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“Dysthymia“と私のこと


とは

“Dysthymia”とは、"気分変調症"のことで、私が抱える精神疾患だ。以下が診断基準であり、因みに私はこの全てに当てはまってしまう。

・慢性的な気分の落ち込みが2年以上続いていること
・数日から数週間程度の回復期間があることもある
・気分の落ち込みは比較的軽症であること
以下の項目のうち、3項目以上の症状が存在すること
(1)エネルギーあるいは活動性の低下
(2)不眠
(3)自信喪失あるいは不全感
(4)集中困難
(5)涙もろさ
(6)セックス及び他の快楽をもたらす活動に対する興味あるいは喜びの喪失
(7)望みのない感じ,あるいは絶望感
(8)日常生活上の日課に対処できないという自覚
(9)将来に関する悲観,あるいは過去についての思い煩い
(10)社会からの引きこもり
(11)会話量の減少
引用:中根 允文ら/訳「ICD-10精神および行動の障害-DCR研究用診断基準 新訂版」



はじまり


私には、小学四年生の秋頃から希死念慮というものがあった。その漢字の通り、「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」と、毎日のように思っていた。きっかけは中学受験のことで両親と対立していたとか、塾に行くことの苦痛とか、そんなことだったと思う。その頃両親のことが大嫌いで(今は大感謝祭だけれど)、'この人たちの世話になっている自分'がそれ以上に心の底から嫌だったのだ。だからどうしようもなく消えてしまいたくて、死んでしまいたかった。

私は十分過ぎるほどの愛情を受けて育っていたはずだし、何不自由ない幸福な生活をしていたはずなのに。それなのに、毎日のように涙が出て、ハサミで手首を切ってみたりして、それが見つかって家族が悲しんでも怒ってもやめなくて、頭の中で幾度となく遺書を書いて、そうして、死ぬことを考えずには生きることが出来なかった。日々、泣くことより笑うことのほうが難しくなっていた。とにかく、生気のない日々を過ごした。



そのあと


 それでも、時間が薬という言葉がまだ私のなかにもあって、冬が始まり年が明け暖かくなり春が来る頃には、死ぬことを考えずとも生きられるようになっていた。(と、思う。)(記憶がいつも曖昧なのだ。)

しかし、秋にはまた、鬱がやって来るのだ。きっかけはもう覚えていないけれど。毎日泣いて毎日死ぬことを考えてしまう、そんな黒くて暗い波に飲み込まれる日々が。

そんなサイクルを何年も繰り返した。(この頃の私は季節性感情障害でもあったのではないかと今では思っている)

中学生までは、鬱状態になっても学校には通えていた。義務教育は、"絶 対 に 受 け な く て は な ら な い も の" だと思っていたし、鬱にも程度の差があったのだ。

酷くなったのは去年、高3のときで、ついに、学校に通えなくなってしまった。はじめは、笑えなくなった自分をクラスメイトや友人に見せるのが嫌で、でも取り繕う気力もなくて、サボりをした。そういうことは高2のとき(やはり秋)にもあった。しかし高3のそれからというもの、'義務教育ではないし、休むと早急に家庭に連絡がいくような担任ではないし、朝家を出るのは自分が最後だし、、'と、自分の怠惰を赦すための口実、にもならないようなものを並べて、学校に行かない日が増えていった。その一方で、頭の片隅ではずっと"行かなくちゃいけない"とも思っていた。それでも、朝起きて身支度をするということが、出来なくなっていた。"行かなきゃいけないのに行くことのできない自分"が嫌で、更に苦しくなった。これが単なる怠惰ではなく、""出来ない""病気だということをそのときは知らなかったから。(今でも怠惰ではなく病気なのだと、心から思うことはできないけれど、。)

友人たちはどんどん大学受験の準備をしてゆくのに、私はただ、立ち止まっている。立ち止まって、動けずにいる。"普通"のことが、出来ないで、いる。毎日いつやって来るか分からない悲しみや不安の波に怯えながら、精神状態は酷くなる一方だった。

その頃から、私に良くしてくれる友人たちにも、顔を合わせづらくなっていった。学校に行かなかったり、薬を飲んでいたり(過敏性腸症候群だった(いまも、だけど)、ので)、(たぶん)ずっと浮かない顔をしていたり、連絡をあまり返さなくなったり、心配させてしまっていることは分かるのに、自分でも自分の状態がよく分からないから言葉にして話そうとも思えず、ただ、何も出来なかった。

