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葉子、と。

お祭りの日に


 雨上がりの御池通を亨と風呂敷包みを抱えた葉子が並んで歩いていた。
 すると、まだ少し濡れているアスファルトの上で何かが輝いている。
「亨さん、あれなんやろ」
 二人はそっと近づいて行きました。
「黄金虫」と、亨。
 二人の視線が鈍く光を反射している背中で結ばれた瞬間、黄金虫が飛び立った。
 風が一陣、後を追っていく。

「気持ちのいい風やね。町もとても静か」
「平日の昼間は会社やお店があるからまあまあ賑やかやけど夜はもっと静かや思うよ。この辺も人口が減ってるから町も静かなんや」
「そうなん」
「親父なんてもう小学校も中学校も『出身校』があれへん。竹間小学校、初音中学校、両方ともあれへん」

 その日、亨と葉子は実家によばれて出かけてきた。建具、指物職人の父と母、二人が待っている。

 お祭りの日には家族のみんなでご馳走を囲んで「お祝い」をすること。
 子供たちが独り立ちしても、その日だけは実家にが集まって「お祝い」をすること。
 その「お祭り」というのが地蔵盆であれ、秋祭りであれ、祇園祭であれ、そうするのが花村家のずっと昔からの習わしであり、この町のほとんどの家でもそうだった。
 花村家は寺町二条にある。祇園祭の鉾町ではないし、山鉾巡行の通りからもずれているけれど、毎年、七月二十四日には祇園祭の「後の祭り」にあわせて「お祝い」をするのだった。


 祇園祭と言えば七月十六日の山鉾巡行とその前夜の宵山がクライマックスだ。だからといってその日以外が、ただ巡行を目指す準備のためだけに費やされているわけではない。祇園祭は七月の一月間を費やしてさまざまな行事や祭りが続いていくのだった。通称「後の祭り」は正式には還幸祭という。

 小さな門を潜り玄関に向かうまでの小さな庭に樫の木があった。亨が小さい頃よく登ったという樹。葉子には少し繁りすぎているように思える。おかげで庭全体がうすい陰に包まれているようだ。その陰の中に木槿(ムクゲ)があって目が覚めるような白い花を咲かせていた。足下には飛び石。その周りでは苔がしっとりと濡れていた。 

「ただいま」と、亨。少し遅れて「こんにちわ」と、葉子。
「はいはいはいはい」と奥の方から声がして、お母さんが出てきた。
「葉子さん元気にしてたん?」
「はい」
「母さん、樫の木、剪定せなあかんね」と、亨。
「そやねえぼちぼちせなあかんねえ」
「おかえり」父も出てきました。
「まあゆっくりしてき」
「ありがとうございます」

 葉子と亨は居間にすすみました。磨き込まれた四角い座敷机の上に、二段弁当が並べられ、コップとお猪口がそれぞれにつけてあります。箸の色は黒、朱、紺、赤。

「義母さん、これを」
 葉子がぺたんと膝をそろえて正座し、風呂敷から包みをだしました。
「いやあそんな気いつかわんでええのにい」
 そういいながら包みを受け取ると
「あ、おとうさん喜ばはる」
 義父は酒を必ず熱燗で飲みます。燗にあう伏見のお酒を葉子は持ってきたのだった。

 さて四人勢揃い。
「さ、いただこか」
「おめでとうさん」
 みんなで声をかけて食べ始めた。この季節の京料理には欠かせない鱧ももちろんついている。そしてこの部屋には木槿の白い花が一輪挿しに生けてあった。
「木槿の白が涼しげでいいですねえ」と葉子。
「木槿はちょうど祇園祭の時分に咲き出すよね」
「な、すずやかやろ」


 お燗を持ってきた母は父にお酒をつぎ、その浮いた腰のまますっと立ち上がり居間の隅にゆくと、立てかけてあった紙袋を葉子に渡しました。
「これ、葉子ちゃんに。ちょっとつっかけるのにええかなとおもて」
「わあなんでしょ」
 葉子が紙袋から取り出した箱には赤い鼻緒の下駄がはいっていました。
「底が加工してあってちょっとサンダルっぽいでしょ」
「わあうれしいです。ありがとうございます」

 袋から出したもう一つの包みからは長刀鉾の「ちまき」が入っていた。祇園祭の時にそれぞれの鉾や山が用意する「ちまき」は一年間の災難を除けるために玄関の上に貼り付けるものだ。「蘇民将来乃孫也」という小さな紙札が結わえ付けてある。
「それを最近は玄関の内側につける人が多いんや」と父。
「これは外やよね」
「そおや。そやないと悪鬼が外から入ろうとしたとき『あ、この家は蘇民の子孫の家やからやめとこ』てわからへんやろ」
「なんで内側に張るんかな」
「最近はええ加減なこというんがおるんや。せっかくの災厄除けやのに」

「後の祭り」では鉾ではなく御神輿が四条寺町から八坂神社へ還っていきます。葉子は義母から二人で見に行こ、と誘われました。
「あの下駄で行こうかなあ」
「あ、葉子ちゃんそれええわ。あとでちょっと支度するね」

