279回 推しも推されぬ


世の中、推し活が盛んである。
推し色、推し香水、果ては推し概念というものまである。
誰も彼もが誰かや何かを推しているわけではなかろうが、今や経済活動にまで多大な影響を与えているであろう、推しという存在。

「推し」という言葉が登場したのは、モーニング娘。やAKB48などといった大人数のアイドルが出てきた頃と言われている。
アイドルオタク、所謂ドルオタと呼ばれるファン達の間で、グループの中で自分が積極的に応援するメンバーを「推しメン」と言うようになったのが起源とか。好きなメンバーが変われば「推し変」、単体のメンバーではなくグループ全員のファンであれば「箱推し」などという言い方もある。
そもそも「推す」という動詞は「推薦」と言う言葉にも使われるように、「人物や事物をある身分や地位に相応しいものとして他に薦める」ことを意味する。この「ある身分や地位に相応しい」というのは、「候補者に推す」といった用法からもわかる。
現在の「推し」の使われ方からすると、これはどうとらえたらよいか。おそらくであるが、「ある身分や地位」と言うのは自分にとっての「一番」ということなのではあるまいか。つまり自分の「一推し」と言う意味で、この「推し」は使われているのだろう。
「一推し」ならば以前から馴染みのある言い方なので、そう考えれば理解できる。

ではこれまで使われてきた「ファン」や「マニア」という言い方とは、どうニュアンスが異なるのだろう。ここでは一時的に「推し」という言葉を「推しを推している人」の代わりに用いる。
私が思うに、マニア<ファン<推しの順に外部に向かう積極性が増している気がする。
マニアは言ってみれば自己完結しており、自分の世界の中で知識や物の収集に邁進する。その場合それを外に向かって開陳することはあっても、積極的に他者に対して薦めることはしない。マニア同士はライバル関係にあり、どちらかというと他のマニアに出し抜かれないよう秘密裡に行動したりする。マニアックという言葉が表すように、個人的で偏屈な印象が強い。
ファンというのはもう少し開かれており、マニアより緩やかで自由度が高い。ファン同士の交流もあり、ファンが組織化されることも多い。情報交換も盛んであるが、それはファンの中でのことであって、外部に向かって積極的に発信するかと言えばそれ程ではない。ただファナティックというような熱狂的な状態にもなる可能性はあるので、ファンもときに暴走する可能性はある。
推しは最初からアグレッシヴである。なんといっても「薦める」のだ。外部に対してとても開かれている。そして「推し活」というように、自ら積極的に動く。なんと言っても「ファン」や「マニア」は対象ではなく自分のことを指すのに対して、「推し」は対象そのものを指す言葉なのである。「私」の存在を定義するのではなく、相手を定義する言葉なのだ、「推し」というのは。

ここでひとつ引っかかるのは、「推す」の意味の「~に相応しいものとして」という部分だ。
これはちょっと別な角度から見ると、自分を一段高いところに置いて上から目線で言っているようにも思えてしまう。私が「推し」という言葉を使うことを躊躇う理由はここにある。これは個人的な感覚ではあるのだが、なんとなく偉そうに思えてしょうがないのだ。
ファンという場合、相手を一段上に置いて見上げているようなイメージ、マニアなら相手はそもそも人ではなく事物の場合が多いだろうから、上も下もない。
どうして「推し」が上記のような印象になるのかは、単に言葉の意味だけの問題ではないだろう。アイドルの現場からこの言い方が生まれてきたと書いたが、そのアイドル自体それ以前のアイドルとは異なるものであった。それまでのアイドルは既に完成品として提示されていたが、グループアイドルが出てきた頃から、ファンが応援することによってアイドルの地位が上がる(ファン投票でセンターが決まるなど)というように、ファンの存在感が格段に増した。
自分が相手を積極的に「推す」ことによって、相手の地位も上がっていく。これはやり甲斐があるので、夢中になる。「推し活」には経済的な側面も大きく、CDやグッズやチェキの売り上げにどれだけ貢献できるかが大きな意味を持つようになった。
外部の人に薦めることを「布教活動」、グッズなどを購入することを「お布施」と言ったりするのは「ファン」であってもよく聞かれたが、このような宗教的な比喩は「推し活」には似合わない。なぜなら神と信者のように絶対的な上下関係ではなく、「推し」と自分は対等か極端に言えば自分の方が上位だったりするからだ。
前のパラグラフで書いたように、「推し」は自分を定義しない。対象を定義する。そして定義する主体は自分だ。ここにはとても意識的に対象に向かう強い意志を感じる。

