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俳諧連歌の試み

俳諧連歌の試み

連歌のあらまし

 連歌は、万葉集にもその事例が見られる古いもので、2人で長句(五七五)と短句(七七)を別々に詠み1首の短歌を作る形の、いわゆる単連歌(短連歌)からはじまり、これを更に繋げていく鎖連歌、三人以上の大人数で作る連衆(れんじゅ)へと発展していきました。鎖連歌は雅(みやび)を主題とし、漢語は使わずやまとことばだけで作り、貴族向けに鎌倉時代から流行します。江戸時代になると、滑稽を主題とし、漢語もOK、口語や方言もOK、という自由度が高い作りになった俳諧といわれる連歌が広く庶民も巻き込んで流行します。
 余談ですが、俳諧連歌は明治時代になると1904年に高浜虚子さんが提唱して連句と呼ばれる様になり、現在に至りますが、筆者はこれを採りません。同様に、1893年に正岡子規さんが名付け、現在俳句と呼ばれている文芸についても、筆者はこれを採る事はありません。それぞれ、
 ①漢詩にも聯句があり、紛らわしいので漢詩は聯句、和歌は俳諧連歌に統一した
 ②発句は連歌として後続を意識した作りだが俳句は連歌としての後続から切り離したもの
 という理由のためです 。

公家さんも武将さんも俳諧!

 俳諧連歌の種類と簡単な歴史について挙げておきます。

連歌と俳諧連歌の違い


 今まで述べてきた通りですが、筆者はだいたい以下の様に理解しています。

俳諧連歌に寄せる期待

 筆者は俳諧連歌で物語を書いてみたいと思っています。
 これは、本来の俳諧連歌とは真逆の方向性になります。しかし、それを承知の上で、筆者は詩型のひとつとして俳諧連歌を使ってみたいと思いるのです。筆者は連詩や叙事詩の形で物語詩を書いています。定型詩である事以外はこれといった成約はなく、途中で複数の押韵や定型を切り替えたりもしています。なので、俳諧連歌をそのうちのひとつの定型として使ってみようと思ったのです。連歌も俳諧蓮葉も一定のルールに基づいて限りなく内容を変転させていく事が目的だからです。叙事詩のように、一貫したストーリーを長々とつむぐ事は、相反する。以下、参考までに長詩としての叙事詩との比較を載せます。

俳諧連歌の使いどころ

 風景描画などで遠景から雑踏の人々の様子、場面を転じて他のあらすじの挿入などにはそのまま使えそうです。メインストーリーを紡いでいく作業は本来は俳諧連歌向きではありません。俳諧連歌は内容に変化がない事を嫌うからです。なので、そこは妥協して形式だけ模倣して内容は叙事詩の一部にもっていくしかありません。

俳諧連歌のルール

守りたい俳諧連歌のルール

 俳諧連歌には「式目(しきもく)」という一連の決め事があります。流派により違いも見られますが、全てを厳密に守って俳諧連歌を再現する事が目的ではないので本稿ではいくつかポイントを絞って採用する事にします。そもそも俳諧連歌と真逆の内容を作ろうとしているので。

出来れば意識する俳諧連歌のルール

 いちどに全部守るのは大変なので、最初は出来ればこれ位までは意識したい、というルールを挙げておきます。

発句、平句と俳句の違い

 連歌で延々と続く長句(五七五)と短句(七七)の中で、先頭の長句を発句(ほっく)といいますが、三番目に出てくる長句は第三、四番目以降に出てくる長句を平句(ひらく)といいます。この2つはいずれも句の形は五七五で見た目は同じに見えますが、以下に見る様に内容や役割には色々と違いがあります。一部既述の特徴も含めてまとめてみました。

俳諧連歌練習帳

詩作上の方針5つ

①先ず独吟でやります。これは絶対厳守です。
・俳諧連歌の両吟、三吟等の練習をしたい訳ではなく、創作が目的であるため
②次に句数の少ない式目から挑戦します。俳諧連歌の式目としてはかなり新しいソネットを入れたのは、自分が英語または現代語でソネットを作る事があるからです。
・少しずつ慣れるため
③数字、アルファベット、仮名名の打越はありとします。
・多言語で作る事を予定しているため
④龍、鬼、幽霊、恋などの語を使う箇所、回数に制限はなしとします。
・ストーリー的に頻出する可能性が高いため
⑤作成したものには必ず日付をつけて残す

