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音函

時折、白


爪を切る音 鏡台から空へ
椿葉の鎮まる庭に 昏い光
空に折れ線でもあるのだろうか
    山折れか 谷折れか
音が止むと 時が折れて
白が降るのだという
障子を少し開けて
箱庭に降る光 手鏡に載せて
白い三日月を丸い化粧の外に置き
折った膝の間には
夜が待っており
夕刻の手鏡が火を吹いていて
時はとっくに折れており


温かい雨


#1  無憂樹(むゆうじゅ)

「すん」と背後で低い音がして自動扉が閉まると、体に暖かな空気がまとわりついてきた。横殴りの雪の中を歩いてきた頬のこわばりがみるみる緩んでいく。
 こちらを見ている受付の女性達からは「寒さ」を感じることはない。彼女たちはこの温室と真冬の街を毎日往復しているのだろうけれど、冬の街に出たときにどんな顔になるのだろうと一瞬思った。寒さにこわばった表情がないままに季節を過ごしていくのかもしれない。
 入場料を払い次の扉の前に立つ。 
「すうん」
 扉が閉まると同時に濃い緑の大ぶりで不思議な形をした植物たちに、ぼくの眼は引き寄せられていく。
 小さな声がした。登世子さんが黒いカシミアのコートを腕に抱えて立っていた。細い体に薄手の黒のタートルとダークグリーンのプリーツスカート。ぼくの大好きな眼と髪と口と耳が少しかしいでこちらを見ていた。
「待ちました?」
 登世子さんは、ここならいくらでも待っていられるわ、と答えて腕を組んできた。一週間ぶりのデートのはじまりである。これからゆっくりと、広大な植物園の温室を散歩するのだ。
「ねぇ、無憂樹が咲いたんですって」
 入り口で聞いたという。彼女は一人で頻繁にこの温室に通っていて、職員とも顔見知りになっているのだ。デートのたびにまず彼女の口からこぼれるのは新しい植物や開花した植物の話題だった。
「どこにあるんだろう」
「うん、少し先」
 通路は交叉し曲がりくねりながら続いていて、ぼくたちはゆっくりそこを辿り始めた。
 ぼくたちはそれぞれ自宅で植物を栽培している。ぼくはミニ薔薇ばかりを、彼女は観葉植物を主に。同じマンションの同じフロアの別の部屋に住んでいて、ベランダに出ると、左手の向こう側に彼女の部屋のベランダが見える。
 お互い独りで暮らし、毎日育てている植物を気遣い、花に溜息をつき、葉の緑に鎮められ、新芽に興奮し、病気や害虫を呪う。そんなことを何年も続けてきていた。
 登世子さんは七十歳で独身である。その年齢を聴くと誰もが驚くほどの容姿の人。いつも姿勢がいい。たぶん四十代のぼくよりも数段いい。同じ園芸店で何度も出くわし、同じエレベーターで何度も乗りあわせ、ぼくたちは自然に言葉を交わし出したのだった。
「あなた、いつもミニ薔薇を買ってらっしゃるけれどお好きなの」
 それがぼくらの最初の会話だった。ぼくはエレベーターの中で通算十二個目になる黄色いミニバラの鉢を手に持っていた。
「せっかく鉢に入っているのだから、夜は中にいれるか覆いをかけておやりなればいかがかしら。私のところからずらりと並んだあなたの薔薇が見えるのよ。寒い晩ほどはらはらしてしまいます。ミニは弱いでしょう?」
 ぼくの頷いた顔はどんなだっただろう。彼女のきりっとした口元が綺麗だと、瞬間に感じていたから。
「『せっかく鉢に』?」
「根がついたまま移動できる植物は、空を飛べる猫みたいなものなの」
 そして彼女はにこりと笑った。
 ふたりはそれから出会えば立ち止まって話をするようになり、あたりまえのように付合いを始めたのだった。ぼくたちは温室の熱帯水性植物の部屋を進んでいく。右手にオニバスの池が見えてきた。
「きれいね」
 オニバスは見事に咲いていた。ピンクと紫の中間の色をしている。
「あなた、蓮の咲く時の音を聞いたことがある?」
「いいえ」
「よく音がするっていうでしょう。この蓮は古代の種から復活した蓮だから、もし音がしたら同じ音が古代にも鳴って
いたことになるわよね」
「過去と同じ音…ですか」
「遠い過去が目の前によみがえるのよ。聴きたくない?」
「それじゃハスの種は楽譜でもあるわけだ」
「なるほど楽譜ね。…うん、じゃあ聴きにいきましょう。夏にね。マンションの近くのお寺に蓮があるの。あそこで聴きましょう」
「いいですね」
「夏にね」
 蕾が弾ける音。たとえばミニバラの咲くときでも、人の耳には聞こえない微細な音がしているはずだけれど、蓮の大きな蕾は開く時にはっきりと音がするという話は聞いたことがある。ぼくは無性に聴きたくなった。
 しばらくオニバスを見ていた。水底は真っ黒な泥で、水面を破り伸びている茎と、葉と、花。その色と形とがまるで空中に浮かんだ奇蹟のように見える。空中と水中の対比はあまりに鮮やかだった。
「完璧ってこういうことなのかしら」
「完全、と思います」
「手の入れようがないというか…。だけど自然のものは全部完璧なのよね、それぞれの形でね」
 順路は右にカーブしてゆっくりとした登りになった。肉厚の大きな濃い緑の葉たちが続く。そして熱帯植物の花の色は目を刺すように鮮やかだ。どんなに小さな花でも強烈に存在を主張してくる。登りのいちばん上のあたりに「無憂樹」
と呼ばれている樹があった。
古代のインド。この木の下で麻耶婦人はゴータマシッダルタ、つまり仏陀を出産したのだった。そして「無憂」という名がつけられている。それはオレンジ色の繊細な花をつけていた。葉は大きく濃い緑。木の下は緑の深く濃い翳。
「これなのね」
「熱帯の花は雌蕊や雄蘂がむきだしというか、繊細な部分がくっきりとしてますね」
「大胆なのよ」
 登世子さんがぼくの眼を見た。
 上で何かの気配がした。見上げると、鉄骨と硝子の屋根を水が流れていた。外で降りしきる雪が解けているのだ。
 無音。
 頭の真上から水が流れ落ちている。
「まるでカプセルの中にいるみたいね」
 登世子さんも見上げていた。

