見出し画像

街函

目次

月見草辻子 
春の點  
こうつと、こうつと     
老眼鏡 
火花 
蝉の羽色  
朝の匂いのする手紙 
屋上 
遠い鐘 
芥子色 
あいたい
鬼灯 
石に融ける 
菫  
冬の陽 
南天 
舞台 
春宵 
洗顔 



月見草辻子


 大学からの帰り道、いつものように舗装路の下で勢いよく水の流れる音がする。たぶん昔は小さな川が流れていて、蓋をするように道ができたのだろう。古い寺と数軒の家に挟まれたこの道の突き当たりを直角に曲がって、人がやっとすれ違えるほどの細い路を少し行くと私の住んでいるアパートがある。アパートと、細い路を挟んだ向かいにある古いお寺の、五段ほどに組まれた石垣の隙間に月見草が生えている。一つや二つではない。ある石の周辺に集中的に生えているのである。
 昨年、花が咲くまでは雑草だと思っていた。花が咲いてからも日中はいつも萎れていたものだから、鮮やかな印象はまったくなかった。
 夏の夜、ぼんぼりのように浮かんでいる花の美しさ初めて気がついて、夜ごと見とれていたらば、隣家のお婆さんに月見草、と教えてもらったのだった。
 不思議に思えたのは生えている位置が人の背より高いところにあることだった。種もこぼれるだろうに道の隙間や他の場所にはまったく生えていない。その石垣の、ある石組みのところだけに生えるのだ。たぶん以前からここに生えていたのだろうけれど、それ以外の石の隙間には一つの雑草もなく、栽培しているようにさえ思えるのだった。
 ある日、帰宅すると、月見草の蕾がひろがりかけているのに気がついた。今夜咲くのだろう。
 隣の家の前には床机がだされ、おばあさんが座っていた。団扇でゆっくりと顔を扇いでいる。白いシャツと真っ白い髪が群青色の空気の中に浮かんで見えた。私は自転車を駐輪場に入れ、そのまま月見草を見に通りに出た。
 あたりはどんどん暗くなり花は微かに光を放つかのようにゆっくりと開いていく。ひとつ、ふたつ…花が次々と咲いていく。
「ああ咲きましたねえ。きれいやねえ」
 声の方へ向き直るとおばあさんが月見草を見ながら小さく頷いている。
「月見草はここだけで咲くんですね。毎年毎年ずっと同じところで咲くんですか」
 あんたはんはアパートに住まはって何年になりますの、と聞かれたので二年ですと答えた。どちらから、といわれるので東京、と答えた。それならご存じないんやね、とおばあさんは月見草の由来を語り出したのだった。
 このあたりはむかし「廓」がぎょうさんあったんです。「くるわ」ゆうてわからはりますか。ええ、そう遊廓です。このいったいがすべてそうやったんです。あなたの住んではるアパートも昔はそうやったんです。私が小さいころはまだ残ってましてねえ。ほらあそこのタイル張りの家、あれなんてそうどす。この石垣のあるお寺はもっともっと昔からありましてん。
 それでねえ、昔、お女郎さんにならはった人には、もう生きるか死ぬかの貧しいくらしをしていたお百姓さんの娘さんが大勢いはったんです。あなた年季明け、て知ったはりますか。年季明けゆうたら借金の返済が済んで自由になるいうことですねん。娘さんたちは借金のかたにもらわれてきたんです。ねえそんな貧しくてどないしてお金返せますか。返せるはずもない。みなさんくるわのなかで一生を終えていかはったんです。
 そんな娘さんの一人がここに来る時にお母さんから月見草の種をぎょうさん持たされてきはったそうな。この種を毎月ひとつぶひとつぶ身の回りにうずめておゆき、種が全部無くなった時に年季が明けるからゆうてねえ。そんなこと無理やいうのは、娘さんかてうすうすはわかっていたんやろけど、それでも母親の気持ちを大事にしようと、埋めていかはったんです。道端に埋めたりはせずにあの石垣のあの石組みのところに埋めていかはったん。
 おばあさんの細い腕がゆっくりと上げられ指が月見草をさした。
 あそこがちょうどお手水の窓の外やったそうな。窓を開けた時その石垣の隙間を見つけたんやろね。種はいつか芽が吹くけれど、道に放ったんでは雑草みたいに引き抜かれてしまうかもしれないし、母親がどんな種をくれたんか知りたかったんやろねえ。それとも自分とふるさとをつなぐ最後のよすがは誰にも触らせたくなかったんやろか。母親はいったい何粒渡したものやら、その娘がどうなったかは話残ってへんの。
 今、道になっているところが昔は廓だったんですねと聞いてみた。そう建物を壊して町内で辻子を通したという。
 「辻子」ってなんです、と尋ねると細い腕を左右に振ってこの路ですという。路地だと思っていましたというと、簡単に言
えば通り抜けられないのが「ろおじ」で通り抜けられるのが「ずし」なんだという。
 もう一度、左腕が上がった。左を指し、すーっと線を引くように自分の家の前まで腕を回し、ここまでが路地やったんです。月見草の咲いている石垣の前を指し、あそこに廓があったんです、と言う。
 廓の制度がなくなって、そこは廃屋になりましてん。で、そこさえ越えれば向こうの路地とくっついて便利になるか
らゆうてねえ。この突き当たりにコンビニがあるでしょう。あそこが昔は「マーケット」でそこが土地を買い取って辻子をを通したんです。お客さんを集めるのに都合がいいから。
 ちょうど今頃でねえ。建物を壊したらあの石垣の、あの石から下までびっしりと滝のように月見草が生えていたんです。夜に花が咲いたら白くぼうっと浮かんで。花は黄色なんやけれど夜の中では、ほれあのとおり白く浮かぶんやねえ。気味が悪いゆうてほとんど抜かれたんやけれど、あそこは人夫さんも手をつけはらへんかったん。
 それでこれはいったいどういうことやろうて、町内の人が前の廓のことを知ってる人に話を聞きに行ったら、そういう子がいたゆうてね。
 お婆さんは息を継いだ。
 その娘さんはどんな気持ちで種を石の隙間にいれていったんやろ。夜に咲く花を見てどんな気がしたのやろねえ。
 それを町内で育て続けてきたんですかと尋ねると、ふふといって首を振る。一つの株が枯れても次から次から新しい株がでてくるんですとだけいう。