「どおなん仕事は」亨が父に酒をつぎながら話を振ります。
「ま、なんとか、な。文化財の修復が続くけど。おまえはどうなんや」
「ぼちぼち」

 亨は建具・指物職人の跡を継がなかった。建具といっても文化財の修復がほとんどなのだけれど、父は本当に好きな人間でないとこの仕事はできない、という考えを持っていたから、ゆくゆくは今、働いてもらっている若い子に継いでもらおうと考えている。
 そもそも京都のあらゆる「職人仕事」は分業が徹底していて、細かな作業の一つ一つがそれを担う職人の自宅や工房で行われることが多く、父はそれをまとめ、調整し、指示を出す「仕事」が主になっていた。もちろん現場で直接作業することも時々はあったけれど、現場は若い職人に任せることがほとんどなのだ。
 もちろん亨に継ぐ気があるか尋ねたことはある。しかし、何かを逡巡し言葉が出なかった亨に対して「うん、ええねやそれで」という一言で父は話を打ち切ったのたった。
 それっきり父は跡を継ぐ話を一切しなくなった。


 亨にしてみれば、父に対して言葉を切り出そうとしたときに、様々な思いが絡み合ってついに口を開くことができなかった。
 帳面とそろばんを前にしている時の母の厳しい顔。いつでも高齢の職人たちの生活を常におもんぱかり思案していた父と母。そんな姿を子供の頃からずっと見てきた。そして、さらに先細りしていく仕事の受注。伝統工芸の仕事の大切さはわかるけれど自分自身を持ちこたえることができるかどうか。
 そんなふうに揺れていること自体で「あかん」と父に判断されたのだ、と亨は思っていた。また「この仕事で飯を食う」と考えたとき、前のめりで仕事にくらいついているような若い子に俺は負けている、とも。


「ふうんそおか」
 父はお猪口を口に運び、亨はビールをくびっ。
「祇園祭はどおなんやろ。運営やら維持とか大変やろね」
「ああ町によって大変らしい。解体した鉾を格納する場所とか、な。そやけど大船鉾が復活するかもしれへんて聞いたな」
「船鉾ってもうあるやん」
「昔もう一つ大船鉾ゆうのがあったらしい。その復活に取り組む人がでてきたわけや」
「ふーん…おもろいね」

 それから話題はサッカーワールドカップのことに。ちょっと酔ってきた父は、今回、韓国代表のキャプテンだった朴智星と日本代表の松井大輔が二人そろって所属していた頃の京都パープルサンガの事を語り出した。父がそこまでサッカーが好きだとは亨は知らなかった。
「あの二人がいた時の超攻撃型サッカーはもうサンガでは無理やろな。いっぺん天皇杯とったやろ。あの頃が最高やったなあ」
「Jリーグはもっと強くなるよ」
「強くならなあかんよな」
 父は亨の眼を見て言うのだった。


「わたしら御神輿見に行ってくるし」
 母が二人に声をかけました。
「いっといで。わしと亨は呑んでるから」
 葉子と義母は新京極から寺町へ回ることにした。
「もうそろそろ御旅所でるころや思うけど。ちょっとぶらぶらしよ」
「はい」

 二人の下駄の音が玄関から通りへと流れていった。 

家の中が、しんとした。
「亨、燗してくれるか」
「うん」
「おまえもどうや」
「うん呑む」
                           (了)



夕立兄弟会社


「こんにちわあ」
 大宅家の庭で葉子はその男と初めて会った。大宅さんも初めてのようだったけれど、男はまるで何年も前から大宅さんを知っているかのように垣根の隙間から屈託のない声をかけてきた。
「どうですか、今年のゴーヤ、うまくいったはります?」
「いやあ、今ちょうどその話してたところなねん。なかなか実がつかへんなあいうて…って、えーっと?お宅は?」
 やっぱり初対面だった。
「いやいやこれは申し遅れました」
 そう言いながら男は垣根からのぞかせた顔をひっこめると、門から庭へ入ってきた。この暑いのに、白いボタンダウンにチャコールグレイのスーツ、銀と紺のレジメンタルタイ、そして何故か黒い長靴という出で立ち。頭は短く刈り込まれていて、彫りの深い顔は褐色に日焼けしていた。大きな眼をきらきらさせながら名刺を大宅さんと葉子に差し出す。

「ん?夕立兄弟会社?」
「はい」
「なにしてはりますのん?保険?新聞?そんなんやったらまにおうてんねんけど」


「いやいやいやいや違うんですう。『夕立』て書いてますやんか」
「なにこれ『ゆうだち』て読むの。おもろい会社の名前やねえ。そやから何の用ですのん」
「いやですから夕立のセールスにうかがっているわけです。ほら、そのゴーヤも、あちらのトマトも全部萎れてしまって。日が傾きだしたら水やりせなあきませんやんか。ね。それがですね、契約して頂きましたら週に三日は夕方に必ず雨を降らせて差し上げる、ということになっておりまして」
「いやあ暑い暑いゆうてたら、えらいこといわはるお方が現れました」
 大宅さんは白地に紺の朝顔がプリントされたサンドレスを着ていたのだけれど、いつのまにか右手が裾の「朝顔」をひとつ握りつぶしている。そして葉子を見て何ともいえない顔をしたのだった。
 …どないするこの人…と、いう眼です。
 …おもろそうやん、もうちょっと聞いてみよ…
 葉子はいたずらっぽい眼を返した。

