りかひ

大阪で生まれ大阪で育ち、京都で学び、東京で今生きている人です。舞台を仕事とし生活をして…

りかひ

大阪で生まれ大阪で育ち、京都で学び、東京で今生きている人です。舞台を仕事とし生活をしています。なぜ演劇が自分にとって必要かをいつも考えています。

最近の記事

31音の演劇

木下龍也「オールアラウンドユー」短歌集を読みながら、私にとって短歌は演劇のいいとこ取りだと思っていることを思い出す。 私は演劇上演観る時、語られる物語を真剣に見つめていることは少なく、演劇で写し出された瞬間に共感できるかを眺めている。 あれは私かもしれない。 何かを選ばなかった私かもしれないし、選んだ私かもしれないと思わされることが演劇にはあって、 自分のいくつかに分岐した人生の中の一つの可能性を見る。 確かに感じたことのある感情がいつぶりかに湧き上がってくることもある

    • 戯曲の面白さと演出の面白さは違う

      上演演劇において、 戯曲、本が面白ければあとは技術の問題で、ほとんどの上演は成功するように思う。 演出とは、「深度」を調節し上演を成功の先の面白みにつなげていくための仕事なのではないか。 私は写真を撮ることを趣味としているのだけれど、 写真を撮る工程として、 どこ(なに)を被写体として撮るのか。 どこから撮るのか。 被写体だけを撮るのか、被写体とその環境も含めて撮るのか。 大雑把にはこの3つの選択をカメラのボディにレンズを取り付ける前に行う。 そのあと、一瞬を捉えるた

      • 私にとっての演劇

        何を求めて演劇を観るのかは、それはそうとして。 また別に「私にとっての演劇」という思いがある。私が過ごしたい時間と空間のこと。 演劇の観客になりたい人は、会場となる空間に足を運び、上演時間とその前後自分の五感と思考以外をそこに預ける。 時代が時代なのでオンライン配信やオンラインで作品が完成する作品もあるけれど、あえて私はそれを演劇とは呼ばない。 演劇は、現実をすぐ近くに置いたまま上演を見る。演劇には限界がある。会場は大抵借物だし決まりがある。空間にも時間に限りがある。

        • 何を求めて演劇を観るのか

          初めて演劇に触れてからもう10年以上も経ってしまった。 始めた頃は何もかもが格好いいなと思っていた。 大きな声で台詞を発するのも格好いいし、 照明にあたる役者も格好いいし、 大きな音は格好いいし、 何もない舞台も、何かがある舞台も格好いいし、 公演に向けて練習することも格好いいし、 カーテンコールも輝いていて格好良かった。 今も、格好いいなと思っている。 けれど、格好いいだけじゃないなとも思っている。 物語の面白さだけじゃ、 役者の器用さだけじゃ、 劇場の豪華さだけじゃ

        31音の演劇

          Szégyen a futás, de hasznos.

          ついに舞台監督になりたいと言わなくなってしまった。 高校生の時から憧れた「舞台監督」 高校演劇部の頃から舞台監督という役を担うことは沢山あったけれど 私はずっと舞台監督になりたいと思い続けていた。 舞台監督の役は、やりたいと言えば小さな公演だといくらでもさせてもらえる。 公演を打つにあたって大変な役だってみんなみんな知ってるから、いつだってやってくれる人を探しているのだ。 高校生から大学卒業するまでの7年間、20から30回舞台監督の役についていたけれど、 それでも「舞台

          Szégyen a futás, de hasznos.

          なぜ演劇にこだわるのか

          舞台芸術に関わっていきたいと思い、 演劇の演出部から離れたのに、舞台の世界に戻ってきた。 「舞台芸術に関わっていきたい」違いない。そう思っている。 だけれど、演劇を贔屓している。 演劇はすごいとやはり思っている。 それはなぜかなと考えた。 2年前の春に世界が変わった。 隠したい、隠したくない。 変わりたくない、変わらざるを得ない。 大事にしたい、大事にできるのか。 私は私の信じることに、真っ直ぐに生きてきた。 真っ直ぐに生きたいと思って、真っ直ぐを見てきた。 だけれ

          なぜ演劇にこだわるのか

          許すことと認めること

          「許す」ことが難しい時がある、事柄がある。 どうしても許せない、許してはいけないようなこと。 だけれど、別にそれを嫌いになったわけでもない。 優しくしてあげてもいいんじゃないかとさえ、思ってしまったり。 その自分を「許せない」と感じることもある。 そういうときすべきことは、 相手を「認める」ことなんじゃないかと思う。 その自分を「許す」ことなんじゃないかと思う。 「許す」ことと、「認める」ことは別物。 感情的に許せないけれど、 事実として「わかったよ」と、認める。 そ

          許すことと認めること

          生活と演劇のこと

          何に対しても、なにか自分の生活の中で中心になることがあったら 沼にハマった、というようなことを言う。 それを中心に生活をして、人生を歩いて行ったりする。 演劇についても、沼にハマった、と表現することがある。 日本の演劇のは、それこそ沼や泥というイメージが強い。 汗臭く、地に這いつくばって、光を求めて、もがいているような、そんな集合体のようなイメージ。 俳優についても、映像に出て、いつでも沢山の人に見てもらえる媒体になってからが 陽の目を浴びた、なんて言われたりする

          生活と演劇のこと