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『動的平衡』福岡伸一/Passage(中川多理 Favorite Journal)

 Passage(中川多理 Favorite Journal)で見つけた『動的平衡』福岡伸一(小学館新書)の3冊シリーズを購入して帰る。
 
 最近、たまたまなんだけれども、つけるとNHKで坂本龍一と福岡伸一の対談が放映されている。録画予約されていないのに、録画されている。再放送含めて2度も。
 なんとなく眺めていると、「そうなんですよね…」とお互いを褒めあっていて、ちょっと気持ちが悪い。
最先端の異ジャンル同士の、世界的エース同士の対談なのだから、未来交流のためにも、クリティカルポイントでのせめぎ合いが欲しかった。
 これからは、同意と異和が共存するようなコミュニケーションが次の創造ラウンドを形成する。

 NHKの対談が、補遺されて最近発売になった。『音楽と生命』坂本龍一/福岡伸一(集英社)。
もう少し踏み込んでいる視点が読めるかと思ったら、そうでもなかった。

 ちょっと引けない気分になって、小学館新書の3冊『動的平衡』『動的平衡2』『動的平衡3』を購入したというのが、本音のところ。『動的平衡』は面白い構成になっていて、私たち普通の人間が興味をもちそうなテーマについて、福岡がヒントになるようなならないような感じで論じていく形になっている。だから3冊のうち、自分にもっとも興味のあるところ、入っていける章から読めば良い構成になっている。すごいな…。
 『動的平衡3』だと、第3章 老化とは何か 第4章 科学者は、なぜ捏造するのか 第7章「がんと生きる」を考へる 第9章 チャンスは準備された心にのみ降り立つ とか…が気になる。
目次を見て、自分が今、違った角度から知りたいと思っていることとか、ずっと考えていたこととか、気楽に読めば、だんだん『動的平衡』という概念?いや違うな概念じゃない…とにかく『動的平衡』に興味を持っていくようにできている。章の中身は、[動的平衡]で説明しているものもあれば、まったく使っていないところもある。
 いろいろな意味で、思考を現実の状況に合わせて、パッチあてている最中なので、そのとっかかりに有為だ。刺激的な資料や読書の動機になるので、座右に置いて、おりおり、考えていこうと思っている。その経過を折々徒然に書いていく。

 気にかかるのは、福岡の扱う範囲がかなり広いことと、相変わらずアートに自分理論で…福岡なら『動的平衡』で言及していることだ。
 相変わらずと書いたのは、解剖学者、脳科学者、遺伝学者などが、自分の研究成果と称する考え方でもってアートや文化を分析解析する傾向があり___日本のマスコミやアーチストや、もちろん読者がそれを有りがたがるという傾向があるということだ。その相変わらずだ。
 語られるアーチストも喜ぶ傾向にある。昔昔、写真家が自分の写真上に詩を印刷されることを此の上なく好み、写真家が文化的に認められたような気分になっていたことと、若干にている。
 福岡も『動的平衡』をもって勅使川原三郎を語ったりしている。そのあたりの疑問は、『動的平衡』全部、何事か書いた後で、ちょっと物申してみる。
 3冊に書かれているテーマのうち、自分でも今、気になっているところとか、その分野なら自分にもある程度の知識がある___という項目から、検討していこうと思う。 

 『動的平衡3』第7章「ガンと生きる」を考へる___から読み始めた。癌は、今、自分が直面している事柄なので、検討しやすいし、また思考を進めて行くのに、だいぶ役立つ。癌について考えたりはほとんどしてこなかった。
 第7章「ガンと生きる」を考へるは、『ニューヨークでガンと生きる』千葉敦子を挙げて、語っている。
 福岡はこんな風に語る。
  しかし、今日的な視点から見ると、たとえ、早くから化学療法を始めていたとしても、再発を防ぐことはおそらくできなかっただろう。このようなケース、つまり、すでに多数の転移が起こってしまったあと、外科的に切除することは不可能で、広範囲に固形のがんの転移が広がってしまった状況で、抗がん剤でも治る見込みがない場合、もはや闘うのは諦めるべきだろうか。」
 この文章
~諦めるべきだろうか。
の結びが変な形に展開していて、文章として成立していない。諦めるべきだろうかと書いたからには、その後に、諦めなくても良い、自分の考えを述べなければ文章の辻褄が合わない。ところがその後に、そうしたことは書かれていない。
福岡が云っているのは、一旦、複数の箇所に発生した癌は、それを除去しても、再発を防ぐことはできない___ということで、再発した後は、もっと外科手術や抗癌剤の___結果が期待できないということなのだ。つまり治ることはない。ということだ。

