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フラッシュメモリー20220318/『感応グラン=ギニョル』・空木春宵・東京創元社

言葉が掠盗られ…その言葉たちは文脈を失い肉体性を失い、虚ろな抜け殻となって本の中に浮遊していた…カワイソウニ…。
その言葉が自分の半生のアイデンティティだったりしたときには…自分の身に瑕がつくことを知った…。痛い。
そんな時にふと出会ったのが、『感応グラン=ギニョル』空木春宵。
ちょうど自分も浅草・六区にかつてあった常磐座の奈落、そこで見つかった人形と踊り子の足のことを夢想していた。

浅草。凌雲閣12階の崩壊の頃。六区の片隅の芝居小屋…からだに欠損のある少年少女が、夜毎、グランギニョールの舞台を開く。舞台も楽屋でも寝屋でも、肉体は軋み…痛み…そして瑕を晒けだす。肉体がある?…どころではなく…肉体の痛みをを基点に放たれる。
『感応グラン=ギニョル』は、文字の仕事をしてきた自分に、そしてその能力のなさに気づいた自分に…思考の回路を開いてくれた。肉体と言語、それを繋ぐ文体…今の自分に刺激的な小説…刺激的すぎて身体に痛い。娯楽性もエンターテイメント性も、演劇の上演台本性も合わせ持合わせているのに、胸に痛い。…夜に『感応グラン=ギニョル』を読んで寝る…すると夢を見る。グランギニョールの…。自分の書いた文章が太っちょの薔薇色の肉になっていて、それを自分が抱かされている…こうやって抱いて外から書くんだよ。肉体を。内からでは書けないんだよ…肉に云われて、そうだ。そうなんだよ。…というところで目が覚めた。

「やめて、お父様。お願い——」
少女の涙ながらの哀願も意に介さず、男は冷たい憤りをもって凶刃を振り下ろした。
その刹那、怨嗟の刃が〈あなた〉の肉を断ち落とす。

云うや否や、女の握り締めた包丁が少女の顔を横に薙ぐ。
その刹那、悲嘆の刃先が〈あなた〉の膚を切り裂く。

章の終り、ところどころに、〈あなた〉に向かって刃がつきつけられる。
視点と文体の演劇実験室…。

何しているんだ?
映画館の暗闇で、そうやって腰かけて待ってたって何もはじまらないよ。スクリーンの中は空っぽなんだ。ここに集まっているたちも、あんたたちと同じように待ちくたびれている。「何かおもしいことないか」。
そっちとこっちが違うのはそっちは場内禁煙だけどこっちは自由なんだよ、ね。ま、映画館の暗闇の中でカッコよく堕落しようと思ったら、そんなに行儀よく坐ってたってダメ。隣の席にそーっと手をのばしてみてごらん。手を握る。膝をなでてみる。…

高倉健が大暴れした映画のあとで、まるで自分が二、三人斬ったような顔で、肩をいからせて映画館を出て行ったおまえ、そうおまえよ。(観客を指さして)あの時おまえに何が起こったんだ?え、何が?…

これは映画『書を捨てよ 町に出よ』/寺山修司の冒頭のシーン。佐々木英明が観客に向かって語りかけるシーン。朝鮮人とか名前がないとか…この映画はいくつものテーマが描かれているが…一番のテーマは、映画の解体、映画と客席との関係。…であった。演劇でも寺山は、舞台と観客席の関係を崩そうとしたし、何より緊張感をもたせようとした。突如、観客に向かって、お前と指さす。衝撃的だった。銀座並木座の真っ昼間、客席は独り。指さされた自分は、逃げ場がなかった。
それから少し立って偶然に寺山修司に会って、天井桟敷に通うようになり、『夜想』の創刊号に原稿を頼むようになるのだが…指さされた僕はそのとき、寺山に囚われていたのかもしれない。

空木春宵の〈あなた〉は、寺山修司の〈おまえ〉と同じベクトルにあって、小説の中から読者に刃を向ける。厳密には、〈あなた〉は読者だけをさしているわけではないのだが…。〈あなた〉は刃で切り裂かれる…。そうではない———悲嘆の刃先が〈あなた〉の膚を切り裂く。怨嗟の刃が〈あなた〉の肉を断ち落とす。悲嘆とか怨嗟が〈あなた〉に向かっているのだ。刃は使われていない。
むこうがわ…小説のなかでも血は出ない。瑕は白い。痛み、瑕、を受ける身体は捻じれて存在する。

もう一度繰り返して書くが、『感応グラン=ギニョル』の書かれている言葉には肉体がある。痛みもある。軋みもある、そして瑕ができる。また痛みがくる。だけれども血や、傷のフェチではない。ましてや血は流れない。幾層にも捻じれていく、言葉と身体と痛みの関係が描かれている。

肉体の異和性…欠損(不具)、瑕、痛み…が収斂するのは〈残酷〉という行為、精神の行為。だからこそギニョルのタイトル。ギニョルは、人形性よりも残酷性のほうに負荷がかかる。書いていて気づいたが、残酷や残虐が描かれているのかも…と。
そして、思った瞬間に、東京グランギニョールを思いだした。飴屋法水は少年の潜在する残酷を垣間見させていたのでは。観客にそれを突きつけていたのではないかと。『感応グラン=ギニョル』が、団員同士の残酷を描いたのだとすると、東京グランギニョルは、観客に残酷を煽りつけていたのかもしれない。しかも、東京グランギニョールは、血糊が飛ぶ。そして後に、飴屋法水は、嘘ごとの血潮を本当の血液に変えていく。飴屋法水は血を使うパフォーマンス、美術も行うが…(それはまた別の機会に)
東京グランギニョールは、『帝都物語』ガラチア(後楽園特設ステージ。細野晴臣、RTV、白虎社、ドクトル梅津1Q84、戸川純…)で、加藤の内蔵の中から飴屋法水は、血まみれの美しい顔で虚空に手を差し伸べた。(個人的には、ベニスに死すのタジオに匹敵する、いや超える美少年、そのラストシーンにも勝るの飴屋法水と思っている。)東京グランギニョールではない、浅草グラン=ギニョルは、たとえば、刃を読者や小説の中の観客に突きつけたりはしない。

喩えとしてうまく言えているかどうか分からないが、井桁裕子(創作人形作家)が、拒否し嫌悪するから戻るにした男のペニスを巨大に露呈させた人形を作るとか、シュワンクマイエルが食べるときに音をさせることに恐怖を感じるほどに嫌悪するから、その表現に執着するとか…。見えているものと、表現している感覚が、身体を介在して捻じれていることは、よくある。痛みも軋みも瑕も忌避したい身体が、この小説を描いている。だから身体はある。言葉は身体を描かれている。

〈わたし〉は身体と、身体が受ける痛みとの間で軋んでいる。痛みを忌避すると、身体は〈わたし〉と異和をもつようになる。離人する。身体がさまざまな少女たちの意識や記憶を体験するようになる。そんな少女たちの劇団・浅草グラン=ギニョル。

さて、書くこと多くまだまだ思考は続くのですが…
まず今日(こんにち)はこれぎりということで。帳を降ろそうかと思いまする。では、また。

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