♯2 春萱(はるかや)

 鴨川の朝靄がゆっくりと晴れていく。
ぼくたちは早朝に二人で河川敷を歩いていた。これから川沿いに水辺の植物を採りにいくのだ。朝日が登世子さんの銀色の髪を輝かせている。
 
 前の晩、登世子さんがぼくの部屋を訪ねてきた。珍しいワインが手に入ったからいかが、と。ワインと一緒にリンゴとゴルゴンゾーラチーズを持って。
 その時、花の香りの話題になった。ミニバラもこれだけの数が部屋で開花するとけっこう香りが漂うというようなことを言ったのがきっかけだった。
「ばらの香りはわたしも好き。なんだかしあわせな気分になる香りよね」
 それから、金木犀、沈丁花、木蓮、…と次から次と香りのする花の名前を挙げてはあれはどう、これはどうと思いつくままにしゃべっていた。
「登世子さんの部屋はオーナメンタルグラスばかりだから香りは無いでしょう」
 オーナメンタルグラスとは、簡単に言えばススキであるとかヨシのような植物のことである。それらの葉の緑の色の
違いや形の違い、質感の違いなどを楽しむ「オーナメンタルグラスガーデン」を登世子さんは作っているのである。以前に呼ばれた時に見せてもらった。ベランダの外まで硝子張りに改造された居間からのスペースの植物は、緑の抽象画をみるようだった。重なり合った葉の緑の色相の違いや、眼に受ける硬軟の感触が部屋に風を起こすような錯覚を覚えた。
「ふふ、それが違うのよね」
「香りがあるんですか」
「部屋には無いけれど、川に行けばね。明日の朝行きましょう」
 登世子さんの顔が少し紅く染まっていた。 

