鴨野橋子

毒親育ち。 会社秘書、新聞社、広告代理店と渡り歩いたが、2017年に婦人科系の病気で倒…

鴨野橋子

毒親育ち。 会社秘書、新聞社、広告代理店と渡り歩いたが、2017年に婦人科系の病気で倒れ、現在無職。 その間に父親が認知症になったため、遠距離介護を開始。 今は、毒親遠距離介護と自分の生活の立て直しを両立すべく奮闘中。

最近の記事

親の借金との戦いに、負ける気がしない

父の死にしんみりしたのは、ほんの2週間だけ。 今は、「くそオヤジ!」と叫んでいる。 それは、父名義の負債が発覚したから。 その借金は、父が30年前に家を建てている間に海外旅行にいったときの費用。家族全員が行ったのではない、父一人1ヶ月の海外旅行だ。その借金を30年以上も「利子だけ」を払ってきたことが今露呈したのだ。 この30年もの間、父は収入の一部をその返済に廻さず、骨董品や音響機器、車などを購入。そして、住宅ローンの返済には、姉や兄、わたしから「お金がないんだ、助け

    • 父が亡くなった

      あっけない幕切れ、というのはこういうことか。 昨年から、左足の水疱が消えると右足の水疱が消えるということを繰り返していた父の足は、水疱から壊疽を起こさないように毎日看護師のケアが必須となった。 訪問看護は週3回、デイケアで週3回、そして病院で週1回。 年末からかかさず看護師の方々がケアをしていた。 だが、その看護師の方々の懸命のケアにもかかわらず、 2月末頃、父の左足の薬指は壊疽の様子を呈した。 父は足に痛みを覚えていた。これは父の足先にまだ神経は通っており、 完全には

      • 本格的な認知症の介護がはじまった日

        ずいぶんとnoteを放置してしまった。 昨年の父の退院と自宅介護のあとはごたごたともめていたのだが、 今の状態に比べれば「ちっっさいなぁ」ていうレベル。そうするとついつい書けなくなってしまう。 その頃の父は認知症といいつつも、そこにあったのは「まえと変わりのない父」だった。腰がいたいときは「いたい」といっていたし、無口なのはあいかわらずだったけれど受け答えができていた。 でも、それがおかしくなったのは今年の春先だ。 2月末。母から夜9時過ぎに電話がかかってきた。いつも

        • 介護のゴール

          父が認知症と確定した日の翌週の水曜日。 姉と兄とわたしはファミレスで集まっていた。 これまでの父と母の様子を共有しつつ、今後の介護介入をどの程度やるのかを決めるためだ。 人によっては、大切な親だからということで会社をやめたり、プライベートを犠牲にして介護に身を捧げることもあるだろう。 だか、わたしたち三姉兄妹はそれは無理!とおもっていた。父のわがままのために金策や見栄のツールにさせられきた。また、母の八つ当たりのターゲットにされた。そのことで、あんなに苦しめられたのにどう

        親の借金との戦いに、負ける気がしない

          立派に認知症

          「立派な認知症だねぇ、これは」 初診でみるなりに言われる言葉とは思えなかったが、やっぱりね、という気持ちのほうが強かったわたしは、この言葉を聞いてもすごく冷静だったと思う。 -- 父の新しい血糖値コントロールの方法がきまり、退院の目処がたったのは、入院してから2週間後。当初の退院予定日の1週間をすでにすぎていた。この間、父のカロリーコントロールは無事にできていたのはよいことだと思っていた。だが、静かに進行していたのが、認知症。 入院途中から、頻繁に同じ話を繰り返す、間違

          立派に認知症

          病院は先生が紹介してくれるから?

          訪問看護導入を決めた医師との面談の後。退院後の生活のプランを作るコーディネーターとの面談があった。もちろん、母も同席だ。 コーディネーターには、父は東京の病院に3ヶ月おきに受診しにきていること、足腰が悪く、歩きにくくなっているコト、さらには認知症の疑いもあることを伝えた。この場でも母は「いかに自分が父の世話をがんばっているのか」「どれだけ大変なのか」を切々と訴えた。 ふんふんと聞いた後、それならば地元の病院にしたほうが…、とコーディネーターが言い始めたその時。母は、「いえ

          病院は先生が紹介してくれるから?

          次の更新は11月10日土曜日です

          更新が滞ってしまいすいません。 前々回の投稿にて、昨年の父の入院騒動まで説明しておりました。ですが、先週のこと。認知症、糖尿病、そして動脈硬化というトリプルの病気をかかえている父が、少し体調の悪化が激しく、かかりつけの病院から転院を促されることに。ですが、その転院先があまりにも遠いこと、さらに、第三者が見ても「いやそりゃないだろうよ」という医師の対応があったため、さらに転院するという事態に見舞われました。。 親だけでは対応しきれない転院手続きに駆り出され、先週からいろいろ

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          それでも介護する理由

          (前回の父の入院話の続きではなく、今回は毒親介護に関するわたしの思うことを書き連ねたい。父の入院話は次回に) 「毒親、毒親っていうひとさ、なんでも親のせいにして。親に甘えてるんだよ」 時々知人に言われるだけでなく、ネットでもちらほらとみかける言葉。この言葉を見かけるときに、わたしは少し間をおいてからいいたくなる。 「で?」 むしろ甘えベタ…… これはわたしの経験や、身の回りの毒親育ちを見ての知見なのですべての人に当てはまるわけではない。その範囲の中で、わたしは毒親育ち