 京都の街は碁盤の目だというけれど、現実には交差する大路、小路からさらに「路地」や「辻子」と呼ばれる細い路が毛細血管のように街の深部を走っている。私がこのアパートに決めたのは家賃が安いことが一番の理由だったけれど、ノスタルジックな下町の雰囲気が気に入ったからでもあった。まるで内側から脹らんでいるような木造モルタルの家、細かなタイルが壁にびっしりと貼られた家、縦格子の窓がいくつも並ぶ不思議な長く大きな家、仁丹マークのついた琺瑯びきの住所看板、迷路のような細かい路、路…。
 遊廓があったことは知らなかった。京都の花街のことは知っていたけれど、この辺りの事はまったく知らなかった。
 あなた、花街と遊廓は違いますよ、とお婆さんは小さな声でおしゃべりを続ける。 上七軒、祇園、先斗町、宮川町、島原…。
 それらが花街であって、ここはそのようには歴史に名前が残らない場所なのだ。私娼窟、女郎街。
 あなた、あなたとお婆さんの声がする。月見草は一夜花。朝になればもう赤く萎れているさかい…。
 もうすっかり夜となり、家の灯りから離れた床机も、お婆さんの姿もすっかり闇に紛れてしまい、振り返っても見えなくなってしまった。

 声が響いてくる。
 あなた。あなた。
                (了)


春の鮎



蜥蜴が虫を食べている石垣に
針模様
待ち人の影に
闇雲の鋲
桜花の中に鳥
          空 高く
          銀の虫が架けた白い糸が融けだして
          路地に篠つく
          春の點


(順次公開していきます) 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?