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自信が湧かない状態もある

これは私の、向き合いの”メモ”から続いてる内容なんだけど、これでも解ると思うから途中からザっと書く。(脳からの事を主に観ています)

(ほら、私今日、定期的に食べている、レバニラを頂かないといけないからさプププ('ω'))

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言葉だけでなく、心から感謝できた、「ありがとう」と思えた、今までは。

今、同じように”心を入れよう”としても、いや入れても、刺さっていない。「言葉だけ」に近い感じ。

(↑は、鏡の前で対象へ”意”を向けている時に感じた力の弱さ。実感が弱いという意味)

要は、「心が通って(とおって)いない」から、実感という手応えを感じる事が出来ない。

「その状態」にないと、それを”幸せ”とも感じる事が出来ない(実感が薄い)。
※その状態→環境じゃなくて、そもそもそれを感じられる「自分のカラダ」の事

だからまずここに、大きな境がある。

弱っている状態とは、そもそも本人の意思の問題でなく、身体の性質・造りの方にエラーというか、”個性”があるかもしれない、視えない部分。それを無視して、外から「情報」を与えても本人は苦しいだけになる。”本人の意思”でない、性質の話だから。

世間一般で言う、例えば、「ポジティヴを探す・向く」というのは、意思を使える状態の話であって、それが周りは勿論、本人も自覚できない所を置いてけぼりの話では、非常に酷に感じる。


少なくとも今私が、正論を言われても、(心で)反応出来てるのか、自分の意思で”よし!”と、力強くそっちへ持って行けるかは、普段と全くレベルが違う話だと感じている。

「ネガティヴしか観れない」というより、「そう感じないんだから仕方ないじゃん…」という一見拗ねたようにも思える。

本人の意思による元気な拗ねと、出来ない状態の拗ねに見えるもの、は、違うような気がするけど、どうでしょうか…ね。

(”守りたい心”があるから、というものの存在はある事は解っている事だけど、ここはそれ以前の話)


書きながら思ったのは、”自信がある”とかいう事も、これは本人の中において「そう思っている・思える」事だけども、「実感」という感じる心の反応が鈍い・弱い状態というのは、とてもじゃないけど自信など湧かない。

冗談抜きの、堂々と見える(かもしれない)私でも、かなり弱さを感じる➡弱さ実感してしまう(≒自分の中の弱さと共鳴する)という所もあるように思う。

「心が弱っている」という所の原因の一つとして、大いにある事と思う。心(感情)と、脳(ここでは思考的)な事は、キッパリ分けられるものでもないから”連動”なんだけど、「考え」でまとめられる事というのは、働きとして見えてる所の話であって、個人の見えない造りの性質は、加味されない、ちょっと難しくて複雑な事かな…と感じる。(診断がつく、つかないの話ではなく、”身体の個性”という所のこと。)


世の中で、「それは○○が隠れているから」と、多勢が言っていても、本人にとっては自分の自覚できている(実感している)部分がいつも”真実”であって、自覚できない部分は”ないもの”だから。故に本人はいつも真実しか言っていない。

また、”ないもの”部分を判っていても、抵抗したいのが「私」であって、どちらも私として存在するのに一致はしない”混乱”。丸呑みできる人は器が大きいのだろうな、と想像する。

人は知る事によって幸せにもなるけども、識る事によって、複雑にもなる。私はそこに疑問を感じてしまう。考え方は同じに出来ても、その「対象」がそもそも同じではないから。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!