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切れ目がないのは生きてる証拠

いつだったかの主人との会話から再び「ミッドライフ・クライシス」を思い返していた。

私は自分が「思春期のような…」と触れたこともあるのだけども、実際にその状態をご自分の体験時に、その様に表現した俳優さんがいたんですね。

そんな事からもやはりふと、引いて「見方」を変えて現実的表現をすると、

・新しいステージに突入していた

・自分の中の言葉を使ったら”過去から引っ張ってくるけど、外の情報で「進化中」という事が解った

というような事が判明する。

この私のアタマの中のボヤ~んとした映像を出力できないのが悔しいけど、せめて言葉で近づけると、きっかけは何でも良くて、起きた事の”名称”も何でも宜しくて。

ただ今までの自分とは違う、自分を創り出していく時、バラしたものを再び組み立てるのが殆どなのだけど、バラしたから細部が見えたものもあり、メンテが必要な事はメンテして。

そして、”もう今までの自分じゃない”というこの感想をどの世界から持ってくるか、という事によっても印象が大分変わる。


相変わらず私は、ムリにしない、やらない、というスタンスを持ち、静かに自分の状況を眺めている事に変わりはないのだけども、例えば、「ゴール間近で壊れた」という捉え方をするのか、「新たなステージに突入したばかり」と捉えるのかは、知識(情報)というものが自分に大きなサポートをしていると分かる。

私は自覚の部分では「変化する事」にあまり抵抗がない方なので、「変わる」という事へのときめきが常にある(根柢の”凝り固めたモノが一切ない”という事じゃない)ので、知っている事でドツボに嵌らなくて済む。

『届かずに倒れた』という印象と『始まりに到達できた』というものでは当然、自分に対して、その後に続くものが変わってくるから。


例えば「老い・老化」であるとか、「中心でない”輝き”」という事、過去の栄華に魅力を感じているならば現状のソレは一見残念な事なのかもしれないけれど、私はあまり(自分の)過去の栄光に浸らない事、(言われても)中心を避けたい事など、性格的にラッキーと思う。

そんな事より「変わっていける事」の方が単純に楽しいという部分があり、”新しいステージ”というだけで心が明るくなる単純バカなので、惜しい事でもなく、”またひとつ「自由」を手に入れられた”と満足であ~る。(何度も書くけども、”変えたくない”という安住も当然持っています。)


そして冒頭のミッドライフ・クライシスを考えた時、このタイミングで尚も「外側に付けて何かを発して行こう」という状態だと、苦しいだろうと私は考えている。

人のやる気は人それぞれ差もある事だからそれもエネルギッシュな人には合ってるでしょうけども、私は向き合いの過程で、「付けるのではなく、削ぐ」という事も意識してきて、その結果、出すモノは「自分の中からのモノ」と、必然的になる訳で、これが年齢的にもタイミングが合っていた事になる。


そんな”人生の枠”なんて知らないし、意識して生きてきた訳じゃないけども、きちんとその様になっている、そう運ばれてきている、と思うと、下手な抵抗をしなければ自ずとソレに気づいて、流れの導き通りにしなやかに過ごしていくだけなのだ、と感じる。

”視えない世界”的に書く事もできるこの内容全てを「現実世界」の話で表すことが出来るという事は、モノコトは全てどちらにも、どのようにでも「表現」できてしまうという事。

”表現”というのは色んな出力のカタチ。

私には画的な才能はなかった。そして体力的にもこの先に期待はしていない…一つに絞られた言語を使って私は好きなように外に表していく。

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今までの経験という蓄積されたもの、色々な経験からアップしてきた力というものがあったとしても、逆に下がる力もある…肉体的なもの。

以前に振り返ったように、「なんか疲れる」と主人と互いに話していた夏ころの感覚は、ただのつぶやきじゃなかったと、流れを見ても感じている。自分の体力に不安を感じた事がなかったからこそ、このアンバランスな状態も初体験だった。

あまり詳しくは知らないけれど、そんなに抱えるものも多くなく(他を知らないけど)2人して”転換期”という事もボチボチ会話に出しながら、「またここも抜けていくから(*^^*)」と、静かに先を見ている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!