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ミて◆詩と批評◆第161号◆【特集・唐十郎】リトルマガジンが凄い!


 新井高子が『唐十郎のせりふ』で巻き起こした唐十郎の風は、今や突風になって、状況劇場の創設の頃から、いやそれ以前の明治大学演劇部の戯曲から、土を喰らって巻き上がり…そうして横浜国立大学での唐十郎就任講義を風浚い、そこから立ち上がった唐ゼミの生徒/役者を巻き込み、今から唐の身体を串刺しに突き刺し抜けて、60年近くをばらばら屍体のようにして見せてくれた。充実の特集。さすがの樋口良澄、新井高子カップル。手の違う、視点の違う、そして世代の違う人たちが唐十郎へ伸ばした手の中に、今、摑んだものが、ミテのこの特集にケッシュウしている。
 根っからの寺山修司派のボクが、二人の熱に絆されて、書いてしまった一文も片隅に載っている。見ながら書きながら読みながら唐十郎を、今、この時点で思うことは楽しい、そして意義もある。161号のミテの特集は、またまた唐十郎への、そしてその時代のアングラに思いを馳せる動機となる。横浜国大の授業でアルトーを語るとは、唐十郎。口開け、幕開けを『ジャガーの眼』/寺山修司とアルトーでいったんですね。その何年か前、なけなしの150万円を現金でもって、アルトーの上演を寺山修司に頼んで、快諾され、それが『夜想』アルトー特集になったという、寺山修司/アルトー側にいたボクとしては、青天の霹靂、驚愕のミテ【唐十郎特集】となった。
 ボクは、先ほど言ったように、寺山修司にどっぷり使っていたので、新井さんや樋口さんとはだいぶ違う距離で、唐十郎の戯曲を見ている。これは勘だけで云うのだけれど、たぶん、唐十郎は横浜国大で授業をするようになってから、誤読の客観化を若干ではあるが、するようになったと見ている。誤読の解説でもいいし、誤読という演出術という云い方でも良いかもしれない。その幕開けの講義が今、こうして、読めるのはこの上ない刺激である。アルトーに言及したのもかなりの驚きだが、この講義は[隘路]という感覚/言葉を唐十郎が大事にしていて、それを披露してくれたという風にも読み解ける。
 [隘路]は、古い時代の詩作や非常に抽象的に見える写真などを、見たり語ったり分かったり(ユリイカ的に)するのに、非常に有効な感覚ではないかと。言葉やイメージを、近いところに合わせにいたり、取りに行くのではなく、もぐってとか、どこかを通過してとか、その向こうにあるまた言葉やイメージと出会わせていく…つまり隘路を介してぶつけていく/ぶつけて表現しているもの…たとえば——てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。/鰊が地下鐡道をくぐって食卓に運ばれてくる。(安西冬衛)という詩があったとして、てふてふも韃靼海峡も、それが何かと云うイメージを近くに求めてはこの詩のダイナミズムが喪失してしまう。自分、唐十郎の言葉やものやイメージを[近く合わせ]して見過ぎていたと、この特集を読みながらつくづく思うのだ。
 樋口は唐十郎の世界の底には、空虚と自閉があるという評論を載せている。しかり、隘路の通っていく地底なり、路地なりの向こうには、暗い虚無があるのだと感じる。日本と亜細亜を通底する時に、そこには何もない、そして喧騒があっという間に失われてしまう負の地政学が存在する。樋口の締め論考を読みながら、うなずきながら…そこに立ちあってきた樋口良澄の感覚に、羨望する。その頃、ボクの希求していたものは少し別のものだッから。でも憧憬を込めて思うのだ。60年代から言葉を身体を絡ませながら、新しい——もの身体と詩のモダニズムを舞台で屹立させようとしたものたちの、生き様と、その具体的な身体表現と言葉のことを。ミテの唐十郎特集は、それを見させてくれる天眼鏡、なのだ。

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