「ほら、来たあ」といいながらビニール傘の位置を調整する。そういえば亨は今日、屋根に上る仕事だと言っていた。妙に不安になる。台所に戻り、ラジオのスイッチをいれる。

…洛西ニューウンのXXさんから、メールでリクエストです。あー、あちらはもの凄い雨やったようですね。小さな川が急に増水してびっくりしはったそうです…こちらスタジオのある北区はどうでしょう…ん、今、降ってきた?…ね、なんだかゲリラ豪雨とかいいますよねえ…

 葉子は思わず携帯をかけた
「ごめん、仕事中に」
「お。どないしたん」
「いやラジオで洛西が大雨やゆうから」
「あ、もうあがったよ。そっちのほうの空が真っ黒やわ。こっちはだいじょぶやし」
「ふう、よかった。じゃね。ごめんね」
「かまへんかまへん。お、いい曲聞いてるやん」
「なに?」
 電話の向こうでラジオが鳴っていた。
…この季節、この曲もリクエストが多いですねえ。じゃ、おかけしましょう。バカラック・サウンドの白眉、B.Jトーマスで「雨にぬれても」…


 ぱっぱっぱ ぱっぱっぱ ぱぱぱぱぱ
 Raindrops  keep fallin` on my head

                              (了)

宝石




 梅雨の中休み。気持ちよく晴れた日。久しぶりの乾いた朝風が、月下美人の株元にしゃがみ込み蕾を観察する葉子の背中を撫でていく。 
  ここ二、三日で急速に膨らみをました蕾は、掌に余るくらいの大きな紡錘形をしていた。葉から伸びた花芽はまるでへその緒のように伸び、ある日からまっすぐ上に向けて反転をはじめたのだった。重力に逆らうその姿は力強く、それだけで葉子をそわそわさせていた。
…そろそろ開花するんじゃないかしら…
 その「へその緒」の先端にある蕾は今、正面を向いてぴたりと静止し、膨らみはじめた。萼が赤みを帯びまるで血管のように白い紡錘形の上を這っている。葉子には見慣れた草花とは違い、まるで動物のように思えたのだった。

 どうにも気が落ち着かないので、葉子は大宅さんに蕾を見てもらうことにした。朝、大宅さんはミニチュアシュナイザーのキース君と散歩に出かけす。それを待ち伏せすることに。
 大宅さんに声をかけると、キース君を抱えて花村家のベランダまであがってきてくれました。そして蕾を観るやいなや
「今晩ですよ、今晩!!」と少し興奮気味に葉子に向き直る。
「咲きますか」
「咲くわよお!!わあ三つもある。株が若いからよねえ」
 先に咲いた大宅さんのところでは、午後八時から咲き始めたといいます。満開が午前0時くらい。例年より早かった、と。この蕾の様子だともっと早いかも、というのだ。
「こう、ぐーっと開いて、後ろまで反り返るほど開きますから。宝石みたいに綺麗だから。おたのしみにー」
 そう言うと大宅さんはにっこり笑ってキース君と帰っていった。
 こうして開花の日は気忙しく訪れたのだった。葉子はすぐ亨に、そして波多野と尚美にも連絡した。

 夕方6時、みんなを招集した時間である。帰宅した亨が蕾を覗き込むとすでに一つが開きかかっていた。

「おーい、もう咲いちゃうよ」
「まだこれからゆっくり開いていくから」
 二人がそんなやりとりをしているところへ波多野と尚美がやってきた。すぐに尚美は葉子を手伝って配膳をし、波多野は亨と二人で月下美人の鉢を食卓から見える室内へと移動させた。
「葉子さんから聞いてましたけど確かに『緑の怪物』ですね」
「ワカメが土から生えてるみたいやな」と、亨。

 テーブルに献立が並べられた。
 ご飯は十穀米。万願寺唐辛子はさっと焼いて鰹節をぱらぱらとかけたもの。かんぱちと紋甲烏賊、鯛、中トロのお造り。それから「きょうは私が焼いてみたの」と葉子が言う鱧の照り焼きです。
「えらく奮発したやん」と亨。
「へへ」
「いつもありがとうございます」
 二人が頭を下げた。

 亨は黒い瓶に蠍の版画のラベルがはられている焼酎を氷いっぱいのグラスに注ぎ、ちびちび飲みながらおかずをつまみはじめた。そのボトルの蠍を見ながら、おもしろいなあ、といった波多野も焼酎。葉子と尚美はビールだ。
葉子は「ビール飲んじゃったらご飯、駄目かな」などと言っている。
「カロリーですか」と尚美。

 そうしている間にも花はゆっくりとひろがっていった。紡錘形の先端が開き、丸く口が開いていくようだ。中のまっ白な蘂が網のようにひろがってゆくのも覗けている。
「なあ波多野、あの花なんか連想せえへん?」
「ええ」
「花というより動物の口、というか…エイリアン」
「そう。一瞬俺もそう思たんよ」
「花が開いたらそんなこといえなくなるから」
 葉子がそういうと、
「素晴らしく美しいものほど醜いところから変身しますよね」と尚美が言う。
「比例してるかも」と波多野。
 そういえば蓮も泥から茎を伸ばす。シャコバサボテンもごつごつした葉から目の覚めるような鮮やかな色の大きな花を咲かせる。土からワカメが生えたような姿をさらしている月下美人をみながら、葉子は「そんなものかな」と思うのだった。