 で、もはや闘うのは諦めるべきだろうか。の後に書かれているのは、こういうことだ。
再発後の可能性は〈免疫〉だと繋がっていて、〈免疫〉と癌とのメカニズムを解説してある。なるほど…と、そのことは納得しながら読んでいく。そして、過去と現在にいくつかの可能性のある免疫研究があるが…と例を挙げている。
 じゃぁたとえば、今、再発を抑えようとして免疫強化をしようとしたとき、何か方法があって欲しいと個人的には思うのだが、それはもちろん書かれていない。実現化した治療としての免疫治療は挙げられていない。
 福岡伸一は癌治療の医者ではないから___しかたがないところもあるが…免疫が鍵だがまだまだ…という結論になってしまう。なぜ、こんな文章を書くのだろう。転移した後の癌治療をしている人は、絶望するだけではないか。
 僕自身少し前のnoteに書いたが、大腸癌にかかったら…免疫強化というのは、何となくやらなくてはいけないことだと自覚していた…マイオカインを分泌する筋肉を鍛える(大腸癌の場合)くまざざエキス、モンフェロン(椎茸菌・実績あり)ビフィズス菌を大腸までとどける…とかを考えていたが…福岡伸一の言う〈免疫〉とは治験のあるものである。実際に癌を小さくしたり、消滅させたりできる〈免疫〉のことをさす。僕自身のやろうとしている免疫強化は、治験のないものだ。
 で、まだ〈免疫〉による癌治療は病院レベルで行なわれていないのだから、複数個所に癌がでた段階で、ある種の〈終り〉が見えるわけで…その治療の過程で健康な細胞も破壊しながら免疫力を落としながら、苦しみながらやる抗癌剤治療というのは、如何なものか?ということになる。
 たしかに癌治療の手記を読むと、抗癌剤の苦しさと、そこにまつわる問題は、癌自身よりもやっかいだと書く人がけっこう居る。免疫力を落としながら癌を叩き、体力も気力も落ちて行く…その中での目ざす自分の肉体、自分の生活とはなんだろうと真剣に思う。抗癌剤が効いてなおかつ副作用が余りない人もいる。自分の父親がそうだった。スキルス性の食道癌末期から2年の命をもらった。
 自分は、かかった最初には、仮に複数個所の癌、つまり転移しても様々な治療して、特に、自分なりの免疫アップをして、それでゆっくりとエンディングを迎えていけばいいと…その中で治るに近い状態が奇跡的にあれば、それを嬉しいものとして受け止めれば良いと思っていた。だけれどもどうも〈免疫〉と癌の関係は、自分の考えていたプログラムの延長上、あるいはプログラムの中にはないのだと理解した。
 複数でちゃったら結構、きついんだ。椎茸呑めばなんとかなるというような…そんなレベルじゃないんだと理解した。そうした流れを理解しながら、では、どういうクオリティライフを考えたら良いのかと…これから考えていかなくてはならない。

 『音楽と生命』坂本龍一/福岡伸一(集英社)は、2023年に発行されている。福岡伸一は、坂本龍一とこの非常にきつい〈癌〉と〈免疫〉の話をしたのだろうか。坂本龍一は可能性をもって免疫治療をしていたと、『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の後書きに書かれている。それは福岡伸一の云うような実験段階の免疫治療だったのか、切り札的な何かを福岡が知っていたのか、それともそれとはまったく違う文脈の免疫治療をしたのか。それは書かれていない。

 最近、思うのだが、本には…たくさん売ろうとしている本には、本当のことが書かれていない。本当のぎりぎりまで書かれていても、そう思わせないように書くことが多い。報道もぎりぎり真に迫っている振りをして、究極のヤバイことは表にださない。

 福岡の捕らえているクリアさは、ある種、諦念に繋がるかもしれないのに、そうはならない強さと希望を坂本龍一はもっていたのだろう。
 では、自分は、どう考えるか。
つらい抗癌剤治療をしても5年生存率は50%ですよと、云われた時…
父親の場合は手術の成功は50%で、そこでいう成功は2年間の生存を意味した。50%は統計の数字で、父親に申し訳な云い方だが、ゲームで50%の確率は5分5分なので、やるし、ビジネスでも50%の成功率があったら躊躇せずやる。例え確率が10%しかなくても、10人に1人は助かるのだから、助かっている人が居るということなのだ。どっちになるか、は、運の強さと、運の引き方と、ポジティブになるかということだ。負けそうだなと思ったら、負けるのでやらない方が良い。勝てそうだなと思っても負けることがある。だから前向きになれるということが、大事だ。
 父親の場合、順天堂大学の食道癌の天才的外科医だった。家族全員の応援と本人の意思があったら、手術の説明をします。それがなければ手術も説明もしません。と、伝えてきた。父親は外科医と話して積極的になり、家族は僕が脅して全員のコンセンサスをとって手術に向った。当事者の、心の力学とはそんなものだ。統計はおそらく関係ない。自分にとって。父親にとって。生きるか死ぬかの二択だし、手術のあと、積極的に生きていたいという意志が必要だ。
 原理は統計の中で正解を出す。研究成果はそのようになることを実証して成立する。しかし自分の生は統計の中の生ではなく、一回限りのものである自分自身のものとして捕らえられる。

 しかし、だからと云って科学、医学、遺伝学を見ないで、気力で勝ち取れる病はないし、そこで民間療法といってもたかが知れている。戦争が政治、経済、地政学、戦略…というものの他に、軍事というリアルなある種分析可能な要素もあって、そこを検討した上でないと、たとえば、停戦の可能性を考えることはできない。
 
 ストレスが原因で、免疫が治療の切り札だよと示されても、それをどうにも治療に使えない自分の病の生はどうあるべきなのか、どう満足するのかというのは、また別のところに置いて考え、成立させていく必要があるのだろう。自分も10年ほど前にこのまま仕事をしているとストレスで死ぬよと医者に云われたが、そのあたりに、今回の癌の種が発生したとも考えられる。その時、どうすれば良いのですかと、聞くと仕事を止めれば大丈夫と云われた。4年ほど前にも別の精神科医から、仕事止めること出来ないんですか?と云われた。
 日常を仕事的な思考をしないと平凡な自分はやっていけないと思っていたから、日常を仕事にしていた。遊びを仕事にしていた。じゃぁそれを排除した時に自分のクオリティ・ライフというものはどうなるのか。今からそれを組むのか?(いや組まないといけないんだろうと思うが…)考えてもしかたのないことでもあるが、考え続けてみたいことでもある。
 その挙句の諦念ならそれはそれで良いことだろうとは思う。
第7章をきっかけに、癌のこと免疫のこと、生きていくことを考えてみたいと思う。

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