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正反対の世界

この「出力」に関係している事、こうして書くことに繋がっていくこの流れが必要な時は、直接関係ないと見えるそれも挟んでいくので、少し内容はスマートでないかもしれない。

ただ出力するその時の感激とともにいつも陰を支えるのは、この”流れ”だという事を私は痛感しているので、こちらがとても大切に思っている。

・・・ ・・・ ・・・

昨日の記事の終わりに、
(少し、引き出し切れていないものがある様に思う。気づきに上がったらまた後日に)

と書いて日中はそれで一旦閉じた。見たいもの・目を通したいものがボチボチあり、あちこちに気を散らしながら。

昨日の記事に書いたようなその事の世界に頭を突っ込み、そこから微かに浮かんだものを走り書き…、これもただそこから言葉にできるものはたったこれだけだった―――。

走り書きメモ/ここから少し入っていきたかったのだけど、裏に回るようなその感触に諦めた。

相変わらず気を散らかしたまま、パソコンに目をやったり、音を聞いたり、このメモを読んだり…その後に始まる。

以下メモより。

(そうか…)
前頁、”見えない部分をつないでいる”。
どう言うのかな。心が休んでいる(寝ている)時に、その動きを見ていると言えるのだけど、見ているその時の「私」自体に心がない状態で(寝ているから)映像を見ているのだから、何か激しく、動揺するわけでもなく、表現すると心=映像自体が”私”、という感じか(?)

この表現はまだまだ、何か重なっている状態と思う。まだ剥がせる(分けることができる)。そして浮かぶままのこの表現から今、覚醒しているこのわたしが見るに、起きている時の”観る”は余計な自分の動きを止めてみている状態を作っているわけで、その次の段階で目の前にあった現実、映像は、思いや考えの域に入って行く。だから入・出力のあいだの”・”の部分、どちらでもない、静かな静止、どちらにも入れる体勢なのかな?


(一昨日のfacebookの)”映像には、そんな事は書いていない”は、普段その映像、現実という世界でモノ(コト)を目にする時、いかに頭の中のデータと重ねられて見ているかという事だ。つまり、記憶と重ねてしまうこと。

このfacebookは、朝のその時に思ったことをポツっと書いているだけで、今こうして書いている内容のことを思っていた訳じゃない。だけどこうして覚醒時の私は、その”過去の私”の残したものから、何かを考え、こうしてヒョーゲンしている。

”過去の私”は、もっとシンプルに単純に、「どうして―――だろう」と、ただ思っただけだった。朝の頭の精一杯。

考えるのはこの私。

受け取った材料をこちらで咀嚼、考えてまた未来のわたしへ。

・・・

湧いたもののメモは、アレコレ考え出したら終わり。例えばこれじゃおかしいか…、間違っているか…など。湧くものは湧くままに捉える。この自分に考えさせる余地をそこでは与えない。やるのは一通り出し終えてから。

明らかな表現間違い以外のことは、極力”温存”。その湧き出す状態の時の脳内でのつなぎ方は、”別もの”という位置づけでも良いと思う。この考える「普通の自分」に見せれば、体裁を整えてしまうのは分かっている事で、それはそれが必要な時に行えばいいことと思う。

温存する意味は、その背景というか、体裁を整える自分がよく分からない、あまり規制されないそれを、脳がどのように繋ぐのかの経過を観察するため。ここまでの過程でも極力、「“自分”を抜く」という事を行うことになる。


分かる範囲に持ってこない。自分が分かるという事は、いくらでも自分の中で、いつでもできる事だから。だから、意図せず湧き出しているものがある時は、邪魔をしない。

これは余談で、おもしろいと思うのだけど、こうして「わたし」という一人の中のことを分けて見、書いているのだけども、書きながら、自・他という私と世界(自分以外)と重ねて見ている。まったく同じことが成り立っているから。

で。
”引き出し切れていない”という感覚だけは、この自分の中に感じているので、一旦離れる”放置”。それでもし、その後に続くと思われることを掴めなくても、この動きのクセ付けの方が大切。思考の域に入ってしまう事は、一度や二度で抜け出せる訳じゃないから。

・・・

(lineメモ3つ)

Facebookを受けて)
かなり言葉にせずに繋いでいるため、その”表示”からの意味では、まったくコトが説明されていない事が分かる…朝の頭はそんなか。

という所から、言葉は意識が(?)表に寄るほどにその空間を埋めるようにする事ができる、か。

脳の状態(ハタラキ)によってその様になるというのはここでは置いといて、”重ね”が多い状態は、それだけピンポイントになる=焦点が合わされている、ということか。

とっても良い夕寝だった。
夕寝は夜の就寝と違って、やはり眠りが浅い。

呼吸が止まるのを一々確認できたり、大きなゆっくりとした寝息が耳に届いていたりと、その状態が心地良い…、これをある意味求めてるかもしれない。

そして、頭の流れを結構しっかりと見ていられる所も。これは朝起きがけのそれにも似ている。夕寝の映像は、その寝る前のコトが反映している事が多々ある様に思う。「あっ、さっきのやつがこんなにきれいに(おもしろく)まとまってるんだ…」と、表というか、(私の中で起きていた)自身による問答がスリムに、ウィットを加えた形で仕上がって少し流れていた。

映像はすぐに消え、思い出さないけれど、思い出したいより今はその経験自体がおもしろいと感じている。これが夜とは違う夕寝の醍醐味。

明・暗
夕寝に入る前、入る頃。手を瞑る目の上に置いていた。

寝入ってしまうと重くなるため、あまりやらないのだけど、ワンの移動の気配などで意識が何度もこちらに戻るたび、またその世界に入るのに、明るさがあるとさっきとは雰囲気が異なり(戻る世界が違うと感じ)、だから手を置いて暗さを作った…、すぐに戻れた―――。

・・・

と、湧くままにメモしたその最後は、解釈が逆になってしまっていた為、省いた。ここからも色んな事を感じる。

無意識にある、バラバラなものを弱い線で辛うじて繋ぐ、と表現して良いのかな、そこではこの覚醒時の自分=その”頭”、が働かないことにより、あまり正誤判断がなされていない。それをそのままに、この普段は起きている自分(頭)が休んでいるから、奥で、いつも別で行われているソレを、このシーンでは黙って観ているよう。

こうして流れを書くと、殆ど明確な事が炙り出せていないこと、書けばまたその奥を感じ出すこと。そして時間の経過でそれは雪だるまのように増え、元の状態(感覚)からどんどん離れた“思考”になっていく事が経験上分かっている。

読み返すと、既に1日の時のそれ(状態)はあまり反映している様に思えない…つまりそれが、引き出す場所がもうそもそも違う、ということなのかな。

寝ているその中/起きている時、の頭は明らかに場所が違うので、本当に表現的には「逆」になってしまうこともあり得る。

その向きをきれいに揃えているのが、覚醒時のこの頭なのよね。

(長くなってしまったので、明日書き足す形で終わりにします)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!