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音函

目次

冬の光   

こきん   

踏切    

魚子薔薇 

雷     

草の音   

時折、白  

温かい雨  

散髪    

ダリア


 

冬の光 


鳥の背だけに光が乗っている日に

殺されたあなたを弔った



冬よりも冷たい鋪道を供物が埋め尽くし

祈りが光を孕んだ露となって

降りつもっていた

そこに光がとどまり続けることを

知らぬうちに選んだ人たちの背中に

光が静かに乗っていく


私はその列に続いた

息はみな白い形を結んでいく





こきん



1 親指


 葉子が電話を肩に挟んでメモをとろうとしている。わたしは居間のテーブルの向かい側で文庫本を読んでいた。葉子は右手でペンを持ち、左手でメモを探して、電話器の近くに置く。わたしはその動作から目が離せない。葉子が五歳の時から、わたしはあの子の指の動作を目にするたびにそうなる。今ではもうなんの不自由もないというのに。
 ピアノを自由自在に弾くことは小さい頃からのわたしの夢だった。その指から美しいメロディーを紡ぎだす先生に憧れ、合唱コンクールでピアノ伴奏する同級生には嫉妬した。わたしの「ピアノ」は残念なことにかなわない夢のままで終わったけれど、自分の子供にはぜひやらせたいと願っていた。
 葉子は小さい頃から負けず嫌いの活発な子だった。公園では、静かに遊ぶ女の子たちには加わらず、男の子たちと駆けまわって遊ぶような子。そして何事にも全力で取り組み、頼まれた用事でも子供同士の遊びでもとにかく手を抜かない子だった。途中で自分から投げ出すことは一度もなかった。
 これならできる。
 ある日わたしは、確信を持って葉子を近所のピアノの先生の家に連れて行った。葉子は外で遊べなくなったから少し不機嫌で、まるで頼まれ事をこなしているときのような顔をしていた。
 先生は葉子をピアノの前に座らせて、葉子の指を鍵盤の上に置いた。その指を持ってぽろん、と一音。もうひとつ、またもうひとつと音を続けていく。やがてひと繋がりの綺麗なメロディーができあがった。
「葉子ちゃんピアノ面白い?」
 葉子は黙って頷いた。
 ピアノを習うことが決まった日から、葉子は紙の鍵盤を机において、一生懸命指を動かす訓練を始めた。一事が万事そのような子だった。
 ピアノが我が家に来てからは、さらに練習に熱中していった。わたしはわたしでいつも傍らで励ました。それはそれでよかったのだけれど、やがて葉子の致命的な弱点が露わになった。親指の関節の不具合だった。付け根の関節がすぐに外れてしまうのだ。ピアノの先生がすぐに気がついた。
 …あまり無理なさると、指関節が壊れて元に戻らなくなる怖れがあります。だから…
 そのことを葉子に告げるのが怖くて、わたしはずっと黙っていた。その上、先生の指摘にもかかわらず葉子のピアノは日ごとに上達していったから、これは大丈夫、先生の言葉は大袈裟なもの、と判断していた。
 ある日、葉子は帰宅すると、いつものようにピアノの練習を始めた。ところがどうも様子がおかしい。何小節か弾くと止まり、また何小節かで止まる。
「葉子どうしたの?」
「おかあさん、指広げたら、こきん、ていうねん」
 ちょっとみせてごらん、と言いながらわたしは葉子の右手をとった。少し腫れているように見える。さすったり指を曲げたりしてみた。
「また、こきんていうた」
 葉子が顔をしかめた。だけどわたしにはその音が聞こえない。
 夕食の時、葉子は左手で支えないと箸を持てないほどだった。わたしは自責の念にとらわれていた。この子が絶対に泣き言をいわないのをいいことに無理をさせていたのだ。
 ピアノの練習は一時中断することとし、翌日、形成外科医を受診した。医師は根本的に治すには手術が必要だという
「しかしですね、随分と細かな手術になります。針のような細い器具を使うんですよ。で、もし神経に触れたり傷をつけたりしますと、親指の関節は一生動かなくなることもあります。ピアノを止めてこのままであれば日常の生活にほとんど支障はありません」
 葉子は顔を上げ、なんだか嬉しそうな表情をしている。
「先生」 わたしは背筋を伸ばして尋ねた。
「もし先生のお子さんが葉子と同じ症状でしたら、先生どうなさいます?」
 医師は苦笑いしながら一呼吸置いて言った。
「手術はさせませんね」
 私は即座にピアノを断念させる方を選び、まるで逃げるように葉子の手を引いて帰ったのだった。
 それからわたしたち母娘の夜毎の日課は手のマッサージになった。心をこめて、だけど力を入れ過ぎないようにわたしは葉子の右手の親指をさすり続けた。
 長い時間はかかったけれど、今、親指の関節は正常である。
 今、思えばあの時、こきんと音がして良かったと思う、音がしないで葉子が頑張り続けていたら、ピアノはおろか字さえ満足に書けなくなっていたのかもしれないのだから。またピアノをあきらめてから葉子の顔色がとても良くなったのをわたしは見逃さなかった。ピアノを始める前のように、葉子は本当に楽しそうに野外で遊んでいたから。
 やがて葉子の興味は「ものを作ること」と「絵を描くこと」に移行した。スケッチブックは葉子の必需品になり、彼女が写生してきた水彩画は我が家の居間を飾っている。
 そして、大学の建築科へ進学。卒業後、建築土木の会社に就職。工事現場に出ている。男勝りの仕事だけれど葉子は生き生きとしている。そう、今あの手、あの指が今では荒っぽい現場で活躍しているのだ。事故に遭いませんように。母親としての気がかりはそれだけだった。


