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中川多理 Favorite Journal◎『軍艦茉莉』安西冬衛


 タタール海峡の嵐と氷の話を散々読んできたため、わたしはバイカル丸ではてっきり、話ながら噛みたばこを吐き散らす、塩辛声の鯨捕りたちに会うものと覚悟していたのだが~。7月10日の昼頃、タタール海峡を横断し、アレクサンドロフ監視所のあるドゥイカの河口に向った。(『サハリン島』チェーホフ)
 アレクサンドロフからサハリンに向ったチェーホフに誘われてサハリン(樺太)島に上陸し、そこで樺太を縦断した賢治を知り、若い時代に住んだことのある山口誓子という俳人を知った。その山口誓子に
    郭公や韃靼の日の没るなべに
という句がある。自解によると——私は小学生で、毎日その声を聞いた。私の住んでいた樺太日日新聞社は豊原の町はずれにあったが、そこから原生林が見え、郭公はそこで鳴いているようであった。
 夕方が悲しかった。郭公の鳴くにつれて、太陽は西へ傾き、西へ落ちていった。太陽の通るのは遠い空のように思われた。それは沿海州(ウラジオストックのある辺り樺太の海峡を挟んだ露西亜領)の空のようだったと思い「韃靼」という言葉を使った。
 「没るなべに」の「なべ」は「とともに」だ。歌言葉である。(自解自選山口誓子句集)

 この句がきっかけで、山口誓子は、今西冬樹と知り合いになる。モダニズムの詩人と俳人は、旧漢字の使い方など照合(コレスポンダンス)がある。韃靼が二人をブリッジした。
 山口誓子は実際に韃靼海峡の上空の空を…賢治が詩にも描いたような抜けるような蒼空を…余りに蒼すぎて地上を暗く見せる蒼空。…ゆえに韃靼海峡は暗く、暗い。蒼空と地上の対比は見たものでないと描けない。山口誓子はそこに立っていた。日が没り暗くなり瞬間空はまだ明るさを残すその風景もまた借景のように描かれている。

 一方、安西冬衛は、大陸大連に居て韃靼海峡側から樺太を眺めている。西欧から押し寄せてくる「詩」の新波(ヌーベルヴァーク)に日本、モダニズムが占領されないように、日毎夜毎、歩哨に立って大陸と日本と極東とを監視していた。そして自らを実験の生贄にしてでも、砲塔を屹立させたかった。雄のではなく詩の…。

てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った 軍艦北門ノ砲塔ニテ
    ——『亜』19号(1926年大正15年昭和元年五月)
 詩誌『亜』に発表した當時は「間宮海峡」となっていた。

 安西冬衛は、1924年から1934年までの間、大連で過ごしモダニズムの詩誌『亜』を刊行する。そして『亜』の話をすすめる前に、特筆しておかなくてはならないのは、1921年4月23歳で満鉄に入社し、10月に右膝関節炎で大連医外科病棟に入院し、翌年22年1月に右足を切断し一時危篤となっている。父親から輸血それでも間に合わず看護婦長の献血でかろうじて命をとりとめる。闘病長く一年半を要しのち満鉄を退社し詩作に専念する。極冷地大連に一肢喪失。安西は大連を逃げるわけにはいかなくなった。

1929年に第一詩集『軍艦茉莉』(東京厚生閣)が上梓。「春」というタイトルで

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った 

と変更になる。軍艦北門ノ砲塔ニテ——が除かれ、間宮海峡を韃靼海峡にして、平仮名のてふてふとぶつけている。漢字四文字とひらがな四文字。『軍艦茉莉』は、「現代の藝術と批評叢書」の第二巻になっていて、第三巻が『骰子筒』マックス・ジャコブ・北川冬彦訳。第十七巻が『超現実主義と絵画』アンドレ・ブルトン・滝口修造訳で、モダニズムの詩人たちは、当然のことシュルレアリスムの存在を視野に入れていた。
 山口誓子は、エイゼンシュタインのモンタージュに倣って5句ずつを一塊にして発表していて、その影響下にあることを公言していた。エイゼンシュタインのモンタージュ自体が、露西亜の詩人プーシキンの影響下にあるのだから、詩人たちには使える方法であったに違いない。モダニズムは、変形したとはいえ、海外の手法を自家薬籠のものとしていた。

 解剖台上のミシンと蝙蝠傘の不意の出会い——そのように美しい。

というロートレアモンの詩句手法——それは、シュルレアリスムの詩句あるいは絵画の技法にもなり、次第に異和アルものをぶつければ発生するだろうという堕し方をしていったが、その言葉の異和の出会いを安西は意識もして強化もしている。小西が特異に
言葉をぶつけるに際して、地政学的視座をもっていたからだ。

