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アヴェックピアノ~Playing the Piano in NHK/坂本龍一

1。
 不意をつかれて狼狽えた。放送日を15日と記憶して、録画予約を入れようとした5日のTVから、流れてきたその曲は、空気感が圧倒的に違っていた。身体のなかに沁みるような…いや身体のなかに隙間ができて、そこに風が凪がれてくるような。

2。
 その人にはじめて会ったのは、思索社の会議室だった。出版コードをもっていない我が社は、晧星社から思索社に拾われ意気込んでいた。思索社の社長は、父親、超辣腕片山修三・出版プロデューサーから会社を引き継いた若社長・片山宣彦だ。見るからに意気込んでいた。父・片山修三は、出版プロダクションも率いて、中央公論社などでレコードブックを出したり、美術全集を編んだりと、プロデュースでも画期的な仕事をしていた。角川源義と丁々発止とやり合って有名な、出版界の影のドンだった。その息子は父親を越えようとマルチメディア戦略に打ってでようとしていた。思索社は、ローレンス・ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』の版権をもっていた。そこに大島渚から映画化のオファーがあった。
 映画音楽を担当するその人に、名刺がわりに、『夜想』を何冊か渡すと、斜めから眺めるように「これだけもらっとくよ」と何冊か抜いて、「後は、もってるから」とウインクするようににやりと笑った。『影の獄にて』は、紆余曲折だいぶ良い流れをカットして『戦場のメリークリスマス』という映画になった。その時、片山宣彦社長は、本とサントラレコードを合わせたレコードブックを狙っていた。
 仕事になったのは、顔を合わせてからだいぶたった頃だった。制作がはじまったその頃、寺山修司が昏睡状態で病院に搬送され、自分はとてもじゃないけど、思索社の仕事に係わるような気分ではなかった。おまけに、亡くなった寺山修司に引っぱられるように、肝臓の白血球が限りなくゼロになるという原因不明の病で入院する嵌めになった。とにかく退院しなきゃと勝手に退院してふらふらになって現場に立ったボクに、誰かが、大事な時に倒れんじゃないよと静かに諭した。一生懸命やれば褒められるのはアマチュア、結果を出すまでは引かない。それがプロで、メジャーっていうもんなんだなと、とっさに理解した。以来、倒れるのは仕事が終わった大晦日と決めた。
 サントラを書店展開できる形で出版権利をもらってこいとの思索社からの命だった。(きっと自分がやってうまくいかなかったんだろう。)音響ハウスに行って吃驚、プロが使う音楽スタジオも、32トラックの卓もはじめて見た。32トラックの幅は手を拡げてもとどかない。一時間、6万するスタジオで、その人は、食事をしたり、インタビューを受けたりしていた。
 サントラの権利がもらえなさそうなのは、話していて分かった。サントラ駄目ですかねと水を向けると、「カセットブックなら良いよ」と、その人は、突然言い出した。え?カセットブックですか?ペヨトル工房は、EP-4の佐藤薫と組んで『制服 肉体 複製』/EP-4を1983年3月に出し、はじめは200部手づくり(山崎春美のマンションで)からはじまって累計5000部を、書籍流通で販売した。「カセット音、悪いですよ。」とボクが云うと、「EP-4が5000なら僕は5万売ってみせるから。だからカセットブックでなら…」カセットでサントラ?…。可能か?駄目でしょう。僕はほんとうに困ったまま、「スタジオの中に入って良いですか?」と、自分の空気を変えようとした。

