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『狂はば如何に』高橋睦郎/デザイナーの机の上に

久しぶりのデザイナーの机の上シリーズ。
 デザイナーの机の上に『狂えば如何に』(高橋睦郎)が置いてある。
ぱらぱらっと捲ると、目に飛び込んできたのは、

わが友の人形つくり人形をつくるめたりヰルス禍がゆゑ

 恐らく、間違いなく、四谷シモンのことを歌っている。四谷シモンは、エコールドシモンを辞めてだいいぶたつ。どうしているのか…どうして止めたのかと、ずいぶん気がかりだった。Twitterで時おり姿は拝見するが、元気そうだけど人形は作っていなさそうだ。
 ヰルス(ウイルス)が故なら…後遺症?で…と心配はまた進むが、この歌のところで納得することにした。(禍は旧字で書かれている)
頁を捲ると

人形をつくるを止めてすくやかと告げこしに答ふ長生きをせよ

次の歌。これも四谷シモンを歌っている。
[いかにさびしき]というタイトルの歌群に、この二首を含んだ、人形の歌が何首も納まっている。

現し世の家族崩壊 人形の家なつかしく燈し賣らるる
人形に目玉入るるはたま入るる眞夜丑三つを待ち入るるとぞ

 歌は[言葉]をリエゾンして連なっていく。そして日記のように進んでいく。家族から、人形、人形からヒトガタ…と、言葉は連なり、歌われる[こと]は移ろっていく。
 展覧会で人形を見て、文楽で人形を見て、それを歌うのではなく、日々徒然に人形、文楽、人形遣い…と心遊ばせ、言葉遊ばせて歌が生まれる。(あたりまえの作法なのかもしれないが、歌集をはじめて通読する身には新鮮)

ヒトガタを舞はすがヒトかヒトガタに舞はしめらるるヒトかいづれぞ
傀儡くぐつをば怖れあくがれ村ありき町ありきそよ遠き世ならず

三人をもて遣はるる人形のまことは遣うその三人を
三人遣いさんにんづかいその足遣いあしづかひ 腰を病み膝を病みなば棄てられなむか

人形をよく人を遣ひぬ人形遣い・大夫・三味線弾きのなべてを
人間もヒトガタなれば操りの絲のまにまに手上がり足上がる

 ヒトガタを人形を操る人が、操られているという感覚が共通して現われている。
人形を操っているはずの、人形遣い、大夫、三味線弾きが、人形に操られている____
確かにそのように見える時が、人形を操る芸の成立している時に起きる。
 文楽の場合は、魂のようなものが作動している。人形、ヒトガタに寄与する魂がどのようなものか、人に作動する魂というものが如何なるものか、それを高橋睦郎の歌でよむのは楽しい。

 少し前に、パラボリカ・ビスというオルタナティブギャラリーを動かしていた。そのオープニングイベントで、山口小夜子が、恋月姫の人形を抱いて、三島由紀夫の『近代能楽集』をパフォーマンスしたことがある。人形が山口小夜子を操って見えた____そんな時間帯がかなり長く続いていた。そのとき、山口小夜子は、その等身のまま人形になっていた。逆の瞬間もあって、[人形]は恋月姫の人形に宿るときもあり、山口小夜子が人形であるときもあり、また両者人形になっていたときもあった。このときに魂は介在していない。
 人形に魂、人に魂____そう云うときに、魂はそれぞれである。その魂の在処に在り様に創作者の個性が滲む。ここに一般論はないのだ。

この肉體からだいづちゆか來しそこここの微塵集まりなりし虚器うづは
たまたまになりし肉體からだに入り棲みし霊魂たましひてふも微塵集成

 ドーキンスとベルクソンの間で、思考しているような…肉體もたまたまもらったものだし、霊魂も塵を集めてそのたまたまの肉體に納まっているものだし…どちらも霧散するもの。
 人形は良い。空の人形はいつでも遣い手、もち手の魂を入れてもらい…それは錯覚にしか過ぎない…空の人形が、遣い手、もち手の魂のようなものを操っているのだ。人の肉體もそうあれば面白いのだが、どちらも塵芥の様な存在で、頼りない。

 さて、この肉體も中にあるように思える精神も、老も死も____またそれぞれであって、個にとって一般論は成立しない。この歌集の取り上げられ方が、ちょっと残念なのは、一般的な典型の(そんなものはない)老とか死とからさらりと語られることが多いことだ。しかも褒められる…。
 そうしたことに抗うように老を生きている、高橋睦郎という希代の詩人の、生き様が歌になっている、そこを見て、そこをよむから面白いのだ。
 
「肉體は霊魂の獄 狂すとも破獄せよ」しか古き智慧
わが霊魂この肉體に獄せられ七十餘年いまだ狂はず

 「狂はば如何に」とは、狂うとしたらどういうふうにしたら詩人として、自分として、あり得る様なのか。ということなんだろうと思う。狂おうとしてそちらに向かっているが、狂わない高橋睦郎の毎日がある。

 老を生きるとは、恋をすることだ、しかも年下の人間と恋することだと。

情欲の失せてののちを情欲の記憶いぶるに老いはくるしむ
戀するに歌ふに倦みて注釋に生きむ老後かわれは望まぬ

 歌の音の流れも心地よく、漢字にはルビが振ってあり、ルビと漢字と歌の微妙な擦れに身を委せると、高橋睦郎の諧謔的とも思える、それでいて非常にストレートな声が聞こえる。快楽の声。老を苦しみ、死を怖れてはいない…それらを詩人として見つめ、自分の身体をもって記述している…僕には論理的な歌とすら思えるすがすがしさがある。

もっとも身近なところから、ここに選んだが、他にも他にも、心重ねて遊べる歌がたくさんあって、この歌集フェイバリットの一冊になる。

PS
人形と身体から読解くと、感想は一般からずいぶん逸脱していくようだ。
高橋睦郎が自分の詩歌を評する詩人として信頼している谷内修三は「狂はば如何に」にこんな評を載せている。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/625cad9989638bd835ac6f9b5d07a846

もともとそうやって生きてきた。孤高やむなし。

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