2 押し絵

 そんな葉子が最近辛そうにしている。いつもなら現場で起きたこと、見たことを食事の時に、よく話してくれるのだけれど、烏丸通りでの地下鉄工事を受け持ってしばらくしてから急に無口になった。目の下に隈までできている。それは
 葉子がこれまで経験したことのない大工事のようだった。だからだろうか。
 いつもの涼しい表情ではない。だけどわたしには憶えがあった。それは指の痛いのを必死にこらえていた子供の時の顔である。あのピアノを無理にでも弾こうとしていた葉子の顔である。
「葉子無理してへん?最近、顔色が悪いけど…」
ある日曜日の朝、休みということもあって午前十時ごろにダイニングに現れた葉子に珈琲をすすめながらたずねてみた。
「ううん、だいじょうぶ」
 そう言えば顔色も幾分、よくなっている。
「なんかあったん」
「うん、そのうち新聞に出るやろから、もうゆうてもええかな…」
「なに」
「烏丸通りをずっと掘ってきて、それで今、いよいよ御所の横を掘っているんやけど…。ほら、京都いうたらどこ掘ってもなにか出てくるやん。江戸から安土桃山、室町、平安…ってずっと層になってて…。今までやったら何が出てきても驚かへんかったけど、今回だけはさすがに参ったわ」
「御所やから?」
「ううん、烏丸通りの丸太町から出水のあたりは旧の二条城やったんよ。信長が造らせたんやね。その遺構が出てきたねん」
 喋るに従って葉子の顔が引き締まってきた。
「安土桃山の頃の宣教師フロイスの日記が残っていて、それにこの城を造った時のことが書いてあるんやけど、それがそのままでてきたんや」
 葉子は珈琲を一口、啜った。
「埋まっていたのは石垣なんやけど、その石が首を飛ばされたり斜めに切られたお地蔵さんやねん。五輪の塔とかもあった。それが地下からぞくぞくとでてきたん」
 声が震えていた。

多数の石像を倒し、頚に縄を付けて、工事場に引かしめたれば、都の人偶像を崇拝すること大にして、異常の恐怖を
懐きたり
(フロイス『日本耶蘇会年報』より)