          それでも介護する理由

          投薬プラン変更

          看護師に医師との面談に来るように指定された日。 私は母より先に病院につき、病室の父を見舞った。 今回の入院の目的は、「血糖値が安定しない原因究明」と「新しい投薬プランの確定」。血糖値が安定しない理由はわかったため、それに応じた投薬プランを医師が決める。そして、そのプランでなんとかうまく行けそうならば、退院指示が医師からでる。 つまり、医師との面談前の今はまだ退院指示はでていない。 だが、父の様子はおかしかった。 「明日、退院なんだよ」 いや、そんなはずはない。 そし

          投薬プラン変更

          毒母対応マニュアル

          「お呼び出ししてすいません。でも、私達もどうしたらいいんだろうと困ってまして……」 20代後半ぐらいだろうか。看護師は口をぎゅっとかみしめ、私に頭を下げた。 いえいえ、むしろこちらが事前に説明をしておかなかったので、とわたしも看護師に声をかけ、お互い大変ですね、とねぎらった。 父が入院している病院では、退院後の患者サポートプランづくりに力をいれている。そのためには、今どんな生活を送っているのか、どんな食生活をしているのかを把握したいというのが、看護師の目的だった。 その

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          毒母、本領発揮する

          「こちら、◯◯病院ですが、鴨野様宛にお電話しております……」 携帯電話を自分のデスクに置いたまま、別室の会議に参加して2時間後。 自分の席に戻ると、着歴が5件残っている。いずれも、父が入院している病院からだ。 入院をする際に必要な連帯保証人として、わたしは自分の電話番号を病院に伝えてあった。母への電話ではなく、その連帯保証人のわたしに電話があるということは、父に何か急変があったのか? 慌てて病院に電話をする。こういうときは毒親といえども、なにかあったのか?と考えると心臓

          毒母、本領発揮する

          認知症疑惑、さらに高まる

          父の入院前日。 姉が実家に行き、入院に必要な荷物をかばんに詰めた。パジャマ、下着類、洗面グッズ、スリッパなど。今回の入院は1週間ぐらいと言われていたので、その分の荷物をかばんにギュウギュウに詰める。母が着替えの洗濯のために、家と病院の往復をしないように済むためにだ。 そしてそれをわたしが受け取り、入院当日の朝に病院へ運んだ。父と母は入院手続きのために午前中に到着することになっている。わたしは仕事の関係で一度病院を去り、午後に再びくることにした。 そしてその午後。 入院手続

          認知症疑惑、さらに高まる

          はぁ? 再入院? 聞いてないって!

          やっと「認知症の病院に父を連れていく」と合意し、さて予約をしようかと思ったその瞬間。母から衝撃的な言葉がでた。 「5月はやめてね、お父さん、東京の○○病院に入院するから」 まったく聞いていない話だった。 父は30歳のときに糖尿病を発病。以来、血糖値があまりにも安定しない時は教育入院を受ける。カロリーコントロールが管理された食事により、血糖値が乱高下しないようにする。そして、退院後の血糖値コントロールを学んでもらうというのが主目的だ。 でも、入院は父のみならず、子供たち

          はぁ? 再入院? 聞いてないって!

          こっちの病院にいきたくない

          父が認知症かもしれないと疑い、姉や兄にメールを送った。ふたりとも驚きつつも、とうとうきたか、という感じでその事実を受け取ったようだ。 認知症を診てもらうためには、精神科にいかねばならない。そのことを母に伝えたら、案の定の大反対。 お父さんは認知症じゃない。 この辺に精神科なんかあるもんか。 精神科になんて連れて行きたくない。 ある程度の抵抗は受けるだろうと思っていた。母にとっては「精神科」というのは何をしているところかわからず、鉄格子が窓枠に張り巡らされていて、夜な夜な

          こっちの病院にいきたくない

          父、ひょっとして認知症かもしれない

          ああ、しんどい……。実家は、とてもしんどい。 中学生の頃からずっと抱いていた、実家に対する違和感。 それでも大学生までは親の庇護下にあったので我慢していた。 社会人になると、激務の仕事、一人暮らし、そして家庭をもつなどの 一連の「自立」により、そのしんどい思いをもつことは極力避けらていた。 しんどい理由、それは親の「クレクレ要求」が強いから。 「どうしてあたしのことを大切にしてくれないの」 「もっと会いにきてよ」「どっかつれていってよ」 という母の要求。 さらには、父の 「

          父、ひょっとして認知症かもしれない

          幸せになりたかった母の話

          「母親がしんどいんだよね」 毒親友達も含め、私自身も母親に悩まされてるので、 飲み会の時にときどきでるこの発言には、うんうんとうなづく。 母は、気が強く、人の話をきかない。 そして、怒鳴り、「わたしばっかりどうして損な役回りだ」と泣く。 強気と臆病がコロコロと入れ替わる。それがわたしの母、富子(仮名)だ。 富子は、4人姉妹の一番下で生まれた。 富子は幼い頃から、結婚を夢見ていたそうだ。 姉たちが勉学ができるほうだったのに比べて、学校の勉強があまりできなかった富子。常に姉た

          幸せになりたかった母の話