 川面が光の鱗のように輝き始めた。朝凪はとうに終わり、川辺の草たちが風を受けて、囁くような音を出していた。
「あ、あれあれ」
 登世子さんはそう言うとすたすたと河原に向かって降りていく。慌てて追いかけた。河原に自生している剣のようにすっと長い草を三本、登世子さんは根もとから剪定鋏で切り取った。
「春萱(はるかや)というのよ」
 登世子さんから手渡されたその「草」はなんの香もしなかった。
「ほら」
 そういわれて河原を見てみるといたるところに萱が自生していた。
「でも香りがしませんけれど」
「帰ってからのお楽しみ。あなたの部屋に行ってもいいかしら」
 春萱の葉をテーブルの上に置き、珈琲を淹れる準備を始めた。今日は日曜日。四月の終わり近く、薔薇たちは蕾をぐんぐん膨らませているところだった。
 朝の音が部屋に流れこんでくる。車の音、川の流れる音、風の音、鳥の声、遠くから人の声、ラジオの声、テレビの声…。
 朝の光も溢れ出している。テーブルに腰掛けている登世子さんにくっきりとした翳ができ、壁に飾ってあるクレーのレプリカも色の境界が消えていた。
 登世子さんが眩しそうに目をつぶっている。
 ページュのロールスクリーンを少しだけ下ろした。
 お湯が沸き、ペーパーで珈琲を淹れ出す。インドモンスーンの香りが部屋いっぱいに広がった。二人並んでマグカップで珈琲を飲み出したとき、ぼくは「ちがう匂い」に気づいた。
「なんだろう?」
「ふふふ」
マグカップを手に部屋をみまわし、匂いを発しているものがわかった。春萱の葉だった。河原に生えている時はまったく匂いはしなかったのだけれど、折ってしばらくたった今、甘い芳香を放ちだしたのだ。
「匂いの『お茶うけ』ですね」
「わかる?」
「だってこれ桜餅みたいな匂いだもん」
 登世子さんがにっこり笑った。


