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後につなげていく

ちょっとメモが散らかってしまい…
だけど、これとこれは繋がっているよなぁ…と、それらを並べていく。

そりゃあ繋がって当たり前だ、この私の背後ではみな繋がっているものになるのだから。

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表の動き、”表に見える動き”が、「動き」であることは確かだけども、内側を(深く)動かす、というのは、表の動きとは違う”即戦力”にはならないけど後に紐づいてくるもの。タネ、起点という元になるものと思う。

表面を動かすのは、この元の部分からなので、「ここが」変わらなければ今までの延長、”変わらない”のと同じというのはそういう事。

その”ここ”を、直に触っていく行いは、今ではなくそこからという”今後”へ向うための動作で、今に結果は見えてこない。だけど必ずそれは尾を引いてくる。触る部分(動かす所)が違うというのは、明らかな結果の違いを生む。

層の違いとは、「脳の動かす部分の違い」と同義と私は思っている。

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以下は、先日と同様に、この自覚する”私”から見る「内・外」に触れているのだけど、そもそもこの”私”が位置を変えてしまっている時、その内外すら「表現は逆」になってしまう。合っているのだけど、言葉の範囲で見ると意味は捻じれてきます。。

「ここ」という所から流れを表すと、どうしても「まとまって」しまう。キレイになってしまう。

そのままは、”その時”にしか現わせなく、そしてその時より具体的な場に近い表現が多くなっている。そしてそれらを「ここ」という過ぎた場所=現在、という所で表すには、その時を少し不自然と思いながらも、「曲がってしまったりの”キレイな形”」として表さざるを得ない。現在という所においては、キレイな状態の方が読みやすい(捉えやすい)という事が効いてしまっている。


だから。
キレイ、まとまりのある”表現”は、もしかしたらこういう理由もあるかもしれない。”読む”ためにキレイになってしまう…。そんな不自然が生まれるのは、時がズレているからかもしれない。

少し角度を変えて書くと、その時という現場に居る時と、現在という場に”私”がある時と、現場から離れるほどに「キレイになってしまう」という事だ。

これはヨコの軸でもタテの軸でも採り方(見方)は広く可能。もうその時点で、「”現場”じゃない」という事が理解できる。そして昨日・一昨日のnoteで、「少し奥側を書く…」としていながら、昨日のnoteを書き終えて、何度も読んだ私の印象は、「前日のよりも、スッキリしちゃってるな…?」だった。


この意味は、一昨日の時点で奥側と言ってる時は、その場(時点)から見て「奥」に見えているその場を言っているわけで、もっと表現的にはボヤケたイメージで記されると思っていたものだった。それが、昨日のnoteの確認後では、私には「キレイな印象」が残った。前日のボヤケが、ここにある私にとっては、クリアな場と認識できる場所に変わってしまっているということ。私の「目線方向」が変わってしまっている。

一昨日の方が、それは文中に現れている、という見え方になる「逆」現象。表せば、その事は露わにならず、表さずに現われる。表現したことで同時に観える(奥側の)ヒョーゲン。

”逆”の話は、もう昔から、そして確実に私に意識されていること。これを、思考するアタマ、”私”にすっかりハマってしまったりしながら、逆へ行く・観るをしたりの往来をしている。

【表から見てあらわる裏側】これ正に。

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「言葉」を中心にしてモノコトをみていると、多くのそれは、同じ方向から見ることになると思っている。言葉はそこに動かず、アタマの中で意味を繋いでいくような作業。

人は、アタマの中に”向き”を持っている。だから一方向とか、居場所が変わるなどの表現が出るのだと思う。つまりそれによって必然的に”目線方向”は変わってくるわけで、そのコトの位置づけを変えてしまうのでなく、自分という”観る側”の場所を変えている。「人は脳内ではっきりと自由に動き回っている」という事になる。

その事から、「言葉を中心にすると、同じ方向から…」という感覚が際立つ。言葉は、それ自体がひっくり返ることなどなく、それを捉えるものによってその様になる。詳細に言えば、その言葉への入り方(その方向)は、その「個」によるバラつきがあるものと言える。

さらに、そのバラつきこそが人によって様々に結んでいるモノコトに相違があり、まったく異なるニュアンスで当然に使われリゾーム…。

”その時”の場は、もう既になくて、表現されたことによって次々とただ広がり、その時のことにフォーカスをおいていないと、どんどんと流されて、その時の形は変形して表面を流れ続ける…。

だから、表同士で繋いだことが”因果”とは言えないものが多いと感じている。それは短絡的になるから。考える時に繋ぐなら「縦」だろうと思う。


(書き終えて)

”意識”という目線で観るか、そのコトの移動を観るか…、という事になるのかな、と感じた。(脳内での)目線の変更か、コトの保存場所(繋ぎ方)によってそう観たかの違いを、事象からハッキリと示すことは(ここからは)できないと思った。

焦点を絞れば意識は強まり、緩めて”両方”が上がるため、別目線も視野に見え出す。しっかり”書いている”という時は絞りが強く、(一昨日の)そこからボヤケとして見ていた時とそもそも異なる状態を、私に作ってしまっている。

脳の機能的に、働きが良くなる事で、その裏側のデメリットも手にする事になるので、目指すものが強い程にゆるく、意識に意識させない様に決めることの工夫の余地はまだ大分ある。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!