KURAGARI(千字戦一回戦)

 とにかく、自分がどちらに進んでいるのかを知らなければならなかった。むやみに歩いているうちに、声の反響さえなくなった。そんなに広い地下室など、ありえるだろうか。
 きっかけは蜘蛛だった。守衛室からでて、コンクリート打ちっぱなしの廊下を進んでいると、体長が小さなメモ帳ほどもある蜘蛛が、暗い奥の方から迫ってきたのだった。水風船のように膨らんだ腹部は、工事現場のトラバーを歪めたような模様で、自分は焦ってペンライトを取り落とし、すぐ右手には蹴上げの高い階段が下方の暗がりへと真っすぐ伸びていた。警備隊長から絶対にはいらないようにときつく言い渡されている場所だった。しかしそんなことをいっている場合ではもはやなく、自分はがむしゃらに階段を下りて、息の続く限り走ったのだ。そうしてなにも見えない中でしばらくじっと過ごした後、自分はもときた方向へと歩き始めて、すでにどれくらい経ったかわからない。一日、二日は経っているのかもしれないし、案外まだ二、三時間なのかもしれない。なにしろ指標がなにもない。
 眠る直前ですら経験したことのないような暗闇の中で、ふくらはぎの痛みを感じながら、小さい頃のことを思い出していた。当時は母の実家に住んでいて、あとから違法建築で建て増した地下室があった。覗き込んでいると、祖父に言われたのだ。
 「目が、みえるでしょう。底の方に」
 当時の自分には見えなかった。しかしあのとき祖父は、たしかにいまの自分を地下室の底に見ていたのだという確信が胸のうちに満ちていく。

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