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デザイナーの机の上で本を見つけた/時評書評/忖度なしのブックガイド/豊崎由美

 デザイナーの机の上でまた本を見つけた! この机の上の本は外れがない。まったくないわけじゃないけれど、究極ないといっていい。逆に、自分の人生を変えるような凄い本もある。この歳の(ぼくのことだけどね…)人生を変える…厳密に云うと本の読み方、本を通した現実と作家の人間に対しての向かい方を変えてしまう本に出会うとは思わなかった…デザイナーの机の上で——。変わるって良く云うけどね、人の性とか癖とか…特に本の読み方とかそんなに変わんない。長いこと生きているとそれが良く分かる。

今年を締める嚆矢の一冊。ベストワンだと思う。
それが○時評書評○豊崎由美 ——忖度なしのブックガイド

 この本は、中身がきっちり締まった筋肉質なので…ちょっと一気には食べきれない。分かりやすく書いてあるんだけど…ね。究極は、書評された本は全部読みたいじゃない。外れがないから…。本を全部読み込むのは、来年に持ち越して、一年越しで書評された本を読んでいこうと決心した。その中で自分の読み方、把握の仕方、考え方が変わればいいなぁと。無理に変わる必要もないけど、9年間の間で(豊崎さん単著9年ぶり)豊崎さんが本に対して、ハラスメントに対して、オジサン体質について、検証して変わってきているのと、同じように、自分も本に対して柔軟性をもてるようになるといいなぁ。

 まずさいしょに驚いたのは、時評と書評が組み合わさっている形式?で書かれていることだ。で、相変わらず書評。評論じゃない。豊崎さんの文章を褒める人が周りにとても多いが、その一番は、書評している本が読みたくなるから良いよね。で、読んでばっちり。——である。本に対する愛、作家に対する愛…例え作家がセクハラパワハラオヤジでも、作品が良ければその作品を避けず、褒める。作品主義。で、作品を読者の好きに読んでもらおうとしている。自分の読みを押しつけない。最後書かない。上から目線じゃない。特に読者に対して。

 で、時評は、その時点での社会的問題点、とかパラハラ的なことに対する[アンチ]が多い。とくに問題を上の人が誤魔化したり隠したり、蓋をしたりするときに、豊崎は絶対に許さない。書きまくる。忖度なし。うわぁ仕事なくならない?とか思ってしまうが、そこは筆致の芸で、上手にすり抜けている。(本格ぶつかったり炎上したりもしているだろうが)。
今は、紙は本当に苦しい。一応、出版社を動かしてもいたから分かる。足の一部…半分をWEBにのせている。のせていてかつ、地べたの感覚で時評している。当然、炎上もあるだろう。だけど相変わらず微塵も斜に構えない。とにかく逃げない。その痕跡が『時評書評』にあって、生のハードボイルド感がある。ファイティング(書評なんだけどね…)スタイルは固定されていない。リングの中でも場外乱闘でもイク。読み方も固定していない、作品や年々の状況変化によって変えていく。でもこの本の時評/書評のスタイルは、ストイックでカッコよい。暴れん坊で適当さを売りにしてそうな立川談志が、非常に構成されたストイックな形式をもっていて、しかも度にトーンを変えていくのに似ている。(ちょっと落語は詳しくないのでもっと相応しい落語家がいるかもしれない。)時評が、落語のまくらのようになっていて、すっと本編に入っていく。時評は、本編と同じくらいの長さと重さがあるけど…だけど重さを感じさせない。
本を開くとレイアウトも惚れ惚れする。タイトルとその脇に情報的なコラム的な文章が入っていて、これがまた…くっと本を全部読みたくなるようなさしこみにもなっていて、(坂本図書の本の説明のウィペディアっぽいなんでもなさの対極、編集者と本好き坂本はもう少し豊崎の本好き爪の垢を飲んだら良い)そして時評。辛口の…読むのが辛くならないようにちょっとしたにやりとするような話を廻し方をする。で、…いつのまにか書評に入っていく。

全体の印象。
豊崎さんは、短い方の書評を、ソフトバンクの優勝ラインナップや、箱根駅伝・青学チーム、ワールドカップ日本代表、WBC日本代表に見立てて、並べているので、それに倣って野球で例えてみると…ちょっと古い例えだけどね…
 かつては、中継ぎと時々、押えでも投げるユーティリティ・投手だった豊崎。請われるとよっしゃって登板する。ランナーを背負って、怖れもせず(本当は細心の注意も払って…)ど真ん中に投げ込んでいく。直球に見えるんだけど、投げ方にちょっと癖があるので、ボールが意図せずかってにスライドしたり、落ちたりするので、ど真ん中ほど効果的…必ず相手は振ってくるから。絶対に気をつけているのが、フォアボール。野村名捕手みたいにボールから入るなんてしない。紙面限られていますからいきなり勝負ですっ!てな感じ。(少し違う話だが、野村克也と江夏が、大リーグで活躍している野茂との鼎談を放送していたのを見たことがあるが、二人がボールから入るよね、フォークボールはいろいろに曲がるように投げ分けるの?と、聞くと、野茂は平然とストライクから行きます。相手待っているんで逃げないです。大リーグでは勝負ですから。フォークボールはまっすぐ下に落ちるように投げます。その代わりキャッチャーは、ツーアウト満塁3ボール2ストライクからでもフォークボールの(あ、今はスプリットね。当時はフォークって云っていた。)サインがきます。落ちて取れなくてもベースに当たって跳ねるので後逸はしないで身体で止めてくれるので——と淡々と語っていた。大リーグの野球は日本の野球と違うんだなとつくづく思った。ちなみに、大リーグの強打者は、フォークボールで三振しても直球を待っているので、四打席のうちに一球は、直球を投げます。ストライクを。打ち損なったらラッキーっていう感じで、それでも直球を投げます。凄いですよ当たると…それをうわっ凄いって見ているときに、大リーガーになったんだなと思いますと、野茂は云っていた。さらにちなみにだけれど、イチローは野茂のような考えをしていない。大リーグの野球に合わせようとはしなかった。そして大リーグの野球はイチローによって変わったと思う。今はシフトを引くから。全盛期のイチローが今大リーグに行ったら、イチローシフトがあっというまに敷かれると思う。そのときイチローはどういう野球をするのか…。ちょっと見たかった。そして大谷翔平。また大リーグの野球を変えていく。堂々と戦い優勝を勝ち取るという感覚がまた戻ってきているように思える。
 プレイヤーによって大リーグの価値観は変わるし、社会の状況によっても変わる。それに合わせて選手たちも変化して活躍していく。豊崎もまた書き手の変化、社会の変化、紙の本が今どうなっているのかということで起きる変化に応じて、スタンスにパッチをあてている。その当て様が、現場的、地べた的で、それは場外馬券売り場の床に座り込んで、一レースから勝負しているオジサンのような(尊敬を込めて。自分カッコつけて馬券売り場に座り込めなかった。坐ったところから見えるものがまたある。あ、浅草のはなしだけどね…)ところがある。豊崎さんは馬券売り場の地べたに坐ってレースを見ないと思うけど、本を読む姿勢は、現実的、時評的、地べた的、人的だ。だから時評が書評に素敵につながっていくのだ。しかしこの書きっぷりは凄い、文章巧いし説得力あるし情報量が異常に多い。

