第41回 逢ふ事の片糸なれば白玉の


いまでは一年中かき氷が食べられるところも多い。台湾風のふわふわのかき氷もだいぶポピュラーになった。以前は冷やし中華と同様に「氷」ののぼりが店の前に出ると、ああ夏が来たんだなと思ったものだ。
子供の頃一番好きだったのは、氷いちごでも氷ミルクでもなく、宇治金時白玉のかき氷であった。ずいぶん渋い好みだが、このメニューはかき氷の中でも一番高価な、全部盛りのスペシャルと言える内容であったので、なかなか頼んでもらえなかった。
とここまで書いたところで断っておくが、今回はかき氷の話ではない。この宇治金時白玉に欠かせない、白玉の話である。

白玉はもっちりむにむにしている食感が命なのだろうが、私はこのかき氷の中で表面が少しかたくなった白玉が大好物であった。なぜせっかくのやわらかさをトーンダウンさせるのがいいのかと言われると、なかなか説明に苦慮するのであるが、強いていうなら単一の食感ではなくその食感の複雑さを愛したのだと思う。表面が冷えてちょっぴりかたく氷がついてざらついているのに、中はしっかりと弾力のあるなめらかなところ。その二段階の食感を楽しめるところが好きだったのだ。
これは餅に例えるとよくわかっていただけると思う。おしるこに入った餅は、ぐずぐずにやわらかく煮てあるよりも、一度焼いて焦げ目がついたものの方が好まれる。表面はぱりっと焼けているが、中はやわらかくしこしことかみごたえがあるという状態が美味しいと感じる人は多いだろう。
かき氷の中の白玉もそれに近いのだ。かき氷を盛り付けたばかりは、まだ中の白玉もやわらかいままだ。上の氷を少しずつ崩しながら抹茶シロップを混ぜて食べていくのだが、ここで一番下にある白玉に急いで到達しようとしてはいけない。上からお行儀良く順番に食べていけば、最後に一番下に辿り着いた頃には白玉は程良くかたくなっている。この程よく表面がかたくなった白玉をあずきと共にいただくのが美味しいのだ。

白玉はご存知の通り、白玉粉から作られる。
白玉粉というのはもち米を加工した粉で、寒ざらし粉とも呼ばれるらしい。古くは寒中に水に浸して挽き、沈殿したものを繰り返し圧搾脱水してから天日乾燥させるという、大変手間のかかった製法であったという。基本的に現在でも製法の基本は同じだが、寒中にやらなくてもよくなっているのが大きな違いか。
米から作られる米粉には、上新粉、白玉粉、もち粉などがある。どれも和菓子には欠かせない粉だが、原料や製法によって分けられている。上新粉はうるち米を洗い乾燥させてから粉にしたもので、多くの和菓子の材料だ。白玉粉は名前の通り白玉の材料で、もち粉はもち米から作られて求肥などに使われる。以上3種類は、でんぷんがベータ化しているため加熱処理をしなければ食べられない。それに対して道明寺粉は同じもち米から作られるが、製法途中で蒸すという加熱処理が施されたアルファ化でんぷんであるため、そのまま食べられる。
このような米粉は奈良時代あたりから作られていたようだが、江戸時代に和菓子と共に進化していった。白玉粉はでんぷん質だけを主に取り出したものだそうで、そのためつるんとしたなめらかな食感になる。大福や柏餅と比べても、この白玉のつるつるした感触は独特で、それが美味しさの大きな理由の一つとなっている。

それなのにどうして敢えてその表面のなめらかさを封じて、凍てつく寸前のかたさを好むのか。
もちろんつるつるすべすべも素晴らしい。でもそういう分かりやすい美味しさだけでは面白くないではないか。ごつごつやざりざりがあることで更に味わい深くなることだってある。
少女だってそうだ、わかりやすいものとなめられては困る。とっつきは少々かたくても中身はしなやか。その複雑さを愛すべき。


登場したかき氷:宇治金時白玉
→幼少時には上野広小路にある和菓子屋の岡埜栄泉のが定番でした。
今回のBGM:「Mutter」by Rammstein
→ゴリゴリにゴスのくせに、中身は結構柔軟。 表題曲のサビの咆哮「ムター!」って「お母ちゃーん!」だよねと、聴く度に爆笑してしまうのだが。10年ぶりの新譜の中の曲「Deutschland」のPVも素晴らしい。


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