 後に書かれた「軍艦茉莉」の界隈や〈自作自解〉春 にあるのは、

 私の26歳から30歳までの略5年間の仕事。
『亜』は、『詩と試論』の前駆運動、モダニズムの橋頭堡(きょうとうほ)の役割を果たした。

 桜花台の崖の上の家に中国人の王というボーイと二人で住んでゐて我が生涯の最楽天的な日々。

 崖の家は街道を隔てて禿山に面して居り、壮大な形容を試みるなら、欧羅巴からはじまった大陸の起伏が、かのポール・クローデルの頌の讚へる「大地の中の大地」と呼ばれている亜細亜の大陸に移行し、断絶して黄海に没入する最后の土壇場____その懸崖を背負っている地勢に踏みとどまっているとでも申していい姿勢の中に立っていた。

 大連の湾口を扼える
 扼する断崖になって亜細亜亜大陸

ここに終わっているのだから大変なところこといって良い。

実際又私は日夜この大陸の波動のフィニッシュに踏み耐えているという姿勢の中に昂然として精神を把持して自らを恃んでゐたものである。

「憲法の番人」という言葉があるが、その頃の私は全くのところ「大陸の番人」であった。

だから放恣な幻想や無埒(むらち)なイマアジュが日夜湧き上がってきたのであって
「軍艦茉莉」の中の諸作品は、ただこれらのファンタジヤやイマジネーションにただ方法を与えればよかった訳である。                     ——「軍艦茉莉」の界隈(安西冬衛昭和26年11月)からの抜粋。

 欧羅巴から日本に流れてきたポール・クローデルが『大地の中の大地』と呼んで愛好した亜細亜大陸に居て、そのクローデルは日本大使として日本に駐留し…安西は亜細亜の大地であり日本でない大陸のその戦略的突端にいて、最后のドタン場に、立ち留まって居たからこそ——そこは監視の要所でもあり、風水の肝でもあり、戦略立権の机上でもあったのだ——日本モダニズムは成立したのだ。個性をもって。
 安西は踏み耐えてとどまり、大陸の番人になっていた。[だからこそ放埓な幻想や無埒なイマァジュが日夜湧き上がってきたのであつて…](同上)日本租界地・大連で大連の軍艦と韃靼の蝶をクロスさせて詩を作るのは、彼にだけできる彼にだけ容易な、そして其の十年間のみに許された立地であったように見える。逆に云えばたった独りそれを愉しんでいたのでもある。此の安西の世界を番しての『亜』の孤軍奮闘が、まさに日本のモダニズムを萌芽させたのであり、規定したのである。

 『亜』に発表した時には、[てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った]の後に、と小さな文字で[軍艦北門の砲塔ニテ]がついていた。詩集発表時に[てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った]に代わり[軍艦北門の砲塔ニテ]付帯記述はなくなる。
 此の時に言葉の…たとえば軍艦北門、たとえば韃靼。言葉の背景を言葉に見る時に、安西冬衛の場合大きく距離をとった方がそのイマージュの複層性と乱暴が見える。小西冬衛の率いる軍艦「茉莉」「肋骨」…軍艦「北門」いずれも日本軍軍艦の船籍にはない。あたりまえのはなし。
 軍艦北門をみるとき、遼東半島全部が軍艦の船体であり、半島の突端にある(ト、安西冬衛が思う)長門が、その砲塔なのである。亜細亜を警戒する軍艦の砲塔ニテ 蝶が渡っていったのだ。停っていたのでもそこから飛んでいったのでもない。狭く受けなほうがいい。言葉と地政学的空間との間には、世界地図を飲み込む時空が横たわっている。
 韃靼も…韃靼はたしかに間宮海峡ではあるが、安西の生まれた奈良・東大寺の御水取りの「達陀」(だったん)でもあり、北方の威力を漠然とするモンゴルとしての韃靼でもある。
 「タタール人の砂漠」のタタールもまた得体の知り得ない砂漠の彼方の「望む驚異である」。

私の韃靼の旅はおそらく、しばらく続く可能性がある。今日是を書きながらふと思いだしたのは、私の三人の父親の一人、ヨーゼフ・ボイスは19歳の時、ドイツ軍パイロットとして露西亜軍に撃墜され、クリミアに降下して、大けがをタタール人に救ってもらっている。そのときの救命の呪物、フェルトと牛脂を生涯素材として使い続けた。

ボイスにもあった韃靼の記憶。

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