 掘削現場から音が消えた。作業員の誰もが手を止め、息を呑んで黒い石の塊の連なりを見ていた。慎重にうすく土を削っていたパワーショベルが、がりがりと音を立ててその造作物の上を擦った時から工事の全てがとまった。
現場監督は作業員に、ただならぬ物体付近を慎重に手掘りするように指示を下した。
 葉子も現場の補佐としてその場にいて、その石たちを見ていた。それは異様な光景だった。たぶん大至急、城を作る必要があったのだろう、石垣に使われているのは、そのためにきちんと整形されたり切り出されたものではなく、かつての庭石であったり、あきらかに石灯籠の上を切り飛ばしたものであった。そしてその場の誰もが息を呑んだのがおび
ただしい数の小ぶりな地蔵だった。頭を斜めに切り飛ばされたり、首から下のないものもある。
作業員がスコップで大まかに土をはらい、軍手でその顔の土をぬぐってやる。するとその顔がきらりと輝いた。光を浴びたのは数百年ぶりであろう。葉子は土留めの位置を確認しながら梯子で下りていった。その斜めに切られた切口を見ただけで、耳の中で石が砕けるような「こきん」という音がした。
 動悸が激しくなった。
(空耳やわ)
 地下の地面はしっとりとしていて、地蔵の一つにそっと触れてみると石は驚くほど冷えていた。目を上げると年老いた作業員が一人、じっと手を合わせている。
 京都のどんな小さな町内にも地蔵尊があり、夏にはその小さな祠の周りで地蔵盆がある。この街に生まれたものならば誰もが小さいときから親しんでいる地蔵が、石垣の代用品としてかき集められ、積まれ、破壊され、そして忘れ去られていたのだ。葉子はあまりに無惨だと思った。
 ほどなく埋蔵物の研究員が到着。彼らが調査に着手すると、それが完了するまで工事はできなくなる。たぶんいくつかは保存されるだろう。しかし…と葉子は現場を見まわした。原型をとどめないほどに壊されたものは保存のしようがないし、あまりに大規模なために撤去できない。ほとんどはこのまま埋め戻されるだろう。それこそこの烏丸通りが地蔵たちの安置場所となるのだ。
 葉子はふと足もとの丸い石に気をとられた。思わずその拳ぐらいの石を手に取ってみると、埋まっていた地面に押し絵のような顔が見えた気がした。にこやかな丸い地蔵の顔…と思った瞬間それは消えていた。石を見た。削れたのか元々なのか石にはなんの造作の跡もないようにみえる。
ただの丸い石だ。
「すみません」
 葉子はその石を持って埋蔵物の研究員のところへ歩み寄った。
「これってお地蔵さんの頭部でしょうかね」
 研究員は石を受け取るといろんな角度から検討してこう言った。
「うーん、ただの石ですね。大きさが地蔵さんの頭ぐらいですけどね。残念ながら」
 葉子は黙って頷くとその石をポケットに入れた。
(あの音はなんやろ。そんなん聞こえるはずないやん。そやけど地面のあの顔は…。



「その石、見たい?」
「あんたそれ家にもって帰ってきたん?」
「うん。『石』やからかまへんの」
 わたしは葉子にその石を見せてもらうことにした。
 石は葉子の部屋の机に、白い紙に載せておいてあった。
「石をのけた時の表情が忘れられへんから同じように置いてみたんやけど…」
わたしはその石をじっと見つめ、そして葉子の顔を見た。
「とってええ?」
「ええよ」
 わたしは拳ぐらいの石をそっと握り、まっすぐあげた。白い紙が石の重みで微かにへこんでいて、それがふわりと戻ろうとした。
「うーん、顔はわからへんね。そやけど土の中で400年近く埋められてたんやから、その圧力ってすごいやん。ほんの微かな『皺』でもそういう具合に、写し取られ…」
「どないしたん?」
「うん、こきん、て音が聞こえたような気がする」
「え、お母さんにも聞こえるんや」
「葉子、大事にしたげよ、この石、たぶんお地蔵さんやったんえ。それと、こきん、ていうのはきっとお地蔵さんの…痛い、いう声やわ」


 明日はふたりで紙屋さんへいく。重さに敏感で丈夫な和紙を探しにいくのだ。飾り棚の上に小さな座布団を敷き、その上に和紙、さらにその上に石を置くことにした。二人で一種の押し絵を作ることにしたのだ。ただ石の重さを紙が受け続ける、いつできるかわからない押し絵。どうしても地下での一瞬が忘れられないと言う葉子の提案でそうした。
何 かが写っていればいいし、写ってなくてもかまわない。それよりもこんど石を持ち上げる時、その時にはもう「こきん」と聞こえなくなるほど鎮まっていてくれれば。
 そう思っている。                     (了)


●発掘されたお地蔵さんのの一つ。現在は京都市洛西ニュータウンの竹林公園にあります


(順次公開していきます。)



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