そんななかでも、防弾少年団は私を穏やかな海に連れて行ってくれる魔法使いだった。たりょらやボンボヤは私に自然と笑顔を取り戻させてくれるし、彼らのくれる音楽や言葉はいつでも私のそばにいてくれた。彼らは明日も生きていようと思わせてくれる一筋の光だった。彼らを好きだと思うことで、自分を保っていた。


結局姉の勧めで、3月までは大学受験をせずにカウンセリングを受けたり本を読んだり、"ゆっくりと"過ごして、自分の黒くて暗い波を"飼い慣らす"方法を身に付けるための期間とすることにした。そんなこと不可能なのに。



そうして何にも縛られずにゆっくりと過ごし、また時間と共に心が穏やかになってゆき、前向きなことも考えられるようになっていった。予備校を決め、テストも受け、席を置いた。きちんと、自分で。

そして大嫌いな学校の卒業式にも何とか出席し、何とか、卒業した。


そして4月から予備校に通い、浪人生として規則正しく生活する、はずだった。また波に飲み込まれるまでは。



4月から、

コロナでオンライン授業になっても、勉強をして、本も読んで、笑って、過ごしていた。

しかし6月、対面授業が再開される頃、また、黒くて暗い波に攫われてしまった。波を飼い慣らすなんて出来るわけがなかった。そのことに心の奥ではとうに気づいていたのに気づかないふりをしていたから、余計に苦しかった。

また、死ぬことを考えずに生きる方法が分からなくなって、泣くことより笑うことのほうが難しくなってしまった。泣くことのほうが楽だから、泣いてしまう自分が"ほんとう"なのだとさえ、思っていた。焦点が定まらずうつろな目をしていることも多くなって、ただ、ひたすらに悲しくなった。悲しくて、自分には未来などないように思えた。5年後?そんなものはないし、そのとき生きているなんて思えなかった。思いたくもなかった。未来が見えないから今したいこともなくて、今したいことがないから日々を繋げることが苦痛で、虚しくて、私は、死ねずに生きていた。

友人や知り合いたちとの連絡手段も全て絶った。"苦しい"の片鱗だけを見せてしまう、自分でも手に負えないほど煩わしい私を、忘れてもらいたかった。そんなことは不可能だと分かっていながら、でも、そう願ってしまうのだった。

ひどく落ち込んでいるときは、大好きな魔法使いたちのことも、遠ざけてしまいたかった。彼らに、向き合えなくなっていた。そんな自分も、嫌だった。ラブマイセルフがどこまでもできない。

対面授業が再開されても、予備校に行くことがひたすらに怖くて、授業や模試の会場を想像するだけで涙が出た。お腹もずっと痛かった。7月末に三者面談があって、とうとう病院を勧められた。

家族が病院に行ったり薬に頼ったりすることに抵抗があったので、1ヶ月はそのまま過ごしたけれど、8月末に高校の先生からも病院を勧められた。わたしも自分ではもうどうしようもない気がしていたので、行くことにした。合う病院が見つかるまですこし時間がかかったが、幸い今は通える病院がある。そこで、投薬とカウンセリングの治療を受けている。




いま

今は、比較的穏やかに、前向きに、笑って、過ごしている。やりたいこともあるし、それに向かうときには集中できるし、未来のことをぼんやりとだけれど考えることもできる。薬を飲まないとどうなるかは分からないけれど、薬を飲まなくてもたくさん笑って前を見て過ごすことができるように、練習をしている。魔法使いの7人に頼りすぎなくても、明日も生きていようと思えるように、練習をしている。練習と言っても特別なことは何もしていないけれど。ただ、昨日から明日へバトンを繋げて、たまに未来のことを考えるだけでいいのではないかと思っている。

まだ波に攫われることは多いけれど、最近はどの波も小さなものと思えるから、良しとする。




このnoteのIDが『please love me』なのは、とことん自己肯定感が低くてラブマイセルフが出来ない私だけれど、それでも、自分を許して、愛してほしいから、
Twitterの名前をnicoにしたのは、きっと心の底では、笑っている私が好きだから、。


今は、何も大層なことをしようとしなくていいから、ただ、息をして笑って、家族を悲しませずに生きていられたらいいな、と思っている。











p.s. また波に攫われてしまった私へ

それでもどうか、生きていて。自分を愛したいと、許したいと、笑っている自分が好きだと、そう思ったことがあることを否定しないで。どうか、生きることを選んでください。







2020.11.04 n