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人生の不条理について

人は現在への嫌悪と、未来への憧憬を糧に生きることができる。

しかし、この社会を生きる数多くの人々は、「今は苦しいが、未来はきっと楽になるだろう」と自分自身に対して暗示を掛け、現在の苦しみを耐え忍んでいる。

人間の苦悩や苦痛は耐え難く、未来に対して希望を見い出す先送りにより、人は現在の辛い状況を乗り越えることができる。

我々の生きる世界は古今東西に渡って残酷かつ不条理であり、道理に合わない冷酷な現実がその手を緩めることはない。罪のない善良な人が、道を歩いているだけで暴漢に襲われ命を落としたり、ある人は障害や重い病気を持って生まれ、生涯に渡ってそのハンデを背負って生きなければならない。人間は常に不条理に遭っている。

人生の全てに意味があるとするならば、このような不条理な現実に意味を与えることはできない。

意味があると仮定するならば、その命を落としたり、ハンデを持って生まれた人々には因果応報となる落ち度があったのだろうか。いや、断じて違う。

人間は生まれながらにして不条理な存在であり、われわれは生まれる条件を自ら選択できない。わたしたちは国籍、時代、人種、性別を選んで生まれてくることはできない。しかし、その生まれ持った属性に優劣はない。

また、わたしたちは先天的な選択の自由は持っていないが、その与えられた選択に対して、どのように選択するかという後天的な選択の自由は有している。

与えられた運命に抗うのか、その使命を自覚して、その運命を甘んじて受け入れるのかは、わたしたちの意思に掛かっている。その不条理に抗うことにより、人間の尊厳は保たれている。動物は人間とは対照的に、自分自身の運命について自覚し、思い悩むことはない。動物は自分自身の生存の可能性をわずかでも高めるために行動し、自分自身の置かれた環境に不満を漏らさない。彼らは自分の運命を認識する力を持っていないが、弱音を吐いたり、現実に絶望して自ら命を断つことはしない。(もちろん例外はあるが、ほとんどの動物は自殺しない)

それに対して、人間の社会に自殺は付き物である。数多くの人々が自殺を真剣に考えたことがあるし、実際に行為に及び、完遂してしまう人も少なくない。

述べた通り、人間は動物とは違う存在であるため、人生について葛藤し、与えられた運命に対して表現しようがない「つらさ」を感じる。

しかし、この「つらさ」は自分で自分の人生を変えていくことができる証左であり、この「つらさ」を全く感じないならば、人間は動物と大差ない存在となってしまう。

自己とは自己自身に関係する所の関係である。

セーレン・キェルケゴール「死に至る病」

と、デンマークの哲学者キェルケゴールは著書の「死に至る病」の冒頭で述べている。  

非常に難解な言い回しであるが、要するに「人間は自分自身を意図的に変えていける存在である」と哲学的に説明しているのである。人生は小さく大きな選択の連続である。この選択が正しいのか、間違っているのかわからない。しかし、今日のいまこの瞬間に選択したことが、遠い未来に意味を持つことを信じて生きたい。

この先どうなるかわからないが、わたしたちが生きている「いま」が正しいことを信じて生きなければならない。なぜなら、「この瞬間」が正しかったのか、あるいはとても悪い意味を持っていたのか、という意味合いは遠い未来に初めて理解することができるからだ。

一つずつの小さな現在が続いているだけである。

宮沢賢治

つまり、「いま」の善し悪しを評価することはできない。そして、その結論は遠い未来に委ねるほかない。その遠い未来を信じて、いまこの瞬間が少しでも意義のあるものにするために、わたしたちはこの瞬間を生きなければならない。しかし、この瞬間を生きるとは、将来に対する責任を放棄して身勝手に行動するという意味ではない。人はいまこの瞬間を生きると同時に、明日に対する責任を負っている。

しかし、「〇〇が〇〇になれば、わたしの本当の人生が始まる」という思い込みでは、本当の人生を生きることはできない。過去は過ぎ去ってしまい、未来は誰にもわからない。ただ、「現在」だけがわたしたちの所有物である。今現在の苦痛を耐え忍び、希望や幸せを未来に先延ばしにしているようでは、大切な本質を見失ってしまう。たとえこの瞬間に何一つ希望を見出すことができず、絶望の中にあったとしても、何か小さな光はあるはずだ。

例えば、朝起きたときに小さく聴こえる鳥のさえずりや、夜に遠くから聞こえるトラックの音、夕暮れ時に大空をオレンジ色に照らす夕日は美しい。どんなに小さなことでも、何か美しいものを見つけることで、いまこの瞬間の人生を少しでも有意義なものにすることができる。

わたしは「奇麗」という言葉が好きだ。誤解無きように「綺麗」ではなく、「奇麗」である。この言葉の英訳は思いつかない。

「綺麗」はすべてが美しく、整った形や概念を連想させるが、「奇麗」はやや醜く、残酷さの中に見出した美しさをイメージさせる。

宮崎駿が監督した「もののけ姫」では、タタリ神に村を襲われ、呪いを受けた青年アシタカが村から旅立つシーンで、壮大な朝焼けの美しい山並みの景色が描かれている。

このシーンは、不条理に村を襲われ、村を追放されたアシタカの真っ暗な内面とは対比の関係になっている。絶望の中のアシタカに、少しでも美しいものが世界にはある、ということを示すために、宮崎駿がアニメーターに美しい景色を描くよう注文を出したそうだ。

「奇麗」とは、このような絶望や苦しみの中に、少しでも小さな希望を探し出すことを意味するのだとわたしは思う。

わたしたちはアシタカのように、理由のない障害や災厄に苦しめられ続ける。

しかし、いまこの瞬間に、少しでも小さな光を見つけて、「奇麗」に生きたい。




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