見出し画像

『水星の魔女』もうすぐ完結! これまでの感想と今後の予想 - ハッピーバースデーは呪いの歌なのか?

 『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(以下『水星の魔女』)のTVシリーズがもうすぐ完結する。2022年10月よりTV放送・配信が開始された本作は、全24話(プロローグを含め全25話)を予定しており、そのため残すところあと3話となった(本稿は2023年6月18日昼ごろ書かれており、第22話「紡がれる道」の直前である)。
 現時点で最新回の第21話「今、できること」では、クワイエット・ゼロの概要やスレッタの新機体「キャリバーン」の存在が提示され、きたる最終決戦に向けて必要な情報や機体、キャラクターやその立ち位置が明確になってきている。

 こんなタイミングだが、しかしこのようなタイミングだからこそ、これまでの『水星の魔女』を振り返りたい。この作品は、何をテーマとして描いており、またどのように着地するのだろうか。そのヒントは、「ハッピー・バースデー・トゥーユー」にあると、自分は考えている。

第21話までの振り返り

 第1話において、水星の魔女が提示したテーマは強烈だった。わかりやすく強調された家父長制的・男尊女卑の価値観がはびこる学園において、その仮想敵とされた俺様キャラのグエルを、転校生のスレッタがエアリアルに乗りコテンパンにするという形で、『水星の魔女』は鮮烈なデビューをかざった。「水星ってお堅いのね」というミオリネのセリフにも表れているように、これまでガンダム作品において抑圧されていたものに対する解放をうたう価値観、テーマがみてとれた。ガンダム作品という枠組み、また学園ものという漫画・アニメ作品の定番モチーフを使って、その「わかりやすい」エンターテイメント性を強く保持しつつも、明らかにこれまでのガンダム作品、および多くのロボット作品・戦争作品があまり射程にいれてなかった事柄をテーマにしようとしており、数十年来のガンダムファンとしてはいささか驚かされたものである。

 現在、21話目となって、打倒家父長制・抑圧されるジェンダーの解放という、第1話時点で示された鮮烈さは、残念ながら影をひそめてしまっている。それでも話の流れは、スレッタをはじめとした、社会構造的な要因により不条理に抑圧を受けているものたちが、どのように自身たちのアイデンティティを確立・取り戻すかに焦点をあて、それをさまざまな対立軸で描いている。家父長制に対する女性・子ども、そしてスペーシアンに対するアーシアンなど、本作における「魔女」とは、(当初よりもややフォーカスする点が曖昧になったきらいもあるが、)抑圧されてきたものたちを象徴する言葉として理解されるものであろう。

 その中でも、特にフォーカスされているキャラクターは、もちろんスレッタである。第17話「大切なもの」では婚約者のミオリネから「スレッタのためを思って」婚約を破棄され、第18話「一番じゃないやり方」では「リプリチャイルド」(おそらくクローン人間とほぼ同義と思われる作中の用語)という出自が判明し、また家族であるプロスペラやエリクト=エアリアルからは「解放」されてしまった。つまり、第17-18話においてスレッタは、これまで自分がよりどころとしてたものを、不条理に、全て奪われている。そんな彼女が、果たしてどのように自分を再構築して、社会構造に対抗し、そしてミオリネ、プロスペラ、エリクトらと関係をむすぶのかは、おそらくこの作品のメイントピックであり、ピークになるだろう。
 そしてスレッタが「自身」を取り戻した時、きっと「ハッピー・バースデー・トゥーユー」、それは「呪いの歌」などとSNSでささやかれているものだが、これをスレッタに対して誰かが歌ってくれると、個人的には期待している。


作中の「ハッピー・バースデー・トゥーユー」

 『水星の魔女』はSNSでの話題性に目配せした作品作りやプロモーションがなされており、Twitterなどでは毎回『水星の魔女』およびそれに関するワードがトレンドインしている。
 その中の一つに、作中で歌われている「ハッピー・バースデー・トゥーユー」(以下、「HBTY」)」は「呪いの歌」である、というネット上のネタが大いに話題となっている。その理由は自明で、作中で「HBTY」が歌われるたびにいずれかのキャラクターが死亡しているからだと思われる。しかし、「HBTY」は本当に「呪いの歌」なのであろうか。よくよく見返してみると、実はそうではないではないか。作中で歌われた「ハッピーバースデー」には、大きく3つある。

プロローグのハッピーバースデー

 まずPROLOGUE(プロローグ)の「ハッピーバースデー」を振り返る。バナディース事変の際、自分の死を覚悟したナディム・サマヤ(プロスペラ=エルノラ・サマヤの夫)が、それでも妻と子を逃がそうとしながら、本来その日におこなうはずだったエリクト・サマヤの誕生日を祝うべく、通信機ごしに「HBTY」を歌った。それには、誕生日を祝う気持ちはもちろんのこと、この先に迫害され、厳しい未来が待っているであろう子と妻に向けて、それでも生きてほしいという想いが込められていたものであろう。

