イソギンチャク

堕ちる時の降下する感覚と脳の溶けだす時の疲労感がどっと襲ってきて、その場に崩れ落ちた。

ぼくは何をしていたんだろう。彼女のくれた半分のパピコの手触りをおもいだした。
彼女は誰よりも自分を優先する人間だ。よく言えば自分を1番大切にしているというのだろうか。でも彼女の場合はそんなにいいものではなかった。自分のものは絶対に自分のもので、他人に譲るということをしない。じゃがりこだってポッキーだって周りに友達がいようと欲しいと言われようとなんだろうと、必ず「自分で買えば?」と断って1人で平らげてしまう。前に彼女が間違えて買っていたサイズの合わない服も、誰かに譲ったりリサイクルショップに売ったりすることはなかった。自分に必要のないものまで彼女は人に譲ることは無い。

形のない滝が目の前でゆっくりと流れている。全部の絵の具を混ぜた時みたいに、茶色に混ざりきっていない部分がぬるぬると下に落ちていっては、また混ざりきれずにぬるぬると模様を描きながら落ちていく。そして突然あたりは暗くなって、そして赤くなった。また暗くなり赤くなり、その速度はチカチカとだんだん早くなっていった。頭が痛くておかしくなりそうだ。僕は目を擦ったが、それは無くならない。目を閉じても開けても同じものが見える。
次第に辺りがぐわんぐわんと揺れ、ぱあんと頭から何かが弾け飛ぶ音がした。

気がつくと僕はイソギンチャクになっていた。肌にじわじわと心地よい冷たさが伝わってくるのがわかる。冷たくて気持ちいい。太陽の照らす方を見上げ、何本もの手を上にのばした。すると海水の波と共に手がゆらゆらと揺れる。体から力を完全に抜いて、ただ横を泳ぐクマノミたちを見ていた。やがてはっと我に返ると、もう太陽が沈みかけている頃だった。そろそろ夜になる。クマノミはイソギンチャクの毒で身を守ると聞いたことがある。クマノミたちは僕に集まってきて夜を過ごすのだろう。ところがクマノミたちは僕とは逆方向に泳ぎ始めた。
「ここから逃げた方がいいぜ」
クマノミは僕にそう言うなり、さっさと深い海の方へ泳ぎ始めた。何が何だか分からず、クマノミの言うように逃げようと体を動かそうと試みたが、岩に張り付いた体はびくともしない。考えている暇もなく夜が来た。そして直ぐにクマノミたちの言っていることを理解することになる。
向こうから黒い人影が現れ、ぶくぶくと泡を吐きながら泳いでくる。素手で僕を掴むと、力任せに岩に足をひっかけ全体重で引っこ抜こうとする。痛い。

「大丈夫?」
パピコはドロドロに溶けていた。これは彼女にとっての罪滅ぼしなのだろうか。このパピコで僕のこの対価を払おうというつもりなのか。
「まあ、ジュース感覚で食べればそれも美味しいけどね」
彼女は思ってもいないことを、まるで思ってもいないかのように言い捨てた。分かってはいたが、彼女は僕のパピコが溶けないようにする程の気遣いは持ち合わせていなかったようだ。

体が岩から剥がれていく。少し肉片を岩に残しながら、岩から僕はもぎ取られていく。その痛み以外何も考えられないない。

僕は彼女の両腕を掴み、力任せに壁に追い詰めた。か弱い彼女は暴れて足で僕をけり、腕に噛みつき抵抗する。彼女からの必死の抵抗は、岩からもぎ取られる痛みでかき消される。僕は口と足を使って袋を破り、錠剤を口に含んだ。そして細かくなるまで噛み、唾液とともに彼女の口に流し込んだ。
流し込む間も彼女はじたばたと足で僕を蹴って抵抗していたが、徐々に力は弱まっていった。
僕も体から力が抜け、2人の目の前には赤と黒のぐるぐるとした渦巻き模様が見え、離れたり近くなったりした。
またあのパピコの感覚が蘇ってくる。冷たくて気持ちいい。彼女は笑顔で僕の手を取った。そしていつもの景色を駆け抜けていく。商店街や学校や歩道橋。だけど全然疲れなくて、ただ楽しくてずっと笑ってたくなるような感覚が全身を駆け巡る。彼女とバイバイをする曲がり角まで来ると、またあのパピコを貰った時の冷たい気持ちよさで頭が支配され、商店街や学校、歩道橋と永遠に走り抜けていく。何度も何度も繰り返した。

イソギンチャクのその何本もの手で、僕はもぎ取ろうとしてくる人影の足を掴み、そのまま全身をまるごと飲み込んだ。

そしてドロドロになるまで溶かしきってしまった。

2人の頭からは完全に気持ちの良い感覚は抜けきっていて、しばらく床でのたうち回った後、動かなくなった。

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