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仮面をつけた○○

どの切り口から書いて行こうかな…、と思ったのだけども、一番軽くスラスラッと出てきた「お蔭様・感謝」の括りを12/26のメモから。

(補足を入れていくと2000字は直ぐに超えてしまい、今回の内容もまだもう少し”詰まる”状態。少し長めです)

(メモ)
【”ありがとう”と言えなかった】

・嬉しいのに
・欲しかったのに…

「言えなかった」事が朝からスルスルと浮かびあがる。

養老さんの話を少し思い出した。

「(病床のお父様に)”さようなら”、って言えなかった―――。(その後)挨拶が出来なかった(苦手だった)」

最後のお父様に言えなかった…というエピソード。


私のそれは直接関係する事ではないけども、意識はそこに紐づけた。

『ここで感謝、「親」への感謝が出てくるのか…と朝から涙がこぼれた』



『何に対して?』

そう思うと、答えなんてなかった。

『存在、なんだろうな…』

それしか分からなかった。

『ありがとう。パパ、ママ』

またひとつ、とかされた。

・・・

この時書きながら、他のシチュエ―ションも浮かんでいて、相手は両親だけでなく「人」に対しての事だった。その時同時に視えていたものそれが、「自分を優先にする事」という”状況”だった。

(今回の話しは一先ず「感謝」で括って行きます)

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(メモ)
多分、寝る前に少し分かった事があったから。そしてそれがとても重要だった。

”見える人”に感謝じゃなくて、”見えていない人”に感謝が続いている事にようやく気付いた。

本当に繋がっているか否かなんて、どうでもよい事実として、「目の前にそれは起こり続けている」という事を、ただ観れば良かっただけだった。

ここに、”見えない仕切り”を見た、と思った。

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(メモ)
一時だけ、今だけかもしれない。

「人」という対象への関心が薄れている様に感じた。

いや、人がいなければそれも分からないのだけども、「人」それ自体への関心ではない、という事が少し分かったように思う。

この日の”メッセージ”は、
「人からのヒントで視野が広がる日」だった(笑)


メモ=表側へ出力した内容から、私の背景を流れるモノをまとめていきたいと思います。

「感謝」。してもらった事に対して、判りきっている事に対しては当然の事なので触れない。そういう話ではない。見えない所に踏み込んでいく内容。

「両親に対しての感謝を○○個書く」とかワーク的な事が存在していた事も知っているし、過去にやってみた事もある。そして、「両親への感謝が大切」という事はどこでも言われる事で多くの人が知っている事…理屈では。


私自身が、理屈(知識)から脳の回路をあまり回さないので、心底そう思わなければやらない。”私”というモノに従い続けてきた・・・。そんな中でのメモ、そして重要な朝、間もないタイミング。脳がまだしっかり働かない時の出力は重要だから。


その湧くままの色々をメモして、見えていなかった「感謝」を炙り出された所だった。

両親に対しては、「○○だから感謝」という様な、何かをしてもらった事に対してではなく、純粋に「存在」というものに対してだったので、余計に良かった。父は今年亡くなっているけどもそれは関係のない事。

それは「好き嫌い」を超えた所にあるただ「あなた(達)でいてくれた」という所に近いのかもしれない。これ以上言葉を付けると美しすぎて嘘になるので、これはこれで。


「見えていない人達への感謝」。
正直言って、これに関しては私自身が観えていなかった。まだどっぷり”理屈”の中にハマっていたと実感した所。

言葉では十分何度も現わしてきている。そこからズルっと肚に落ちてきた状態だった。


もっと言うと、「感謝」という言葉を使いながら、それは表に感謝の仮面をつけた中身は「安心」として、私の中に存在させていた様に観えた。メモの段階ではソコまで詳細に捉えていないので、少し時をズラして観たらば、の話。

「その存在達によって自分が安心できている」というのは、勿論否定するものではないのだけども、私自身の在り方として、「ストレートではなかった」という事が確認できている。


そして、その方々が、私の存在を知ろうが知るまいが関係なく、ただいつもの様にシンクロしているその”事実”だけをしっかり観れば良いだけだった、という事に気づく。

目の前を観ているようで観方が甘く、思考フィルターが挟まっている事をこの目に見せられた、と感じた。

この括りに於いては総じて、「”人”を見ているのではなく、そこに”在るモノ”を取り出している」、といった感じ。それが、「人それ自体への関心ではない」と表現した所の様に思う。


「感謝」という事に関して。

今回、私自身がこの当たり前の”感謝”というもの(言葉)に関して、少し違和感というか疑問を持ったように思う・・・、自分の感覚から。

それは、確かに「有難い」という事の意味を含む素直な感謝というものは存在するのだけども、それとは違う、私が感じたような「感謝仮面」を付けた沢山のモノ・コトが隠れている様に思った、という事。

感謝して悪い事などない、最高の言葉として存在している。


それはそれとして、少し奥まった所に言葉を付けると、表(この現実世界)での事象がただ世間のソレと類似しているだけで、実際はそれはやはり”上っ面”なので、「皆の様に素直に感謝が出来ない」というのは、その当人にとって「正しい」のではないか、という事。

今迄私は、自分自身との間に摩擦を起こさない事を目的として、「感謝できなければ無理してしなくていい」と書き続けているのだけども、今回は少し違った視え方があった、というもの。


とすれば、誰かは似たような事で”感謝”できて、互いのソレに”共感”できるけど、”私はできない”というのは、大いにある事と感じた。

もう1つ加えるなら。

「その、感謝する事によって”自分自身がメリットを感じない”という事を、深い所の自分は知っているから感謝できない」、という事もあるかもしれない。敏感な人は表の自分がそれを何となく感じるのではないか、という事。

有難い事には考えるも何もなく、自然と言葉が出たり、身体からの反応があるものだから(*^^*)

(メリットを感じない=本質の目的を得られない)

・・・

そして昨日は。
主人との会話の中で「スルスル」と、主人に説明しながらその言葉を「自分に届けている」事がハッキリと分かる聞こえ方をしていた。

シンクロ。
「あー、そういう事だね」

追い続けてきたシンクロが思い切りピタッとハマった。
(それはこの話が一通り終わってから書きます)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!