3。
 現場に入ると、雑誌のインタビュアーの本能が、ちょこっと閃いた。あのう…収容所、赤道直下ですよね…教会の前で、話をするところ…雪…「あ、あれは雪だとおかしいから白い砂を撒いてもらったの。自分は、東京を出る時から2・26事件の磯部浅一だと思っていた。実際には参加したんだけどね。一人優秀な人を残しておかなくてはと、磯部浅一を2・26に参加させず収容所に送って残していた。その磯部だと思ってやっている。大島さんに頼んで2・26をイメージする雪のシーンを作ってもらったんだ…台詞にも2・26生き残りとヨノイは云っている。「あそこの音もの凄く好きです」とボク。「ボクも好きだよ」と坂本龍一。「自分の一番好きなシーンに、一番良い曲を入れたんだよ。ちなみに父が天皇ならどんなにいいかって、思っているからね…」と呟いていた。えっ…乗り移っていたのか、元々そういう思想なのか、今もって分からない。
 三島由紀夫は磯部浅一の「獄中日記」を高く評価して、磯部手記が掲載された『文藝』1967年3月号に『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』を書いている。確か、坂本一亀が、文藝の編集長をしていたのは、62年~64年だったから坂本編集長の時代ではないが、三島由紀夫の『仮面の告白』を書き下ろさせたのは、坂本一亀であるのは有名。きっと関係していたに違いない。坂本一亀、三島由紀夫、文藝、磯部浅一という流れを、中学生の坂本龍一がしっかりと遺伝子に書き込んだ可能性はある。
 一番良い曲と、聞いて、またちらりと閃いた。作曲って何でしているんですか。ピアノだね。あの、作曲した時に戻して、ピアノので…ってどうですか?カセットブック。坂本龍一は、口をヘの字に結んで、それから「いいね。」ときっぱり答えた。うちのカセットブック、ほぼ一発取りなんですよ、ライブでドキュメント。カセットだとかっこいいでしょう。全部を聞かずに、坂本龍一は、いきなりピアノに向って楽譜を書きだした。オケの曲を再びピアノ曲に作り替えている。ものの10分もしないうちに、書き上がり、じゃぁテイクしようかと、ピアノに向った。一発取りでテーマ曲は撮り終わり、楽譜を起しては弾くという積み重ねで6時間も作業しただろうか…。あとは、家で楽譜起してくるから…と車で帰っていった。
 翌日はさらにスピーディーにテイクは終り、ボクはただただ舌を巻いていた。凄いなぁ。ピアノも巧いし何よりスコアをすらすら書くのはかっこいい。本当に一発取りなので、いろんなノイズを拾っている。一番聞き取りやすいのは、楽譜が動く、カタッという音。何回か購買者から抗議がきた。
 タイトルはどうしましょう?ピアノで…か。By…いやAvecかなおしゃれだし。坂本龍一があっさりと決定案をだした。デザインは、井上嗣也。奥村靫正じゃないところが、また狙い目ぴったり。カセットブック『AVEC PIANO』は、5万の初刷をほぼ売り切って、一回、増刷したかな…その頃、すぐに『CODA』というレコードにしてもう一回、大ヒットしたと思う。YMOはミリオンだけど、坂本龍一『千のナイフ』とかは、5000部代だったので、以来、教授は、万単位、何10万単位のミュージシャンに定着する。ちなみ話をもう一つすると、うちがカセットブックをだしたEP-4のインディー盤に坂本龍一は、登場している。そしてEP-4の衝撃のダブルリリース、『昭和崩御』(ペヨトル工房)『昭和大赦』(コロンビア)には、『千のナイフ』の高橋さんが卓に座っていた。

Coda
もともとボクはピアニストなろうとは思っていない。子供の頃から。
ただ自分の曲を表すには、

ピアノが一番、ダイレクトに表現できる。自分の音楽を表している。

⊿それは、『Avec Piano』の録音のときも云っていた。YMOのキーボードの映像を見ているので、ピアニストで上手と思って、そんなことを云ったら、笑われた、ボクはピアニストじゃないよ。作曲家だよ。と。それは今も変わらない。そして『Avec Piano』がサントラの映画音楽の、コンセプトを素朴に抽出してカセットブックするというのもそこも変わらない。

年とともに下手になってくる味と言えば味だけど

⊿ピアノの巧い下手が分からないボクにとっては、今の坂本龍一のピアノはとても良くきこえる。ボクはピアノで弾かれた曲のうちダントツで聞いているのが戦メリ。仕事で聞いただけでももの凄い回数になるし、耳に他のピアノ曲の記憶がないので、どこかで微かに流れていも、そして楽器違いでも耳に入ってくる。その中で、TVから不意打ちで流れた坂本龍一のピアノは、人間に向って弾かれた音のように思え、とても心地よかった。ピアノで弾く戦メリの和音に入ってくるところが、好きじゃなかった。なんか中途半端に暴力的で。でも今回の演奏、そこが音が静かに沈んでいくようで、その沈んでいく音の、水のような、どんな隙間にも入っていけるような液体のような…音の感じが素敵だった。なんか知らないけれど、とてもほっとした。一生のをかけて…

雨の音を聞いたり、景色を眺めたり、たくさんスケッチをかいてました。
日記のようなスケッチのような…

雨が降りだすと雨の音を聞いていたり雨の音をじっくり聞いていたり
竹林の中を風が通っていくのを、竹が揺れる音を聞いたり


嗚呼、だから音が自分の近くに居るんだ…。京都山科・春秋山荘のかつてローリー・アンダーソンも録音したという数千坪の竹林、その麓の春秋山荘に野天の茶室を作ったことがある。生きている木が床柱、竹をそのままに柱にして、すかすかの壁と天井。早朝に、白茶を飲むと、竹の葉から残滴と音が滴る。竹林の劇場では、近くに棲む山海塾の岩下徹が「耳を澄ます」を舞った。身体が耳となり、観客のわたしたちにもその共振がくる。ピアノは、西欧音楽は分からなくても、そこは分かる。坂本龍一のピアノ演奏、その音には、彼の身体とその息がある。それは人の原理の澄んだ音調。だから身体に入ってくる坂本龍一のいま。(ボクだけの事情かもしれない)


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