時間と永遠

年を重ねるにつれ、時間の感覚は短説に覚えると大人たちは口々に呟く。確かに、子供のころは日々が一つの一生のように充実していた。朝に起きるは生命の誕生を思わせる希望だった。日が沈むまで興味が働くと共に野山を駆け回ったのが、つい昨日の出来事のように回顧させられる。いつかはやって来るであろう成人の時などは、永遠に到来しない、つまり一生子供のままで過ごす気分だった。

過去への憧憬や郷愁についての思索を巡らす度に、いつも考えさせられることは、時間と永遠の問題である。時間というものは、無限に移りゆくものである。つまり、この移りゆくものの他に実体はないのである。実体と書くと語弊があるが、時間は手で掴めるような物体ではなく、物事の間にぴったりと張り付いたような抽象的な概念である。

つまり、時間は確かに存在するものの、その実体を捉えることは難しい。その点から考えると、永遠などというものは、とても曖昧な概念で、人間の手で理解することは夢みがちである。「時間」が移るもので、「永遠」は不動のものだと仮定すれば、「時間」と「永遠」はお互い矛盾する概念になってしまう。

永遠の生命などはありえない。生命は無限の流転のうちに存在するのであって、生から死へ全ての生命が流転してゆく。永遠の生命があるとすれば、その生命はもはや、「死」である。永遠の生命は永遠の死に他ならない。そのような矛盾を孕んでなお、人類は有史の上で不老不死に対する希望は止まなかった。永遠の生命とはそれだけで矛盾であるのに、どうしてその矛盾を願って止められないのだろうか。

人間の考えというものは、二つのものが相対していないと出てこない。物事が一つだけだと、何も考える余地はない。つまり永遠に移りゆく生命と、矛盾した限りある生命の二つの矛盾が存在するからこそ、我々は不老不死について考える。つまり、生死を流転と考えること、それこそが永遠の生命を願う根源となるのではないだろうか。

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