#3   蓮

 七月も半ばを過ぎ、京都のあちこちで蓮の開花が始まっていた。ぼくたちは真冬の植物園の温室で約束した法金剛院へ見にいくことにしていた。ぼくは蓮のことはほとんど知らなくて、お寺に行けば蓮の開花の音も聞けるものと思っていた。けれど出かけるその日の朝、ぼくの部屋に来た登世子さんは首を横に振るのだった。
 登世子さんはミルクティーを呑みながら蓮の話をはじめた。
「蓮が蕾から咲くのはもっともっと早い時間なの。念のためにお寺に電話して開門の時間を聴いたのよ。午前七時だって。たぶん無理ね。でも、花を見たいから行きましょうよ」
「仕方ない、か」
「ね。私が蓮の開花を見たのは京都じゃないのよ。滋賀県の田舎の小さなお寺。山門を入ってすぐのところに蓮鉢がずらりと置いてあって、山門はいつも開きっぱなしだったの。田舎じゃないとそんなふうにはできないんでしょうね」
「街じゃ無理なんだ…。音が聞きたかったんだけど」
「そこの和尚さんは『音はしない』ってきっぱりと言うのよ。確かに蓮の花はね蕾が割れて咲くんじゃなくて、少しづつ緩んで咲くの。だからいつでも音がするとは限らないと思う」
「だけど登世子さんは聴いたんでしょう」
「うん、夜明け前にね。ぽんっ、て。幸運だったのね。だけどそれでも和尚さんは違うっていうのよ」
 登世子さんは自分の頭を指差した。
「その音は『ここ』でしたんだって。だから正直に言うとね、聴いたかどうか自信がないの」
 夏の朝は、いきなり強烈な光線とともに始まる。ぼくたちが妙心寺の境内を抜けて花園駅前まで出たとき、二人の翳はかなり濃くなっていた。そのまま少し西へいくと法金剛院がある。有名なお寺ではあるけれど門構えはいたって簡素だ。幾人かがその門をくぐっていくのが見えた。カメラを肩から下げている人、スケッチブックを抱えている人、皆この蓮の花を記録し、持ちかえろうとしている。
 「蓮の咲く音」というのはなんともロマンティックなものに思えていたのだけれど、入場料を払い、その庭の池を見て
、これが一斉に咲き出す時に仮に音を出したら、さぞかし賑やかなことだろうと思った。それほど池は蓮でいっぱいだった。
 それは池一面を覆う緑の波だった。その曲線のままに固まってしまった波だった。花はその狭間に浮かんでいた。あるいは波の切れ間から茎が伸びたその先に咲いていた。池の周りをめぐる道にも蓮鉢が置かれ、見事な大輪の蓮の花がいくつも咲いていた。
 よく見ると蕾のものもあれば、開きかけのものもある。咲いて四日で散るという短い命の、今どの辺りなのか、花の一つ一つを見ながら、花の持っている時間を読んでいった。
「やっぱりね」と登世子さんが言う。
「この花はもっともっと微妙なものかもしれないわ」
 蓮の花はその形がシンメトリックでしかも花びらのひとつひとつが完璧な曲線でできている。これ以上の「線」は描けるはずがないと感じる美しさ。
「そう、だから、くっきりとした音が不似合いに思えるの」
「やっぱり音はしない、と…」
「あってほしいけれど…。そんなはっきりした音だと『線』が壊れてしまう気がする…」
 ぼくたちはゆっくりと池の反対側の日翳のほうへ歩いていった。
「わたしねこの景色も好きなの」
池の端で登世子さんはしゃがみ、そこから蓮の葉を指差した。
 横に並んでしゃがんで見ると、蓮の葉の裏から空を見上げた恰好になリ、視界が薄い緑に染まった。
「なんだか落ちつくの。緑の傘の下にいるようでしょう」
「緑の波の底にいるみたい」
「うん」
 登世子さんの顔に緑の紗がかかり、目元がはっきり見えなくなった。
「和尚さんがいうように、蓮の音は私の頭の中でしていたのかもしれないわね。滋賀のお寺には好きだった人のお墓参りに行ったのよ。命日にね。
夜が明ける前からずっとお墓の前にいたの。だから自分でもわからないまま、きっと蓮の花に何かを求めていたんでしょうね」
 ぼくは黙って聴いていた。
(…過去の音がよみがえる…)
 
 結婚はしなかったけれど、8年間、その人と生活をともにしていたという。登世子さんは婦人服のデザイナーとして働いていて、彼も同じ業界の人だった。
 そして彼はある日、突然交通事故で亡くなったのだった。
「突然、消えてしまったのよ。声も顔も体も指も。突然。ある日、突然…」
 沈黙が緑の波の底に沈んでいく。
 登世子さんはごめんなさいと小さな声で言うと立ち上がった。ぼくはすぐに彼女の手を握った。そうして、ゆっくりと蓮の池の周りを歩き始めた。大きく広がった緑の翳のなかを選ぶようにして歩いた。
 やがてふたりはまた日向へ出てきた。ちょうど池を一周したことになる。ひときわ立派な蓮が鉢で咲いていた。真っ白である。
「なんの汚れもないわね」
そこには見る者から言葉を奪う、完璧な美しさが光に向かって開いていた。
 時間が経ち、人が増えていた。みんな小声でしゃべるものだから、さわさわさわと風が集まったように聞こえる。ふたりはお寺を後にすることにした。
「また来ましょう。何度でもこれるもの」
 門の外の通りは、たくさんの車が行き交い、夏の光は、ゆらゆらと揺れはじめていた。
 視界が白い。人の姿も蜃気楼になりそうだ。
 ぼくは登世子さんに言った。
「ちょっと向こうまでいきましょう」
「うん?どうするの」
「古い傘やさんがあるんです。日傘、買いましょう」
「あら、帰ればあるわよ」
「ぼくの傘をさして欲しいんです」
 目を細めて登世子さんの方へ向き直り、顔をしっかり見ようとしたら音がした。ぼくのなかで何かが弾ける音が。
                                                         (了)

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