相撲の世界には「タニマチ」というものがあるのを、聞いたことがあるだろう。相撲だけでなく、歌舞伎や芸事でもこの言葉を使う。端的に言えばパトロンのようなものだ。
「タニマチ」の由来としては、明治時代大阪の谷町付近には相撲部屋が多く、そこにお金のない若い力士の面倒を見たり治療を無償でやってあげた医者がいたからという説が有名である。実際はその人だけでなく、いろんな方面から力士達を支援する人たちがいたとのことであるが、この谷町という地名が語源というのは本当らしい。
「タニマチ」は無償のスポンサーである。公私に渡って相手を支え盛り上げる。それには莫大な財力が必要となることは簡単に予想がつくだろう。実際に有名なタニマチとして大企業の会長の名前が上がるのは当然だ。しかし昨今はだいぶそういった大盤振る舞いができるタニマチは減ったようで、日本相撲協会が公式アプリで月額500円の「タニマチ会員」を募集しているというのは、なんとも複雑な気分である。
「贔屓」という言葉もあり、「ご贔屓」などとして使われる。「贔」は貝(財貨)が3つで重い荷を背負うことを意味し、「屓」は鼻息を荒くすることである。読み方は「ひき」が長音化して「ひいき」になった。ここから転じて、特定の人を力を込め鼻息を荒くして引き立てるという意味になったという。
これは「推し」にかなり近いニュアンスと思われる。ただ贔屓というと依怙贔屓(えこひいき)というマイナスイメージがどうしても浮かんでしまうため、やはり「推し」には敵わない。

誰かを「推す」ことは、仕事に対する活力になり明日への希望ともなり得る。身の丈に合った「推し活」は、生活を彩り世界を広げる糸口にもなる。
しかし度を越してしまった場合、それは一種の依存と言ってもいい病的な状態となる。このところ問題となっているホスト依存・ホス狂などはその典型的な例だ。
自分が主体となって「推し」ているはずが、いつの間にか対象に隷属してしまっている。本末転倒になってはいけない。

楽しみでやっていることが苦行となっていないか。
他山の石としたいと思う。


登場した用語:パトロン
→「父」という意味のラテン語「pater」から、「客に利益を与えるもの」という意味の「patronus」が派生。古代ローマには、地位の高いものが低いものに対して私的な庇護関係を結ぶシステムがあり、保護者的役割のパトロヌスは経済的・法的・政治的援助によって、被保護者的役割のクリエンテスを支援した。両者の関係が親子を思わせることからこの言葉ができたという。この「patronus」が英語で「patron」になった。因みに女性形は「patroness」、援助する行為は「patronage」という。
今回のBGM:オペラ「魔弾の射手」 カルル・マリア・フォン・ウェーバー作曲 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮/ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
→ウェーバーはドイツ・オペラを確立した作曲家と言われている。オペラといえばイタリアだった時代に、ドイツ人によるドイツ語のドイツを舞台にしたこのオペラを書き上げ大人気となった。ウェーバーは美声の持ち主であったが、硫酸をワインと間違えて飲んで声を失ったそうだ。それ、普通間違えないだろう。ウェーバーに影響を受けてドイツ・オペラを発展させたワーグナーにルードヴィヒⅡ世という弩級のパトロンがついていたのと比べ、ウェーバーはパトロン無しで頑張ったが、わずか39歳で結核のため亡くなってしまった。


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