※以上を何度も繰り返します。

それでは、はじめるといたしましょう。

試作の順序

 いちどに全部守るのは大変なので、最初は出来ればこれ位までは意識したい、というルールを挙げておきます。

第一の試み 単連歌

 最初の試みは、単連歌(短連歌)を作る事です。単連歌とは、五七五七七を長句五七五と短句七七に分けて作り、合わせて短歌一首とするものです。この時前句に後句を付けて一首とするのですが、五七五・七七だからといって常に前句が長句五七五、後句が短句七七とは限りません。短句に長句をつける事もあれば、長句に短句をつける場合もあります。
 単連歌では、前句と後句はどちらも単体として独立しており、しかも片割れと結合して一首としての面白みも持ち合わせる様な作り方をします。

附け方について

 句を附ける時には主に2つのポイントがあります。
  ①前句の何に着目するか
  ②それにどう返すか

第二の試み 三つ物(第三句附け)

 第二の試みは単連歌に第三句を附ける事です。第三句は発句、脇に続く序盤の締めであり変化の始まりでもある重要な句になります。単連歌で発句の内容を受けた後半の短句(脇)の内容をふまえつつ、この後の変転の出発点になるべく作るのが第三句です。
 発句+脇+第三 をあわせて三つ物といいます。ここでは芭蕉さん関連の俳諧連歌から最初の三句を三つ物として挙げておきます。なお、本来の連歌では無季の発句はあり得ないので四季のみの事例になっています。

第三の試み 前句附け

 第三の試みは前句附け、下の句七七をお題として与えてその前に来るべき句五七五を作ります。江戸時代に上方を中心に庶民の間で流行し、営利目的の興行が行われました。応募するには入花料を払わせ、用意した採点者に得点をつけて優秀作には褒美を与える、といったものです。また、その句集も販売されたので、これを読んで高得点を狙って学習する者も少なくなかったようです。当時はある興行の優秀作を一部焼き直しして別な興行に応募する、といった事もあったそうです。また、高得点を獲得した句を当てる博打も登場し、こうなると、俳諧の附句練習としての前句附とはいえず、射幸の一種になってしまったといえます。本稿ではあくまでも俳諧連歌の練習の一環として取り上げます。
 なお、この興行の点者(採点担当)のひとりとして活動していたのが柄井川柳で、その名の通り川柳の元祖です。現代でも「◯◯川柳」のようなものがありますが、前句附けの興行の遺伝子を引き継いでいるのかもしれません。

第四の試み 切句(きりく)

 第四の試みは切句、上五の句と中七+下五の句、もしくは上五+中七の句と下七の句に分けて発句を作るものです。

発句の条件

 何をもって発句とするかは、流派や時代により異なってきますが、ここでは参照先の資料に記載されている3ヶ条を成立条件とします。

①十七音
②切字を使っている
③季語を含む

 近現代の自由律俳句が好きな人にはくだらないこだわりに思えるかもしれませんが、筆
者は一定のルールの元で創造性を発揮するからこそ無才な身でも一応体裁の整った作品を
作る琴が出来る、と考えています。過剰なルールは締め付けといえますが、過剰な自由も
ただの無秩序でしかなく、作った本人以外に理解出来るものではありません。そういう作
品を作る人にはどうぞ自分ひとりで楽しんでいただきたい、と思う次第です。

第五の試み 笠附け

 第五の試みは上五の句と残り十二の句の間で付合い掛け合いを楽しむものです。時代が進むと切句と同じものとして扱われますが、発句を作る練習というよりも、元々意表を突く表現や滑稽、可笑しさを追求する傾向が強く、次第に発句からは遠ざかり、川柳的なものへと変貌していきました。

第六の試み 沓附け

 第六の試みは。上五の句と中七の句を固定して下五の句を補完して長句を作るものです。名前の通り、笠附けとは対になっています。作例を見ると、俳諧というより川柳の練習になっていて、必ずしも発句を作るという訳ではない様ですが、本稿ではあくまでも発句を前提として進めようと思います。

