252回 九階のモスキート


夏は半袖Tシャツにインド綿のスカート、裸足にサンダル。
と言うわけにはいかない、我が家の夏。
なぜか。憎っくき敵の存在があるからである。
その名は、蚊。

林の中に家が建っているので、それはそれは蚊が多い。それも凶悪なヤブ蚊である。
ヤブ蚊はヒトスジシマカという種類の蚊で、日中30℃前後の気温で吸血をする。蚊に刺される場合一番多いのはこのヒトスジシマカで、刺された場所の痒みも一番だそうである。
家を建てた当初は、夏は玄関ポーチでスイカ食べ放題、ビール飲み放題などと楽観的に考えていたが、とんでもなかった。外に出た瞬間にやられる。スイカどころじゃない。ましてやビールなんぞを飲んで体温が上がったりしたら、奴らの思うツボだ。
どうしても外で飲んだり食べたりしたければ、蚊帳でも吊るしかないのだが、そうまでしなくても大人しく家の中で過ごしていたほうがいいので、結局楽しい夏の思い出はつくれずに今に至る。

世界で一番人間を殺している生き物はなんだかご存じだろうか。
そう、蚊なのである。
世界規模で流行している「三大感染症」は、多い順にマラリア、HIV、結核である。マラリアは言うまでもなく蚊によって媒介される。感染者は世界中で2億人を超え、いまだに毎年70万人近くが亡くなっている恐ろしい病気なのだ。
マラリアは、マラリア原虫を保有したハマダラカに吸血されることで原虫が人間の体内に入り込み、赤血球が破壊されることによって起こる病気である。4種類あるマラリアのうち、熱帯熱マラリアは重症化しやすく、診断や治療が遅れると命に関わる。治療薬もあるにはあるが、流行地である発展途上国に於いては、何よりもまず蚊に刺されないように予防することが大事なのだ。
日本では1940年代以降国内での発生は報告されていない。マラリアの流行地から帰国した人が発症する輸入マラリアは年間60例程度報告されているが、日本の医師は普段症例に接することがないため診断に至らず、治療が遅れる場合があるため注意が必要だ。
また地球温暖化に伴い、マラリア原虫を宿したハマダラカの生息地域が北上している。日本が亜熱帯になる日も近そうなので、今後は要注意である。

日本にはもとより、日本脳炎という蚊が媒介する恐ろしい感染症が存在する。
1935年の大流行の際に、初めて日本で病原体であるウイルスが分離されたが、その後も流行は繰り返しており、私の幼少期にはまだ年間1000人の患者が報告され、その2割が死亡していたという。日本脳炎を媒介するのは主にコガタアカイエカである。水田など水が多い場所で繁殖する小さめの蚊であるが、子供時代は親から口を酸っぱくして蚊に刺されないようにと言われたものだ。
日本脳炎は1954年に初めて、マウスの脳で増殖させたウイルスを用いた不活化ワクチンが製造された。それが一般に普及するのは、ワクチンの精製度が向上した1965年以降のことである。しかし開発当初より、ウイルス増殖基材であるマウスの脳に対するアレルギー反応や、動物愛護の点からも、不活化ワクチンは問題を孕んでいたため、1990年から培養細胞による新型ワクチンの開発が進められた。
まだ培養細胞ワクチンが開発途中であった2004年、マウス脳由来不活化ワクチンを接種した中学生が、その後重篤な急性散在性脳脊髄炎を発症した。ワクチン接種との因果関係が否定できないとされ、日本脳炎ワクチンはしばらくの間ワクチン接種勧奨から外されることとなる。
そして2009年と2011年相次いで2社から、培養細胞由来日本脳炎不活化ワクチンの販売が開始され、ワクチン接種が再開されたことにより、現在の20歳以下の日本人の抗体価は、高い水準を保っている。
日本脳炎は日本だけでなく、広くアジア諸国に蔓延する感染症である。ワクチン接種の推奨はもちろんのこと、ウイルスを媒介する蚊の駆除と蚊に刺されないことが、大事な予防につながるのは言うまでもない。

今では様々な蚊除け製品が発売されているが、その原点は蚊取り線香であろう。
蚊遣りブタと呼ばれるブタ型の蚊取り線香立ては、今では懐かしい景色になってしまったが、蚊取り線香自体はまだまだ現役だ。
平安時代から「蚊遣火」と言って、ヨモギや杉や松などの葉を火に焚べて、燻した煙で蚊を追い払うことは行われていた。蚊遣火は今でも夏の季語となっている。
蚊取り線香自体の歴史はそう古くない。蚊取り線香といえば除虫菊だが、この除虫菊と呼ばれるシロバナムシヨケギクは、そもそもセルビアで発見されたという地中海原産の植物である。花には殺虫成分のピレトリンが含まれており、古くから虫除けの効果があることが知られていた。
1886年に大日本除虫菊(のちの金鳥、現在のKINCHO)の創業者である上山英一郎が、アメリカ人H.E.アモアからシロバナムシヨケギクの種子を贈られ、それを元にあの渦巻型の蚊取り線香を発明した。一時は日本から世界中に輸出された蚊取り線香だったが、殺虫効果の高い合成ピレスロイドが開発されたことにより、産業としての除虫菊の栽培は日本では行われなくなった。
今売られている蚊取り線香の殆どは輸入品であり、合成ピレスロイドが配合されているため、ペットを飼われている家では注意が必要だ。ピレスロイドは哺乳類と鳥類には無害とされるが、爬虫類・両生類・魚類には猛毒である。また蚊取り線香そのものを大量に食べてしまった場合や、ピレスロイドにアレルギーを持っている場合は、犬や猫やもちろん人でも中毒症状を起こすので、気をつけるに越したことはない。

蚊は10m先から人間の呼気の二酸化炭素を感知し、3mから匂いを感知、そして1mで熱と色を感知して皮膚に止まる。平熱が高めだったり、アルコール摂取で体温が上がっていたりすると、刺されやすい。また服も白を着ているより黒を着ている方が、10倍も蚊に察知されやすいとのこと。
できるだけ肌を露出させず汗をかかず、白っぽい服を着て、イカリジンといった新しいタイプの虫除けを塗って、外に出なければならない。
やはりスイカは家の中で食べた方が良さそうだ。


登場した用語:駆除
→この連載の「219回」に登場した私の父親、牧野信司。彼は、東大医科学研究所所長の佐々学先生(ツツガムシ病やフィラリアなど蚊が媒介する病気を公衆衛生の観点から研究し多大な貢献をされた学者)と、殺虫剤を使用しない安全な蚊の駆除方法について共同研究を行った。タップミノー、別名カダヤシと呼ばれるメダカの一種を水田など水のある場所に放ってボウフラを食べてもらうという研究である。実際かなりの効果を治めた地方もあったのだが、結局即効性があり手軽な殺虫剤に席捲されてしまった。残念なことである。
今回のBGM:「Nevermind」by Nirvana
→リードシングルとしてリリースされた「Smells Like Teen Spirit」のサビに “mosquito“という単語が出てくる。グランジ/オルタナに染まった90年代の幕開けとなるロックのターニング・ポイント。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?