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不思議な花かご

あるとき、それは母の誕生日がやってくる、2月のころ。誕生日には花束を。彼女にはいつもそうしてきた。花が好きな人だからだ。花をめでる。私はどちらかというと、緑をめでたが、彼女は花を咲かせ、花を見て喜ぶ。なので、この回も誕生日には花をといつものように考えた。

この回に考えたのは、花を、あのお店でという勝手ながらのコンセプトだった。誰かの誕生日は、自分の楽しみでもある理由は、贈るものを選ぶ自分が楽しいという個人的なものに尽きる。そこに、何人か、兄弟などを巻き込んで金額も少し大きくなる。うししと思いながら、みんなに「ここでお花を買います!」と知らせを送る。ラインにあの行きたくて仕方がないお花屋さんのHPをアップした。

そのお花屋さんというのは、一年以上前に知っている。とあるイベント店の方が教えてくれたお花屋さんだ。初めてそこに行ったとき、私は世の中にこんな丸い形をしたころんとしたバラが本当にあることを知った。それは本でしか見たことのない、異国の形であり、日本ではどんな花屋さんに入っても、その形には出会わなかった。が、そこで出会ってしまったが最後、いつか買わずにはいられず、しかしそのお値段の高いことにはなんとも身もだえするように、ときどきそのお花屋さんに出かけては、バラを眺めた。

その感動をなんとかお店のお姉さんに伝えたい。その一心で花を買う。そして声をかけるのだけれども、短い会話で終わり、私はまた、心の中でハンカチを握った。なぜだろう。この気持ちはわからない。が、そんなに頻繁に花を買えるほどの余裕はない。店に入り、その奥で籠を作るお姉さんを後ろに、店の中の不思議な空間にひっそりと酔いしれる。ここはいるだけで、なんて静かなのだろう。心が休まるのだろう。何かが冷えてゆくように。

やがて、時は来たれり。と、私は堂々とそのお店に電話をかけた。別にこそこそしてもいなかったけれど、花を眺める客から、ひと籠の花を注文する客になったのだ。値段を述べ(高価ではなく、また入れ物は安いのでいいと伝える)花の色や雰囲気を、細かに伝えた。去年、父が亡くなり、母のもとには多くの白を基調とした美しい花々が届いていたが、誕生日であるからには、やはり色の入った元気なものにしたい。その背景もお姉さんに伝えた。

「わかりました」の一言で、その注文が終わり、これでよかったのか、ふと考えた。思いっきり投げてしまった気がした。その人のセンスというものに。でも、そうしたかった。それはあの丸いバラを扱うお店だからだった。ただそれだけで。

二週間がたち、私は自転車でその花かごを約束の時間に取りに行く。兄弟から集めた3000円を懐に、店に入る。これで、何が手に入るのだろう。奥のお姉さんに「花かごを取りに来ました」と伝える。お姉さんは確認して、「はいこれですね」と袋に入った花のかごを棚から取り下ろした。袋に入っているので、中身が見えない。少しもどかしい。でも、とりあえず、お金をしっかりと払う。袋の中は、なんだか色がくっきりとして、鮮やかというよりも、少しくすんだ色の取り合わせだ。感想がうまく言えない。

「ありがとうございました」と言い、店を出る。もっと感想を言うべきではないのか。でも、それよりも中身を確認したい。もんもんと歩きながら、隣のお店の主人が「きれいですね」と声をかける。そうなのか。生ものなので、急いで自転車に乗る。走るときはとても丁寧に。段差に気を付ける。ゆっくり段差をスロープにしながら、自転車で実家にたどり着いた。もう夕方で妹は来ているはずだ。

家のドアを開け、部屋に入り、初めて私は袋を見せる。そこでコーヒーを淹れる母に、「誕生日おめでとう」と袋を持ち上げる。「まあ」母は何かしらというように(毎年なのだが)袋をのぞき、声をあげる。ここまでは想像通りだった。私は袋から花かごを出す。色が、いっぱいだ。すごくはっきりしたたくさんの色が、くっきりと、そこには個性とでもいうようなものが伺える一つの花かごがあった。

お花屋さんで花束を作ってもらうとき、個性を考えることはあまりない。きれいにバランスがいいとか、そういうようなものは考えた。色がいいとか、取り合わせ、組み合わせなどは大切だ。でも、その人だから、という発想はない。そう、この時点まではなかったのだ。母の喜ぶその花かごにはいろんな種類の花が埋め込まれていて、妹は珍しい花をスマホで調べる。私はただ、それをいろんな角度から写真に収めていた。値切ってしまったかごでさえ、雰囲気に合っていて、薄茶色のサテンのリボンがくるりと一周巻いてあり、置くとリボンのはしが流れるようにたれる。

誰よりも自分が喜ぶというバカなプレゼントだったかもしれない。自分の満足だったのだろうか。そんな気がしないでもなかった。何故なら、その花かごはお花屋さんの愛みたいなものが詰まっている。愛というか、こんなものを作りたいみたいなものが。それはすでに作品だった。

が、後に、母も、兄弟も、驚くようなことが起きる。実は花の中に球根のものがあった。ヒヤシンスをはじめ、チューリップなどいくつかは球根の花で、その花は時間が経つごとに育つのだ。開く。つぼみが何故か開きゆき、毎日きゅっと伸び上がるその花かごの勢いに母が気が付き、ラインにアップした。確かに最初に写真を撮った時より、育っている。ピンク色のヒヤシンスはきゅっとしたつぼみから爛漫の開花をとげていた。

花束は、渡した瞬間が一番いいときだと、私はずっとそう思ってきた。だから、いつも、長く持つ花を選んだ。ところが、時間が経つごとに育ってゆく花かごがある。それは驚きだった。いや、人生の中で結構な上位に入るくらいの発見だ。1週間後、お花屋さんにお礼と報告に行く。「花がどんどん咲いてきて」というと「球根のお花は伸びるんですよ」と教えてくれた。「ヒヤシンスと・・・」といくつか花の名前を言ってくれた。私は実は花の名前をそんなに知らない。

やがて、そのお花屋さんに入るとき、緊張しなくなった。自分で好きな花を眺め、買うときもあったし、買わずに見るだけで出る時もあった。お姉さんを気にしなくなったわりに、買うときには育て方を聞いた。春になれば、オリーブの木が鉢植えで並び、白いムスカリの球根を数百円で買った。とくにそこで買わなくても、どこでも緑を気に入れば、手にした。丸いバラだけはそこでたまに財布をはたく。

だが、あの奇跡のような花かごは、たぶん、忘れることがないだろう。日に日に、命を増してゆく、あの花かご。そして、枯れた後は、色をきれいに残したまま、ドライになっていった。母は不思議そうに、でも嬉しそうに、それをそのまま机の上に置いて「色がきれいなのよね」という。青いアジサイが青々と枯れている。生きているものは、いつか枯れる。だから、その時に楽しんだ方がいいものもある。花かごは教える。大地から離れても、伸びゆく命を持っているその細胞を忘れないでと。これは細胞の記憶である。

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