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体験している様々

何と言うのかね。
例えば何かが「分かった」状態がやってきた時、それというもの自体について「わかった」と理解する。勿論そうなんだけど。

それがぼんやりと、逆の方、全体の方をまた連れてくる。だから「こういう事が言えるか…」となるんだろう。

そしてまたこうしてワン散歩中に感じたことを抽象的な書き方をしていると、引き出されてくる「対」の言葉。先日全く別のことでそれは書いている。

こうやって、次々直接の”事象”は関係のないことを、だけど「関連すること」として、背景をうっす~い繋がりの括りから表に現わされている。表のことは”関係ない”し、その自分の中で紐づけられるソレという働き方を観ている。


昨日の記事の終わりの所から流れている、主人とやり取りしている時の自分。

ワン散歩中、それをぼんやりと思い出していた。

⦅感情が出やすく(掴みやすく)なった…と思うけど、昔から私は感情は出す方だし…何が違う?⦆

そうした時その反対、”対”を視ていた。

⦅あ、あ、なるほど。昔よりは頭を使って冷静に考えるようになった、という事か(笑)冷静の域に行くことが増えた事によってその割合は変わっていて、だから”たまに”感じる激しさのあるコトが、印象的になるか…⦆

そんな風に感じた。

主人と会話する中で、殆ど「そうね~」「なるほど~」なんて流していくその中で、”カチン”とくるという事は、とても分かりやすい”自分側”の範疇の話でしかなく、それが観やすい状態にあると思った。


そしてその反応を真っ直ぐに主人に返すことで、今度は主人が”何か”を考えている。互いが相手の反応から、”自分の中で”考え、次からの動作に繋げていく―――、まるでワン達が私の動作から学ぶのと同じようにも観えた。

動作に繫げるそれがある一方、自分の中の処理を直視できる状態がそれぞれにあると感じた。だから互いにそのまま自分を出せるし、その反応”反射”をその場で受け取ることも一応は可能な状態であって、それの処理までの流れがセットになっている。

昨日の記事の中で「自分を抜く」という事を書いたのは、昨日の様に具体的にそこにあった事を書いている「”その時”の状態」を観た時、そこには”自分が”入っていないと感じることから。器官の提供のみ。


という私の中でこの表現をしているという事は、この場合の「自分」という存在は、思う・考えるをする”私”という状態の存在のことになる。

流れという”その働き”になっている時というのは、私は存在していなくて、後にそれを確認した時に「その流れ・感覚自体になっている私」と、表現したりする。とすれば、「私」というもの自体が、塊となっていないモノということもみえる。

今までの塊よりはバラバラに、小さく分解している様子と、また逆に創られる様子と…。「両方」がいつもあって、ここにいる。

・・・

(メモより)
チケット―――
ワクワク―――

と、一瞬で目に収めたそれを瞬時に「スクワット」と最初に読み込んだアタマ。脳のハタラキ。

脳がバラバラの情報をつなげる様子、近いものを探し、不足は穴埋め…、そんな色々をそこに感じていた。


”言葉”で括る前の段階で”読み込む”、そしてその後に「読む」という動作を通してきちんと単語としての塊で区切って”普通に”読み込む。頭にある既存の情報に近いものと結びつけるために、”ない”ものは勝手に足して”理解できる状態”にされる。

このハタラキを意識してやる人はなく、機能としてのハタラキのままに結ばれるもの(こと)がある、きちんと確認(再読み込み)をしなければ。

それが「なに」か、「どういうこと」か、という事は、確認しなければ分からない。ワン達がただ動くものに反応して吠えてしまう事があるのと重ねてみる。

この段階を踏めるのが、人の利口さであるのだろうと思う。

・・・ ・・・ ・・・

《考え方/観え方はしっかりと変わる》

*全て”私”に繋がっているものという長らくの解釈から、きれいに「自・他」の分かれ行くところを、主人を通して見ている、そう感じる。

今までの”一緒に”という何か混じりあったような状態から、各・各という個にしっかりと分かれ始め。自分が立っていくそのプロセス、流れの観察。


内側から(中から)変容していく様子を、自分の内に感じながら、だから今までの”自分が持っていたもの”もよく観えて”明らか”になっている様に思う。

自分と他者という関係においての関りが、手に取るように明らかになる。

そしてその受容はここから。
ここが「体験」。

・・・

始めに書いてしまうと、もうこの”話”は結局、「どちらからでも良い」ということになるのだけども。

事象が起きて、それぞれの相手に対しての接し方が自然に明確に変わり、今こういう状況になって来たのだけども。それは、その”事象”がきっかけという様に、気づいた時点から考えればそうなるのだけども、その「前」までの、事象が現れてこない”状態”から流れてきているものがあって、結果的に気づく位置まで上がってきた、と言うことも可能で。


だから、両方を押さえた時点で「解釈はどちらでもいい」と、結局その言葉になってしまうのだけども。

結論自体はとても簡単な一言で終わってしまうのだけど、それを導き出すまでが長旅になるもので、その道中の色々を拾ってそれらがこの世に”表現”しているわけだけども。

過去にも書いているけど、”傾き”をつけなければ動かないので、結論を知った所で、「じゃあ初めからどちらもなくどちらも」としてしまうから、しっかりと傾斜せずに顕現の世界で渋滞する様なもので。


頭をインスタントに使い過ぎることの弊害はあると、私は思っている。利口である事は、何かをその場で導き出せる利点と同時に、何の寄り道もせずに空間を拡げることで創られる世界を見ることがない欠点もある。

動くから視界が広く取れるのであって、動かなければ視野で終わる。

どちらが良いと言うわけじゃないけども
世界はきっと広いんだろうと思う。

・・・

*全て”私”に繋がっているものという―――

これは、もう少し書きたいのでまた別で後日に。


「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!