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出来事をきっかけに

エネルギーをセーブしたいのか、単なる怠けかは少し置いといて。

「何か」という事に対して起こる自分のアレコレは、大抵摩擦によるもの。その”流れ”に抵抗のない状態、そこに乗れる・流されることができる状態で大きな摩擦は起きないのだから。

外の何かに触れる時、私には自然と湧く思いや考えがそこにある事を確かめた事は、昨日のnoteで書いたのだけども、その上で今回は少し奥側を流れるものを書こうと思う。

”現場”という現状に対して、何か対処をしていかなければ、放置して片付く事はないのがリアルで、それは行うことは当然だけど、一つ一つ、色々が変化し続ける現場に対し、何も感じないのではなく「当たり前に感じる(思・考する)自分」がいるという事は。

自分の中にそれに対して思考することが可能な”経験”があるということ。もう少し砕くと、具体的に、直接の体験でなくともそれらの”コト”の点を結んでしまえるような思考ができる…”経験”がそこにあるという事。


そのこと自体もやはり悪いわけではなく…、と、色々書いていると「それ自体が悪いわけじゃない」と書くことが多いのだけども、要は、「目的・目指しているモノコトが違う」という事になるのだと思う。”悪くない”のならばそれで良い、というシンプルな考えで小さな一つの出来事の解は出せる。

この月を活かして、前へ挑んで行くこと。このひと月の進み方として自分にスイッチを入れているので、その様な動きに意識は進めてくれている。だから起きる現象を、そこに紐づけて考えている(と思っている)。そしてこの行いは、いつでも他の月でも実行する事はもちろんできるのだけど、人はそんなにいつもいつも”前進!”なんて熱くない(笑)少なくとも私はのんびりしたい思いがある。

それがそもそも「(固定して)自分を落ち着かせたい・安定状態」な訳で、それを私が静かにスイッチを入れて始まった流れに、私が自分で決めてそのモードへ入って行ったものに、実際の実動ではきちんと”抵抗”が出るという。外の出来事をきっかけとして、自分の中のせめぎ合いを見る。


自覚するこの自分が決めたこと、いざそれを進めて行くことで”抵抗”に出会うことは、過去にも散々やって来たのだけども。そしてその学びから静かに緩やかなスイッチにしているのだけど、実践に入るとその”キワ”では、両方からの”違い”に、摩擦で消耗するのだと思う。☆(”両方からの”は、意味的に納得しないのだけども、この言葉しか今の私には付かない)左から”私”の波(→)、右からその事象の受け取りの波(←)と、交互に揺さぶられるようでもある。☆

どれだけ理解していても、そこに収まろうとする自分は必ずある。普段はそれで良いと考えていて、でもそれだけでは自分は全く更新されることなく外の世界を、”いつも古い自分から”見ることになるだろう…と、こういうタイミングを活かしている。

私個人に寄せて言えば、気学という9年のこのサイクル単位で過去を顧み、若い頃は当然そんな事は知らずに過ごし、二巡目は気学を少し知ったことにより、「どこか私が苦手・嫌いとしてきた”この空気”は、自然に避けた人生をしていると気づき、次は活かす」として、初めて意識に上げた上で入って行った今年の”三碧の気”だった。

過去を振り返り活かすのは、私の星の得意なことでもあるけども、それはともすれば「後ろ」への意識が強くなるとも考えることができる。自然にその傾向になりやすい自分にとって、外から受けて対応していくという事は、この積み上げている私自身を眠らせることでもあり、その拮抗がきつかった。


考えるには、この習慣づいた自分の頭で考えるしかなく、気をつけていても目の前のことを見ているようで、ほとんど記憶の再生で回す日々。同じ所しか使っていない。それが少し引っ掻き回される―――、”キワ”はそんなイメージだった。

期間を限定しているから、その間はしっかり臨んでみる。以前にも少し触れたけども、気学に限らず占星術など何でも、ウソ・ホントと判定するのは個人の自由なのでどの様でもよいと私は考えるけども、これらの事は、この何もしなければ確実に自分の枠内に収まってしまう自分という存在を、その外へ引き出すきっかけにできるもの、と思っている。

人は小さなきっかけで動き出したり、やってみようかな…という思いになったりする。そして確かに”その時”という同じものは二度とやって来ないのだけど、ある程度大きなサイクルで区切って回しているそれらは少し塊を大きくしているものなので、”同様の事”を待つことが可能。選択は習慣化されているものが自動的に多くなるので、”流れ”を活かして”それ以外”を取り込んでいく、という考え方。


自分の好みというものに頼ると大きな偏りになる。それは個人で持っている事は良いのだけど、少しずつ他の「氣」というものに触れている事で自分の中の多様さも増すのだと、私は思っている。

そして、そうしても絶対に「わたくし」という存在は消えたりしない。

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まとめているので、一方向のきれいな印象になってしまっているけども、知らない所から知るを経て過去を振り返り、大まかに流れを掴んでまた何年か経ち。やっと現在という場所で前から来るものを捉えていけた経緯あり。

境界というしっかりとした線引きが必要な場面もあると思う。逆にそうでない事も同じくある。その時々で、その在り方が合っているかどうかは、自分の目的によって替えることは可能。

もし簡単に変わらないのだとしたら、その行いを貫く理由が自分にとって大事な”目的”になっているのかもしれない。そしてそうならば、その目的はもしかしたら、この今目の前のことでなくてもいい、”他の事”でも解消される事かもしれない。

”目の前のことはフェイク”。

これは、この陰にある自分の在り方が、この表に作用している事が主だから、その様に表現している。

【☆ー☆間のそれは別で書きたいことの為の印です。後日に】

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!