 今は、野茂の時代ではなくイチローの時代でもなく、大谷の時代で、豊崎は中継ぎ押えから、先発に変わっていた、そんな感じね。『時評書評』は…。しかも完投型の先発。いないよねいまそんなピッチャー。バウアーとか大谷とかは最後まで投げたがるけど…そんなタイプ…に変わっている。登板すると、ちょっとゆるっと投げ始める。でもそれは見かけで、最後九回に最高速がでるような入りをしている。で、くせ玉は相変わらずなので、ど真ん中も強打者は撃ち損じていく。打ち込まれたり苦手な打者が来ると、前日の研究を(そんなに強打者じゃないのに打たれちゃうのが許せなくて、研究する。石原慎太郎をきちっと読むというのと同んなじ)駆使して押えていく。絶対に四球は嫌。そこは変わらない。
 時代の変化で、書き場所をネット上にも拡げているが、ネット上は炎上することがある。それからも逃げない。駄目なことを見てしまうと、とことん、書く。また炎上する。でも反撃する。決して逃げない。それだけでも凄いなあとつくづく思う。ボクはある種、逃げを打つし、効率を計る。豊崎はしない。身を晒す、ネット上にファイトする。ぶった切る。
 小咄から大ネタをかける落語家になっている。短い文章より、長い文章のものが圧倒的に面白く、さらに本の中身が感じられる。豊崎が作品を読む、読む手のカットラインを鮮やかに見せてくれるので、作品の輪切り状態がしれて、切り口から大体作品の性質が分かる。素敵なのは豊崎の、そのように読んでも良いし、またそれならこうアプローチもできるかなと別の読み方もできる。本を読むのが百倍愉しくなる。
 
 来年は、ここに取り上げられた本を全冊読むのを生きていく目的にした。

さて。
 時事とはいいながら人がでてくるのが面白い。事じゃなくて人なんですね。豊崎さんは。糸井重里、橋下徹、見城徹…他にもたくさんたくさん豊崎さんに噛みつかれているのだが、この三人には、云いたかっただけど巧く云えないのを(ボクがね…)すぱっと鮮やかに切っていて、溜飲を下げるというよりは、感心してうーんと唸ってしまった。

冒頭に、豊崎さんが変わったと云ったけれど、少しだけ引用すると。

わたしがかつてバリバリの「おじさん」だったからです。そして今も「小さなおじさん」を心の中に棲まわせているからです。(27P)
わたしの中に棲んでいる「おじさん」に対して「そういう考えは良くない」と大勢の人に注意され、また読書よってもわたしの中の「悪いおじさん」を駆逐してきたはず——なのに…。
というようなことが書かれているコラムが、「自分の中の『おじさん』発見器になってくれる松田青子作品」(25P)。

一番の驚きは、変化するトヨザキさんに、トヨザキさんが突っ込んでいくという、とてつもなく面白い展開になっている。実は、書き手もどんどん、スタンスや書きっぷりや腕の具合が変わっていくものだが、その変貌ぶりを逃さないだけでなく、ご自身の変化もきっちりと書評評されていて、たまらん展開になってます。あと大きな変化と云ったら、ほのかに[老]についてのスタンスが生まれていて、またそれ故に、読みが深く広くなっているのが、素敵だ。

小説家は死を意識したときに、変わることや完成することや代表作を書くことが往々にしてあって、豊崎さんが[老]とともに[死]を意識したときに、どう作品とリンクしていくのか、興味深い。もしそれが書かれる頃には、自分は居ないので、『時評書評』を読みながら、ちょっとそこは残念だなと、無い物ねだりをしてみたりした。

PS
 自分はウクライナ戦争が起きてからずっと、BSとかネット時事に齧り付いて戦争を見ているが、ロシアの文芸を戦争で読み直すことで、何かが分かるかもしれないと、チェーホフから逆流して、ドストエフスキーとかいろいろに読んだけれども、ちょっとしっくりしない。小泉悠もそのあたりは言及しない。
 で、この本に教わった。——プーチンのようなモンスター理解に文学の力を借りよ——に書評されている本を机の上に積んで読み始めた。少し考えが変わりそうな気がする。豊崎さん感謝!

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