第七の試み 多読

 第六の試みは。とにかく沢山の作品を読んで言葉の使い方を知ろう、という事です。附けるとは、前句の何をどう理解し、そこにどんな言葉を照応させるのか、そのメカニズムを理解して実際に自分でもやってみる事がなければ俳諧連歌を自ら嗜んでいく事は出来ません。
 このため、句そのものの言語的理解に加えて前句の何に附けたのかを司会しながら読み進めるものとします。

資料編

連歌式目をまとめた男

 二条良基さん。平安時代後期から盛んになり、諸派が乱立して収拾がつかなくなってきていた連歌の在り方を式目という形でまとめた立役者が二条良基さんです。
 二条さんは北朝の応安五または南朝の建徳三~文中元(1372)年、「応安新式」(おうあんしんしき)と題する連歌書で式目をまとめ上げました。

二条良経さん
(1320~1388)
画像情報:
不明 - The Japanese book "摂家二條家墓基礎調査報告書", Dōshisha University Historical Museum, 2021, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4214309による

連歌の神様にされちゃった男

 菅原道真さん。平安時代に活躍した人で、学問の神様、天神様としても有名です。では連歌はどうかというと、ウィキペディアには和歌や漢詩の話題は出てきますが「連歌」は皆無です。連歌との関わりについて、筆者には調べても分かりませんでしたが、イベントとしての連歌の多くは神事や祈祷的性格を持ち、出来上がりを寺社に奉納したため。神様として担ぎ出すのに都合が良かったかもしれません。

菅原道真さん
(845~903)
画像情報:
菊池容斎 - Kikuchi Yosai, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=655563による

連歌で身を立てた男
 宗祇さん。室町~安土桃山時代に連歌師としてぶいぶい言わせたのが宗祇(そうぎ)さんです。連歌師としての名声を得たのは四十歳を過ぎてからでしたが当時一流の巨匠ともいえる人々に教えを受けめきめきと頭角をあらわしていきました。

宗祇さん
(1421~1502)
画像情報:
不明 - The Japanese book "Mōri Motonari: Special Exhibition (毛利元就展)", パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7730581による

秀吉さんに疑われた男

 里村紹巴さん。宗祇さんから更に百年後に登場したのが里村紹巴(さとむらじょうは)さんです。信長さん、光秀さん、秀吉さん等と交流があり、本能寺の変の直前に明智光秀さんが催した連歌会、愛宕百韻に出席したので謀反に加担した事が秀吉さんに疑われました。

里村紹巴さん
(1525~1602)
画像情報:
投稿者が作成 - 東京国立博物館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15707333による

本能寺の変を起こした男

 明智光秀さん。愛宕百韻として現在も残る連歌の発句「時は今 あめが下しる 五月哉」が謀反の決意を込めたものという説がありますが、筆者はこれは秀吉さんに関与を疑われた紹巴さんが苦し紛れに「雨が下しる(天下を支配する)」と述べた説を採っています。同様に、問題の発句は「雨が下なる(雨が降ってる)」説を採ります。

明智光秀さん
(1516~1582)
生没年異説あり
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投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 05:17, 14 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4214809による

俳諧連歌の祖と呼ばれた男

 荒木田守武さん。戦国時代の連歌師であるとともに伊勢神宮祠官でもありました。山崎宗鑑さんとともに俳諧の祖とも言われています。連歌は三条西実隆さんに師事し、宗祇さん、宗長さんと交流があり、新撰菟玖波集に句が載るなどしています。このほか教訓歌集「世中百首」が有名です。

荒木田守武さん
(1473~1549)
画像情報:
不明 - http://tct.murrieta.k12.ca.us/reading/grade8/ph9/haiku/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14733406による

俳諧連歌の祖と呼ばれた男

 山崎宗鑑さんは、戦国時代の連歌師で荒木田守武さんとともに俳諧の祖とも言われています。連歌は最初は宗祇さん、宗長さんと交流しましたが、貴族趣味な作風が合わず、もっと滑稽味のある作風を目指しました。俳諧は余興扱いで多くの連歌師からは嘲笑の対象でしたが彼は逆にこれを笑い飛ばして俳諧を立ち上げていきました。

山崎宗鑑さん
(1465~1554)
画像情報:
https://gashuu.hateblo.jp/entry/2022/12/22/145818