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中川多理 Favorite Journal/今月の[読みたい本]○『迷宮遊覧飛行』○山尾悠子 ○『タタール人の砂漠』○ブッツアーティ ○三人の女[トンカ]ムージル○川村二郎訳。

Passage ポール・エリュアール広場 2番地
から三冊の本を選んでもち帰る。

○三人の女[トンカ]ムージル○川村二郎訳


 人形についてなにか書くとしたら、これから雑誌でも編集すると仮定したら、それは、呆れるほどの不可能感と戦わなければならなくなる。人形に触れれば触れるほど、人形は見えなくなる。じっと見つめていると身動きがとれなくなる。
 人形に気を残したまま、意図的に少しそらして未知の行程(アプローチ)を捜す。資料からあたりをつける。まずホフマン…。ホフマンの小説には、そこかしこ人形が登場する。決してノーマルとは言えない人形たち。なのにバレーの演目にたくさん残されて、いまもスタンダードだ。
 ホフマンから…。しかしどうやって新ルートを開くか。
 
 ピアニストの本を思いだした、音楽と文学を対位する手法で——。たしかホフマンについても書いてあったはず。文庫を開くと、冒頭、いきない『トンカ』(ムージル)の引用からはじまる。『トンカ』の主人公が女の子の顔の上にみた波うつ蛆虫のイメージは…とピアニストは読者に語りかける。そこから蛆虫からイザナミに繋げていく。
 ところが、蛆虫の顔という部分は、こう書かれている。「その顔は蛆虫のようにくしゃくしゃにゆがんで、真向から日を浴びていた。光の中にあるこの顔の無残な鮮明さは、彼には、彼らがその圏内から出てきた死にもまがう、生の啓示であるように思われた。」
 「いまわしい蛆虫のようにくしゃくしゃに歪んで…」と、つまり[ように]は、くしゃくしゃに歪んだという比喩として蛆虫である。さらに、死と紛う(まがう)生の啓示が見られるとあるから、…顔に蛆虫が蠢いているわけではなく、そのあとの、光の中の生の啓示というのが、この文の眼目である。つまり蛆虫は生命力であり、死とか昏さの方向ではないということだ。
 
 ところで、この文庫の解説で、鴻巣友季子は、
なんと明瞭にして簡潔、ゆえに、なんと美しい文章だろうか
 と、書きだして、『トンカ』の蛆虫の部分を、8行にわたって引用して、「この本の真髄である。」——としている。続いて「朝と夜、歓喜と恐怖。美と醜。悲劇と喜劇、生と死の、何の前ぶれもない反転。」と続ける。
 これは、本文のピアニストの論考、「二元論の延長線上に位置づけられる」に同調して書かれている。
 ムージルに大きな影響を受けた、そしてムージルの翻訳もしている古井由吉は、著作『ロベルト・ムージル』、『トンカ』の項目で、
「姦淫と愛、偶然なものへの屈従と極端の精神性、このような対立物の、ほとんどあり得そうにもない共存、それがムージルの作品に不安な緊張を与える~」と書いている。

 どうやら『トンカ』には、二項が対立していて、それが小説の構成要素としても、物語の魅力の肝としても作用しているようだ。古井由吉は、ムージルの専門家でもあり…二人が云うならそうなんだろうな…とは思いながらも。
 ぼくは、きっと違って読めると変な自身をもった。ただただ面白いなと予感するのみで、『三人の女』を選ぶ。

○『迷宮遊覧飛行』○山尾悠子

○『タタール人の砂漠』○ブッツアーティ


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