 やがて男たちに「エイリアンの口」を連想させていた花は孔雀のようにひろがりはじめた。それにともなって強い香も流れ出した。
「こういう姿になると…」
「なんとも豪奢ですねえ」
 男たちは、タタミイワシをぽりぽり食べながら蠍の焼酎を飲んでいる。
「香も強烈なんだ」と葉子。
「うーんなんだろう。ニセアカシアを強くしたようなクチナシを酸っぱくしたような」
「甘さ控えめって感じ」
「そうそう」
 女たちは香の話題に盛り上がる。

 
 花がとてもゆっくりひろがっていくので、夕食の片づけは四人かがりで一度にやっつけてしまった。狭い台所を八本の手が手品師のように動き、テーブルにはタタミイワシとグラス、そして「蠍」だけが残った。

 亨は鉢の前に腰をおろし花をじっくりと眺める。花はまた一段と大きく開いていた。
「ふーん。瞬間、瞬間はなにも変わっていないようにみえるのに、たとえば五分間、この花の前から離れていてまた見ると、あきらかに、まったく変わっているんだよなあ…。『時間』ってこういうふうに過ぎていくんやなあ。改めていうのもヘンやけど」
「なにも変わっていないようで、実はすべてが刻々と変わっていってるって、自然の現象を見てるとよくわかりますよね」と、波多野。
「うん、時間の流れって普段はこういうふうに意識はしないもんな」
「蓮の開花を待ってる時もそうですよ。なんだか時間の主導権を花に握られてしまっているような気分になります。花のためにだけ時間が流れているような」
 男二人は「時間」の話に頭をめぐらしているよう。

 月下美人はいよいよその本性を現し、精巧な細工に満ちた純白の大輪を空中に浮かべはじめた。
「思ったより開いていくのが早いわね」
 葉子はそう言いながら他の三人を見回した。みんな無言で花に魅入られている。
「なにか音楽でもかけへん」
 と、葉子が提案しました。頬を紅く染めた尚美が、はっ、と我に返ったような表情をして「一度私に選ばせてください」、と立ち上がりました。

 しばらくすると花村家のCDコレクションから尚美が一枚のCDを持ってきました。
「これ、いいんじゃないかな、とおもって」
 それはアメリカの様々な自然環境の音、例えば鳥の声や滝や波の音などを録音したものにクラシック音楽を被せているコンピレーションアルバムです。
「あ、それ10年以上前に雑貨屋さんでこうたんやわ」
「ナチュラル志向の」
「そうそう」
「ドビュッシーが入っているからいいかな、と」
「へえどれどれ」
 そういって波多野がジャケットを手にとりクレジットを読んでいく。亨がそこから盤を抜き取り、プレイヤーに挿入しました。
 音楽は”RIVERIE”。下地のネイチャー・サウンドは”Night in a Southern Swanp”とあります。”Don`t Feed the Alligators”という説明はジョークかなと、波多野。
「RIVERIE…『夢』ですね 」
「そんな音楽だなあ」と亨。
 波の音と鳥の声とドビュッシーが混じりあい、部屋の中はますます夢幻の雰囲気に満ちてきました。四人はしばらくその音楽を何度もリピートした。

 午後九時。花はますます大きく開いた。まっ白な大輪が三つ輝いている。ワカメだと言われていた肉厚の葉のヴォリュームを圧倒する強さと繊細さがあります。…放射してくる力が凄いね…これは四人全員の感想だった。
「大宅さんが言うようにこれは『宝石』やなあ」と亨が呟いた。
「そういえばドビュッシーの音楽も宝石だ、と島崎藤村が巴里でいったんですよ」
「国文にいってるとそういうことがわかるんだ」
 葉子がそういうと波多野は苦笑いだ。

 午後九時半。花はそろそろ限界まで開いたようだった。全員が携帯で画像を撮った。 まず亨が仕事があるから、と寝室へ戻り、それから大学生の二人があとかたづけをして、礼を言いながら帰って行った。

 葉子は静かになった台所で椅子に腰掛け、月下美人の花を見ていた。毎日、欠かさず様子を見てきた甲斐があったと思った。ほっとした気分で、もういちど小さい音でドビュッシーをかけ、亨が飲み残した「蠍」を啜ってみた。…なかなかいい心地…。

 二時間後、テーブルに頭を載せて寝入ってしまった葉子の顔を亨がそっと覗き込んでいた。ふと気がつくとベッドの横に葉子がいないので起きだしてきたのだった。そのまま葉子を抱きかかえ寝室へ。横目で見た月下美人は花をゆっくりと閉じ始めていた。もう「花の時間」は終わったんだな、と亨は台所の蛍光灯を消した。
 闇の中で一夜限りの宝石は音もなく骸になっていくのだった。

                                                                (了)
 
 


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