「ははあ、夕立をねえ…。降らさはる。ほほお。おもろいこといわはるねえ」
「はいー。特に家庭菜園をなさっておられる奥様方には是非に、とおすすめして回っているんですう」
「はあ、そらけっこうなことやけれど、ねえねえ、どないして降らさはりますの」
 男は心外だ、と言う顔を一瞬しましたが、また熱のこもった眼を大宅さんにむけて、「当社の実績は100パーセントです」と、言い切った。

「そこは信じていただくしか…はい」
「じゃあちょいちょい降る夕立は…」
「あれはこの地区の別のお客様のリクエストでしてですね。残念ながら個別のお宅だけ、というわけにはできないのです」
 これはおもしろいことになってきた、と葉子は思った。
「ほら最近、ゲリラ豪雨とかあるやんか。あんなんどないすんの、ものすごく迷惑やんか」
 男の眉間に皺が寄り、険しい目つきになった。
「最近ですね、無法業者がおりましてですね、契約を守らんと、一月の分をいっぺんに降らしたりしおるんですわ。僕らも困ってるんです。そんなこともありましてこうやって回らせてもらってるんです」
「ええ??雨の会社て他にもあるん?」
「はいございます。冬だけ営業している北山時雨興業とか。うちは9月の末までですねんけど」
 このあたりから大宅さんの口が開いたままになった。
「『きたやましぐれこうぎょう!!!!』ははーっ。たまげた」
「ねえねえ、わかったから、その契約って教えてよ」と、葉子。完全に面白がっている。
「ありがとうごさいますっ」
 男はアタッシュケースからA4の紙を取り出しました。水に濡れたフタバアオイの画の上に白いインクで商品名が印刷されている。
「えっとですね、強さのランクが三段階あります。マイルド、ミディアム、ストロング。ま、言いましても夕立ちですからそこそこ強いんですが。それと長さが15分、30分、45分とあります」

「一時間はないのん」
「はあもうそうなりますと『本降り』にちかいもので…はい」
「ほなミディアムで30分!!」
 大宅さんがやけくそのように言った。
「おおきにい、ありがとうございます。ほな早速、今夕5時から始めさせて頂きますんで。おおきにい。お手間とらせましたあ。失礼しまあす」
「あれあれ料金とか契約書とか…」
 そう言う葉子の腕を大宅さんがぐいっと押しとどめた。
「は?何か?」と、男が振り返ります。
「いやなにも」
「ほなお楽しみにい」
「頼んだでえ」

 男はあっという間に立ち去った。大宅さんは名刺をじっと見つめている。
「はははは。どこぞの困った人かいな思たけど、あんな眼で見つめられると説得力あったね。まじめやし、真剣やし。きらきらしてたね。ついついひきこまれてしもた」
「わたし、ほんまに降る気がしてきました」
「ふふ、そやったらおもろいけど」
 大宅さんが携帯で時間を見ました。
「一時間後やね」
「あれ山科方面担当てなってる」
 葉子が名刺を見ながらそう言いました。
「ほんまや。山科方面担当 桃山四郎やて」
「あ、おもしろい。大宅さん、裏見て」
「どれどれ。北山方面担当 丹波太郎、左京区方面担当 比叡三郎、伏見方面担当 山城次郎。兄弟みんな名字が違うんやね」
「長男が太郎でしょ。あとは分家とちがいます?」
「そうかあ。ということは桃山四郎は末っ子で範囲も狭いから今日はお兄さんの手伝いにきたんやね」
「たぶん。ゲリラ豪雨も多いことやし」
「なーんちゃってね。私らなにを話してんねやろ。ま、楽しませてもろたけど」

 二人は笑いながら、それぞれの家に戻った。

 午後五時過ぎ、葉子がベランダから路地を見つめていると夕立が降った。植物たちが息を吹き返すように緑をてらてらと輝かせている。葉子は今日見た男の眼の輝きに似ている気がしたのだった。はす向かいから大宅さんが傘を差して出てきた。首をすくめて手を振っている。

「きちんとした夕立やねえ」
「ほんまにねえ」

                          (了)


●京都では昔から夏の夕立を降らせる入道雲(積乱雲)に名前が付いています。
北西方向が丹波太郎、東南方面が山城次郎、北東方面が比叡三郎。
 京都府立桃山高校地学部のみなさんが山科盆地に夕立を降らせる入道雲を研究し、その存在をつきとめ桃山四郎と命名しました。
この研究は日本学生科学賞で最優秀読売賞を受賞しています。
 

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