スレッタからエラン4号へのハッピーバースデー

 次の「ハッピーバースデー」は、第6話「鬱陶しい歌」でスレッタが強化人士4号であるエラン(以下、エラン4号)に対して歌ったものである。その出自から、自身のアイデンティティの空虚さに無常感・劣等感をおぼえていたエラン4号は、自身には誕生日がないとスレッタに告げていた。それに対してスレッタは、「HBTY」を歌い、「今日を誕生日にするのはどうですか?」と提案する。この時点ではエラン4号の出自や背景を知らないスレッタだが、「HBTY」を歌うことで、彼の存在を受け入れようとするのである。その行為は、はじめはただエラン4号の逆鱗に触れるのみだったが、最終的にはエラン4号が昔の記憶(誰かに誕生日を祝われた記憶)=自身がよりどころとできるアイデンティティを取り戻すことにつながる。

エラン4号自身へのハッピーバースデー

 3つ目の「ハッピーバースデー」は、同話のエラン4号が、自分に向けて歌ったものである。スレッタに決闘で負け、「処理」される運命にあったエラン4号は、その最期の時にまでその歌を口ずさみ続けた。何者でもなかったように思えた自己を、そうではないと慰めるように、またそれに抗うように、自分の生を自身で肯定すべく歌ったものだった。

 以上のように、本作における「HBTY」は、総じて使われたシーンが悲惨ではあるものの、その作中での意味自体としては、誰かの人格や生命そのものを肯定するために歌われたものである。その意味で、(ネタとしては面白いかもしれないが)「HBTY」は決して「呪いの歌」としてあつかわれておらず、むしろその逆の「祝福の歌」と認識されるべきものである。

スレッタにとっての「ハッピーバースデー」

 そしてスレッタにとっての「HBTY」も、また特別なものであることが、上記の3つのシーンとは別に示唆されている。それは、本作の脚本家である大河内一楼著の短編小説『ゆりかごの星』(第一期オープニングテーマ曲であるYOASOBI『祝福』の原作小説)においてである。そこには、PROLOGUE後の水星での生活において、プロスペラが多忙を極めていたこと、そしてスレッタは11歳以降、誕生日を祝ってもらえなかったことが書かれている。

「お母さん、今度はどれくらいいられるの?」
「あなたの誕生日まではいられる予定。だから今年は、去年とあわせて二年分のパーティをやりましょう」
「やったあ!」
 スレッタが弾けるように言った。
 でも、スレッタがお母さんと誕生日を祝えたのは、この11歳の時が最後になってしまった。

大河内一楼(2022)『ゆりかごの星』水星の魔女公式サイト

 この経緯から推測するに、スレッタにとって、親しい人から誕生日を祝ってもらうこと=「HBTY」を歌ってもらうことは、とても特別なことであり、また強く望んでいる事柄なのかもしれない。エラン4号に誕生日を聞いたことや彼に「HBTY」を歌ったこと、第二期においてミオリネの誕生日に何度も言及していたことは、その表れとして描写されているというようにも解釈できる。

 それゆえ、ここから本作の今後を予想すると、自己/他者への肯定のシンボルとしての「HBTY」はもう一度登場するのではないだろうか。具体的には、スレッタが自分自身を肯定し、「逃げれば1つ、進めば2つ」以外の言葉で自分を「進め」させ、自身を抑圧してきたものに対して打ち克ったとき、この曲がスレッタに向けてはじめて歌われることが、容易に想像できる。
 「スレッタとミオリネが地球で結婚式を挙げて大団円」というラストは、本作が始まって以来、SNSなどでまことしやかに予想されている。しかし、そのようなありきたりなラストよりも、スレッタがプロスペラ、エリクト、デリング、ラウダ、ミオリネたちの抑圧に怒りを表明し、そこから自身を肯定し、そしてスレッタの望むかたちで抑圧してきたものたちとの関係を再構築(完全な破綻ももちろん選択肢だろう)するようなラストが、本作にふさわしいのではないだろうか。そしてその時「HBTY」が、新しいスレッタを祝福するものとして歌われることを、願ってやまない。

むすびに

 生(せい)そのものを肯定、祝福することが「HBTY」という歌の本質であり、『水星の魔女』の重要なファクターであると仮定したときに、ここからあなたは何を連想するだろうか。
 人によっては、生きることの肯定という事柄から、ガンダムシリーズ第1作である『機動戦士ガンダム』の次回予告の決まり文句「君は生き延びることができるか」を連想するかもしれない。
 一方で自分は、宮崎駿のある言葉を連想する。その著作『本へのとびら』で、宮崎は、岩波少年文庫などの児童文学という作品ジャンルの意義について、「生まれてきてよかったんだ」というエールを送ることにあると語っている。

要するに児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する批判的な文学とはちがって、「生まれてきてよかったんだ」というものなんです。生きててよかったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子どもたちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います。

宮崎駿(2011)『本へのとびら』岩波書店

 本作『水星の魔女』が、新しい世代のファン=若年層に向けた作品であることは、以前より製作サイドより語られている。その意味でも、おそらく『水星の魔女』の本質は、「人間の存在に対する厳格で批判的な」作品というよりは(もちろんそういう側面もあると思うが)、それよりも「生きていいんだ」というメッセージにあるかもしれない。
 本作がどのようなラストをむかえるのか、2023年6月18日の現時点では未知数である。先述したような、当初提示された・期待されていた物語・結末にならずとも、せめて次世代のガンダム作品視聴者のために、「生きていいんだ」というエールがその中心に据えられることを、いちガンダムファンとしては希望する。

(文: イツキ)


この記事が参加している募集

#アニメ感想文

12,230件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?