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少々難あり

その人の部屋に行ったとき、玄関に「少々難あり」のシールが張られたプラスチックケースが目に入り、それがいくつか並んでいるのに「?」と思った。何故、こんなシールが貼ってあるのかと聞くと、「それって、ほぼ完ぺきってことじゃん」とその人軽く言った。初めて、そんな思考があると知った。考えるってこういうことか、と思わざるを得ない「ほぼ完璧」。理屈に合いすぎて、忘れられない。

「少々難あり」の表示があれば、難があると思うから、手を出さない人の心理。でも裏を返せば、少々「しか」難はないという、そこになかなか気が付かないものだ。そして、「しか」であれば、80%以上は難はないだろうと踏む。そうすれば、その「少々」によっては、ほぼ「完璧」になる。

そんなことばかり、言う人がいた。言葉のとらえ方が、変わっている。ハードルを越えるのではく、ハードルをくぐり抜ける。思考が異様なほどに、明るい。なんというか、火をもくぐり抜けるような不思議な抜け方をする。落ち込んだと思ったら、数十分で解決方法を見つけるなどと、深刻な話もその人にかかると、なんだか魔法が解けたかのように、きれいに説明がついた。

捉え方次第で、どうにでもなることがある、と教えられたのは、その「少々難あり」だった。嘘じゃないかと思っていた。その「自分の考え方を変える」だとか、そういうものは、意味がないと思っていた。でも、実はそんなことはない。考え方というよりも、同じものを違う角度から見ればいいのだ。それだけで、視界が断然明るくなるなら、同じ現実を違う角度で見ればいい。

その人は、無理なんじゃないか、こんなの、というようなことを何故か率先して実践し、私を巻き込み、同じことを要求した。仕方ないので、嘘だろうとどこかで思いながらも、一緒に実践した。「毎日、一歩あるくごとに自分は良くなってると言う」だの、「希望を書き出して寝る前に書く」だのと、それがいつか実現するのだという話をし、しかし実際に、何も変わらない私がいた。

今思うと、スピリチュアルの走りだったのかもしれない。自分を変えるとか、未来をどうこうするとか。それも、信じれば悪くはない。ただ、私はそんなに続くタイプではないので、あっさりと抜け去った。なんというか、ただ良くなるからという理由で、動くのは苦手だ。何もないのに、自分を変える必要性がないだろう。

良くなることが、いいのか。それは正直、わからない。意味もなく、「良さ」を求めるのも、なんだか腑に落ちないのだ。唯一、言えるのは、本当に変化しなきゃいけないとき、人は変わったりせねばならない。結果的に良くなったりもする。その反対もあるだろう。どちらかというと、体験し、その後に知るタイプなのだ自分は、と気が付く。なので、先に言われることは、まず、腑に落ちない。

その少々難ありが腑に落ちたのは、その人が完璧主義だったからだろうと思う。あんまり完璧なその人が、その「難あり」を持っていることが不自然であった。そして、その「難あり」には完璧な理由があり、そこに私は納得した。

人間というのは、「少々難あり」くらいが、まあ丁度良い。どれくらいの「難」なのかはその人次第だが、完璧を目指す人にお勧めしたいのは、その「ほぼ完璧」な感じだ。そう、多少の難を気にしないくらいの気前の良さがあって欲しい。ただの希望だが。


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