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なぜ演劇にこだわるのか

舞台芸術に関わっていきたいと思い、
演劇の演出部から離れたのに、舞台の世界に戻ってきた。

「舞台芸術に関わっていきたい」違いない。そう思っている。
だけれど、演劇を贔屓している。
演劇はすごいとやはり思っている。

それはなぜかなと考えた。

2年前の春に世界が変わった。
隠したい、隠したくない。
変わりたくない、変わらざるを得ない。
大事にしたい、大事にできるのか。

私は私の信じることに、真っ直ぐに生きてきた。
真っ直ぐに生きたいと思って、真っ直ぐを見てきた。

だけれど、あの時から、自分の中に正反対の感情が同時に存在するようになった。
どっちかに振り切れない。
すごく心地よくないし、すごく疲れる。

だけれど、どうしようもない。
正反対の感情たちと一緒に生きていくしかない。と思った。
自分を守るために。

張り切ったら、どちらかの自分を殺すことになる。
どちらの自分も偽物じゃない。生かしたいと思った。

演劇っていうのは、芝居っていうのは、
役者が、役者本人でない人間の人生を生きることだと思っています。
役者は自分の人生で経験をしたことのない出来事を、戯曲の中の記憶を通して、もう一つの人生を生きることができる職業。

共有したい。私だけしか感じたことのないこの感情は、本当に私だけのものなのか確認したい。
私は、常にそう思っている。

自分で演劇を作った時も、私が感じる不快や不可思議について、誰かもきっと感じていると思って、その普段は気にしていない意識のところにある感情を、知って欲しい。みたいなことを考えていた気がする。

2年前の春から夏。
演劇の演出部を続けていて、私は演劇を続けるのが怖くなった。
登場人物の生きている世界が自分にリンクしすぎたから。
作り物なのに、フィクションで存在しないのに、自分の問題として、自分のことを語られているような気分になって、耐えられなくなった。

芝居には、演劇にはその力がある。
他人事と割り切れない、違う世界とは思えない、生きている人がいるということ。

生き物は熱量を発して生きている。
感情が昂ぶると体温が上がったりする。
演劇はその熱量を、目の前で起こる体験で感じることができる。
その熱量を持って思い出してしまう。

とても危ないことだけれど、時には救いになる。
自分のことをわかってくれる人がいると、自分のことがわかると、生きやすくなる時がある。
それを求めて、私は演劇のことを信じたいと思っている気がする。

嘘でも、上演中は、確かに感情が動き行動している役者が目の前にいる。
嘘でも嘘じゃない。
信頼できると思う。

私はその体験を大切にしたい。
自分の記憶や感情は、自分だけのものであるけど、自分以外にも考えつくし、自分だけだと抱え込む必要はない。
仕舞い込んでいたものが、湧き出したり絞り出されたり押し出されたりして、出てきてしまったら、戸惑うけれど、自分を知ることは悪ではない。毒になることはあるかもしれないけれど。忘れて救われていたものを思い出して苦しむかもしれないけど。

嘘なのに、嘘じゃない世界に干渉する、演劇という存在が
すごく尊い。
自分を苦しめて、人生を楽しんでいるようなところはあるけれど、
毒にもなるし、薬にもなる、不思議な演劇というものを、
私は贔屓してしまう。

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